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11・戦艦の再来

 2002年、北中国では経済の低迷と共産党一党支配に対する反発、各地の暴動や独立運動という混沌とした状態の中で政権交代が行われようとしていた。この年の党大会において選出された新たな主席は国内引き締めを第一とした政策を発表していた。


 しかし、翌2003年には北京において民主化運動が激化、天安門前広場に多くの民主化運動家が集結してデモ行進が行われていた。北中国政府は鎮圧に乗り出すために軍を投入して、その排除に乗り出したのだが、デモ隊は暴徒化し投石や火炎瓶攻撃、車両によるバリケードの構築などを行い3日にわたって抵抗を続けていた。政府はその行動を反政府行動と認定し武力行使を宣言するに至った。

 そのまま攻撃が行われれば虐殺の惨事が待っているのは誰の目にも明らかであり、国際的な非難が巻き起こることとなったが、政府はそうした外国の非難など一切耳をかさずに攻撃を実行へと移したのだった。


 この時北京に結集していたのは3個機甲師団と言われ、さらに掃討戦を行うために歩兵師団も待機していた。

 6月4日未明の作戦開始とともに3個機甲師団が北京市内を行軍し、天安門を目指した。デモ隊を完全包囲するように進んで行ったが、包囲網を形成し終え、いざ攻撃開始というときに、そのうちの一部の部隊がデモ隊ではなく、味方のはずである戦車部隊に対して攻撃を始める事態が起きることとなった。

 本来、後方で待機し、戦車の包囲をすり抜けたデモ隊を捕捉、殺害する目的で配置されていた歩兵部隊の中にも戦車部隊を攻撃する者が現れ、日の出を迎えるころには天安門を中心に市街地各所で戦闘が発生する事態となっていた。


 そして一部の部隊は共産党本部を占領、またある部隊は軍司令部で交戦を開始すると言った状態であり、誰が敵か味方かも定かではないほど混沌とした状態が出現していた。

 この混乱のさなかに脱出を図った主席は敵方、あるいは味方の誤射によってヘリを撃墜され死亡している。今に至るも誰が撃墜したかは定かではないのだが、主席の乗機が撃墜されたというニュースは瞬く間に世界へ配信されることとなる。

 これも非常に不思議なのだが、混沌とした情勢の中で、この情報だけは正確に、そして素早く発信されている。


 何はともあれ、この情報発信は北中国においてこれまで以上の混乱を巻き起こすこととなった。

 各所で軍や共産党幹部が中央からの離反を宣言し、政府への攻撃、あるいは自らこそが次期指導者だと表明する事態となった。

 それから二週間少々が過ぎた6月20日には大連の艦隊が出港、翌日には青島基地を襲撃し、基地施設や在泊艦艇に損害を与えて逃走するという事件が起きている。

 これが後に青島事件と呼ばれる事件である。


 この大連艦隊は旧式装備が多く、主力は180ミリ砲を装備したソ連の巡洋艦、キーロフ級を基にした上海級重巡洋艦4隻だった。180ミリ三連装砲3基を装備し、120ミリクラスの副砲が4門、後は近代化のために30ミリCIWSと携帯式対空ミサイルを艦載化した近距離対空ミサイルが装備されているという物だった。

 それ以外の艦艇は既に退役間近の旧式駆逐艦が8隻、これはソ連から供与された鞍山級で、未だ魚雷が主兵装のままという状態だった。


 このような艦隊で青島を襲撃した。青島には旧ソ連から供与されたミサイル駆逐艦やフリゲートが配備されており、戦力の上では青島艦隊が上ではあったが、無防備なところを奇襲されたのではひとたまりもなかった。


 その上、大連艦隊が逃げた場所も問題だった。


 なんと、青島を襲撃してそのまま東進、あろうことかコリアスタンへと向かったのである。そして、そのまま日本海へと逃走した。

 青島事件に際して日本海軍も監視はしていたものの、自国への被害が無い限り攻撃する訳にも行かず事態を静観していた。そして、大連艦隊の向かう先をグリッペンベルク改め、プサンと推定していたのである。

 しかし、あろうことかプサンへは寄らず、そのまま海峡を通過し、朝鮮戦争においても朝鮮海軍の根拠地となったウォンサンへと至ったのである。

 まさに悪夢の再来だった。

 相手はまともな対空兵装を持たないのだから航空攻撃を行えば簡単に撃破可能だった。日ロ共にそのことは理解していた。しかし、では誰が航空攻撃を実行するのか?という問題がそこに生じていた。


 冷戦中、ソ連は爆撃機をカムチャツカ半島から千島、北海道、東北と太平洋岸を南下させ、最終的に硫黄島周辺でUターンする、「東京急行」なる示威飛行を盛んに行っていた。

 対する日本も大型爆撃機富嶽をペトロパブロフクス・カムチャツキー近傍まで飛行させることを繰り返していた、これを東京急行にちなんでカムチャツカ・エクスプレスと呼んでいた。

 

 この行為に対し、両国とも盛んに戦闘機を発進させては接近させていた訳だが、もし、日本海の飛行が可能になったらどうなるだろうか?

 新潟急行やらウラジオストク・エクスプレスが行われはしないだろうか?


 双方ともに疑心暗鬼だった。爆撃機の飛ばしあいもほんの10年ほど前まで行われていたこと。日本海なら大型機ではなく、戦闘機でひとっ飛びなのだ。その事実は大きい。

 双方が艦隊攻撃の特例を認めたがらなかった。

 そのため、みずほ型が艦隊と対峙することになる。ただ、このような本格的な戦闘艦との対峙を想定していないみずほ型では、いざ戦闘が生起した場合、大きな犠牲を覚悟しなければいけなかった。


 そこで急遽、みずほ型に代わって本格的な砲戦が可能な’’戦艦’’の建造が立案されることとなる。

 当初は対峙する相手の主砲に近い20.3センチ砲が想定されたが、すぐに使用可能な物がなかった。巡洋艦の類は既に30年前には退役しており、今更使用可能な砲など現存していない。

 日本に存在する巨砲と言えば、みずほ型装備のものか、冷戦終結までに試作を終えていた36センチ自動装填砲のいずれかだった。さもなければ、陸軍は保有する重砲を艦載化する必要があった。

 ロシアも日本のこの動きに刺激されたように1960年代に計画がもとあがっていたクロンシュタット級後継艦の計画を引っ張り出してきた。


 北中国内戦と連動した第二次朝鮮戦争はそれから5年半にわたって続けられることとなる。

 そのあいだ、大連艦隊改め朝鮮海軍が日本海で行動することはほとんどなかった。仮に暴れていればどこかの段階で日ロは航空攻撃を決断した事だろう。しかし、幸か不幸か動かなかったからこそ、時代錯誤ともいえる戦艦計画が日ロで進められることとなったのである。

 こうして建造が決まったのが、今の第一船隊を形成するふそう型だった。

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