454. 片翼の反旗、厳かに
心を無に、木々の合間を吹き抜けてきた一陣の夜風に身を晒す。
そこに紛れて冷たい敵意が首筋を撫でゆくも、一顧だにする必要もなし。
「本当に無抵抗で招き入れるとはな」
差し向けられてきた声に、瞼をあげる。
真っ白なドーム状の空間に、一人の男がいた。
ヴォルツクロウ。
この俺、フラム・アルバレットの精神領域にてその器たる肉体の支配権を賭けて戦う、黒の魔人。
しかしそいつの外見は、つい先ほどまでこちらが外の世界で目にしていたものとは、異なる部分があった。
「あん……? なんだアンタ。随分と様変わりしたな」
「む――」
思わずその変わりように口を開くと、鴉の頭をした人型が己の左肩側をチラリと一瞥した。
そう、鴉の頭だ。
俺が目を閉じるまでは人の形を象っていた頭部が、まるで別物と化している。
いや……違うか。
「そうか。その姿が本来のなり、魔人としての真の姿ってワケか」
「どうやら、その様だな」
こちらの問いかけに、ヴォルツクロウが微かな嫌悪の色を滲ませながら、曖昧な答えを寄越していた。
その様子を見るに、どうやらヤツにとっても自身の変容は予想の外にあったのだろう。
おそらくはこちらの精神領域に踏み込んだ際に、『変化』の術効が打ち消されたのだ。
しかもよくよくみれば、その肩幅は奇妙なまでに広い。
更にいえば、鴉頭の収まっている位置にも違和感があった。
「この期に及んでまたも師の真似事とは、忌々しい限りだ」
異形の貌であっても、尚それとわかる苛立ちを見せる魔人。
なにを言ってるのかは、まったくわからないが……
師という言葉が出てきたからには、マルゼスさんのことを指しているのだろう。
そして俺が、その真似をしていると。
それも「また」というのが、非常に意味深だ。
「なあ」
「なんだ。貴様のいう勝負とやらを始めるのではないのか」
「ああ、それは当然やるさ。でもその前に、少し質問してもいいか?」
「……いいだろう。私も丁度、聞きたいことが出来たところだ」
突如湧いてきた欲求を口に上らせると、意外なことに承諾の言葉が返されてきた。
油断せず、俺は頷く。
それに釣られたのか、ヴォルツクロウもまた首肯で応じる。
応じては来たが……
やはりそこには、大きな違和感があった。
黒の魔人の頭部。
鴉の頭が、体の中心にないのだ。
もっといえば、矢鱈と右側にずれている。
「質問があるのならば、先に言え。尤も、貴様の望む答えをくれてやるとは限らぬがな」
「……そうだな。なら、遠慮区なくだ」
こちらを見下ろしてくる鳥相の左半分には、色濃い傷痕があった。
火傷だ。
それもかなり深い、重度の火傷。
当然の如く、俺の脳裏を師の姿が掠めゆく。
同時に、ヴォルツクロウの右肩のみにあった闇色の翼を、『残されたモノ』として認識する。
火傷の広がり様。
残された片翼の翼。
そして首の位置。
「あんたのその首……」
それらを繋ぎ合わせて、俺は一つ目の質問を口に上らせていた。
「その左側にあった筈の首。叩き落としたのは、『煌炎の魔女』……つまりは俺の師匠、マルゼス・フレイミングだな?」
「……然り。あの女の手によるものだ。この傷もな」
「なるほど」
なるほど。
なるほど、なるほど……
これは中々に驚きで、そして納得でもある。
今の言葉で、十中八九、というところまで『ヴォルツクロウ』の正体は掴めた。
しかしまあこの際だ。
答えてくれるというのなら、聞くだけ聞いておいて損はないだろう。
その為に必要な記憶の扉へと、俺は手を伸ばす。
それは幼い頃に幾度となく彼女にせがみ聞かせてもらった、真新しい昔話。
子守歌でもあった武勇伝。
「たしか……聖伐教団・新約魔人聖伐行。煌炎の章、だったか?」
「――」
その名を口にすると、眼前の魔人が放つ気が圧力を増してきた。
どうやらこれは、大当たりというヤツだったらしい。
我知らず、俺は溜息を溢す。
それは何故か。
答えた簡単だ。
それは自分の予想が、的中させたところで何の喜びも湧かない代物だったからだ。
いや……むしろ暗澹たる気分にさせられてしまったというのが、正しいのかもしれない。
とはいえ、ここまで詰めておいて踏み切らないのも、これまた居心地が悪いのも確かだった。
仕方なく、俺は答えを求めて一度は閉ざした口を開く。
「双頭の魔人将、ニーグ。ラグメレス王国を滅ぼした魔人たちの統率者で……俺の師匠が、『煌炎』の二つ名を冠する切っ掛けになった魔人。それがアンタの正体か」
嘗て中央大陸一の強国と謳われた、王と騎士たちの所領。
千年王国とも称された、長き歴史を持つその国を滅ぼした、狂猛なる魔人。
残虐で奸智に長けたとされ、魔人の王の腹心と言われながらも、その再来を待たずして争乱を巻き起こし、多くの無辜の民を虐殺したそいつの名を答えとして、俺は眼前の魔人に問いかけていた。
だが――
「それは間違いだな」
「……は?」
予想外の言葉に、間の抜けた声が続く。
無論それは俺の声だ。
決めつけと断じるには、少々手厳しく思える予測を行っていたこともあり、そこで言葉が途絶えてしまう。
その様子があまりに滑稽だったのか、それとも単に、自身の素性を勘違いをされたことが気に入らなかったからなのか……
「言っておくが。私が好むのは、知勇を兼ね備えた一角の傑物だけだ。例えどの人類種であれ、そこに垣根を設けるつもりもなければ、それ以外の者を認めるつもりも毛頭ない。覚えておくがいい」
ヴォルツクロウが、不意に己の好悪を語り始めた。
対して俺は、戸惑うことしか出来ない。
確実と思われた推測を外したばかりか、唐突な語りを受けたことで、頭の中が真っ白になってしまっている始末だ。
「わけがわからぬ、という顔をしているな」
「う……そりゃあ、いきなりそんな事を言われても、反応に困るっていうかさ。というか……本当に違うのか? 聞いた話をまとめると、外れているとは考えにくいんだけどな……」
「諄いぞ、童。私の言葉を疑うか」
そう言われても、お前のことなんて知らん。
……などと終には、半ば難癖に近い言葉しか頭に浮かんでこなくなり、俺は渋々口を噤む。
「あのような粗暴で低俗な輩と、この私を見紛うとは。期待外れだったようだな。その様なことを口走るようでは、あのジングとやらと変わらぬぞ」
「ぐ……!? おま、それは幾らなんでもなぁ……っ!」
そこにヴォルツクロウが、うんざりとした口調でもって追い打ちをかけてきた。
確かに言われるとおり、こちらが予想を外したのであれば赤っ恥もいいところだが……
それにしても、あのアホカブトと同列に扱われるのには抵抗がある。
いやまあ、別にこいつからの評価が高かろうが低かろうが、問題はないのだけれども。
それにしたって、ジングのヤツと似たり寄ったりと言われるのは、心外どころの話ではない。
「なんだ、不服か? ならばこれまでの貴様の知勇を讃え、我が真名を教えてやろう」
そんな気持ちがこれまた顔に出ていたのだろう。
こちらが返事を行う前に、ヴォルツクロウが言葉を続けてきた。
「我は魔人の王のみならず、この世界に……『サーシャルード』そのものに、世の理、古き神々の定めた稚拙なる摂理に反旗を翻し者――」
ばさりと黒い外套と欠けた翼を打ち鳴らし、黒の魔人が名乗りを行う。
「双頭の魔人将が一首、ヴォルツクロウ・レプカンティよ。この私をニーグ如き愚物と違えるでない、小童が」
厳かな響きすら纏い放たれてきたその名に、俺は今度こそ、阿呆のように口を開きっぱなしとさせてしまっていた……




