叙の五 青い瞳にサヨナラを ③
☆
’三五年〇五月一八日(約束の日まで、あと五四二日)
その日は、朝から景色が違って見えた。今日こそは、ハヤトにちゃんと告白しよう――この数日、ずっと思い悩んできた遥夏は、そう決意を固めていた。
幸か不幸か、その日に限って登校時に織子と出会うことはなかった。
待ち合わせ場所など、特に決めていたわけではないのだが、いつもは大抵、駅前のバスターミナル付近で合流することが多い。彼女と会っていたなら、たぶん“告白”のことを相談してしまっただろう。そして、悩みに悩んだこの決意を、結局はにごしてしまっていただろう。
そういう変わったな能力の持ち主なのだ、織子という輩は……。
今日は、織子がいなくて正解だった……後々、そう思えるに違いない。そして、今日はやたらと鏡や窓ガラスに映る自分に意識が向いてしまう。
特別、“変”ではないと思う。うん……いたって普通。
八時二十分――いつもより十分早く校舎に着いた。教室に向かう前に、一先ずトイレへと立ち寄る。余裕のなさからなのか、つい普段とは違った行動を取ってしまう遥夏は、念入りに髪へブラシを入れると、マウスウォッシュを数回プッシュした。
ヨシ、ハネてない……この、最終確認は大事だ。彼女の全身に緊張が走る。
教室では無理だ。みんなの前では、到底告白などできるわけがない。だったら、どうする? どこかに呼び出す? それしかないよね……当たり前か。
どこがいいか……体育館裏? 屋上? 不良の果たし合いみたいじゃない?
大丈夫かな? ハヤトはちゃんと、来てくれるかな?
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
ヨシ、いくか!
胸に手を当てた遥夏は、何度か深呼吸してから教室の扉を開いた。
☆
しかし……その“現実”は、最悪のタイミングで遥夏へと突きつけられる。彼女の『初恋』は、ハヤトの『転校』という結末で幕を下ろしたのだった。
「親御さんの、急な仕事の都合で――」
担任、土方教諭の口から言い渡された、それが唯一の理由。クラスメイトの誰にも告げず、ハヤトは遥夏の目の前から忽然と姿を消した。
つい昨日までは、この同じ教室でみんなと他愛のない会話を交わしていた。そして今日も、そのはずだった。朝にその姿を見掛けなかった時は、風邪でも引いたのかと彼の身を案じた。だが、実際はそうではなく、ハヤトは二度とここへ姿を現すことはないのだ。
(ハヤトの身に、いったい何があったというの? 昨日までは、なんの素振りも見せなかった……なにより、私はそんな話を聞いていない!)
「――!」
彼女は気がついた。彼の中で、自分が……自分だけは、特別な存在だと信じて疑うことのなかった自分自身に、気がついてしまった。
その時、たくさんの感情と共に、いっぱいのなにかが溢れて来るのがわかった。それは、目の前の景色を歪め、止め処もなく次から次へと湧き出ては、頬を伝って零れていく。
(私はまだ、ハヤトになにも伝えていない)
気持ちを確かめることもできずに、なにも告げずに彼は去っていった。
ただ、悔しくて、悲しくて……そんな想いが涙となって、いくら拭っても拭っても、後から後から溢れ出てくる。
この日、廣瀬遥夏は生まれて初めて、人目もはばからず泣いたのだった。
☆
その日の放課後、遥夏は『生徒会室』の前に立っていた。織子の情報が正しければ、昨日の放課後、ハヤトはこの場所に呼び出されていたという。
ノックをすると、中から若い女性の声で応答が聞こえた。意を決し入室する――そこには今年度、新たに選出されたばかりの生徒会長、神矢サヲリの姿があった。
「神矢さん……あなたに聞きたいことがあってここに来ました」
「どうぞ、お掛けになって」
サヲリから、椅子に座るよう勧められたが、遥夏はそれを無視するように咳を切る。
順を追って、わかりやすく……ハヤトのことを率直に問いただした。
昨日はどんな用件で、彼を呼び出したのか?
なぜ、なんの前触れも無く、転校という事態になったのか?
そして、彼の転校していった先はどこなのか?
だが、彼女から聞き出せたのは、担任からのものと、ほとんど変わらないものだった。それ以上、なにも聞き出せないことを悟ると、遥夏は静かにドアのノブに手を掛ける。
「聞いてくれて、ありがとう」
しかし、サヲリは泣き腫らした遥夏の表情を見逃すことはなかった。
「彼……ハヤト・アンダーソン君と、あなたとのご関係は?」
「特に、なにも……でも、神矢さんも同じクラスメイトなんだから、わかるよね?」
「そうね……想像はできるけど、でも、私に対して本音を明らかにしないでしょう? あなたも、彼も」
「……そうかもね」
この人は、何かを隠している……遥夏は直感的にそう感じた。そしてこの時、サヲリに対して感じた不信感を、遥夏はそれ以降も決して忘れることはなかった。
思えば、この日を境にして、遥夏はサヲリに対して、一方的な敵対心にも似た感情を持つことになる。
☆
’三六年〇四月一八日(約束の日まで、あと二〇七日)
池神織子に唐突の「バイバイ」を告げられた廣瀬遥夏は、ずっと思案を巡らせていた。
帰宅路を一定の距離を保ったまま、つかず離れず……かといって謎の転校生、倉田鞍馬は必ず遥夏を視線の届く範囲に置いていた。
(正体不明のこのストーカー男を、どうやって撒いてやろうか?)
真っ直ぐ家に帰るのは、どう考えてもはばかられる……それは自殺行為だろう。こんな、素性も知れない男子生徒に家を知られるのは、どうしても避けたい。
どうにかして、この状況を脱するしかない。
やはり、きちんと話し合って、しっかりカタをつけるべきだろう。でも、相手は素直に応じるだろうか?
それよりもまず、どうやって切り出せばよいのだろう。
思えば、昨日から相手を拒絶している一方だった。
この状況で、私から声を掛ける? いや、そんなのありえなくなくない? だって、不本意だし。
しかし、こちらから擦り寄らなければ埒が明かないのも現実。
ここからは、己がプライドとの葛藤になる。
……やっぱりパス。
考えるだけ無駄。
問答無用。
絶対無理。
受け付けない。
却下。
この上は、腕力にモノをいわせるしかないだろう。言葉が通じないのであれば、『肉体言語』によってこちらの意思を伝えるしかない。
だが、相手は曲がりなりにも一人前の『男』だ。 いくら変態ストーカー男とはいえ、クラスにいるほかの帰宅部男子とは雰囲気が違う。
昨日、腕を掴まれた時に相手の力の片鱗は理解できた。武道かなにかを嗜んでいるのかもしれない……そんな雰囲気さえ醸し出している。
いざとなれば、やるしかない。
こちらの武器は自慢の足だ。
“足におぼえあり”――だ。
走ることには多少の自信がある。逃げるのではない……追い駆けっこの勝負に持ち込むのだ。
そして、私は勝つのだ! ストーカー男に勝利するのだ。
見たか! 織子! 私は勝ったのだ! 見たか、織子よー! って……そういえば、織子の姿はどこにもない。
こんな非常事態に織子ってやつは……いや、他人に助けを求めるのはお門違いだ。決して、頼れる友人を作って来なかったことを悔やんでいるわけではない。
これは私の問題だ……だから、最期は自分で解決してみせる!
ぶつぶつと独り言を呟きながらも、遥夏は歩く足を止めなかった。それどころか、歩く速度はどんどんと増していく。
(けど、確かに見覚えがある気もするのよね……どこかで会ってるのかな?)
そんな遥夏の目の前に、タイミングよく市内を走る循環バスが止まった。これだわ! と思った次の瞬間、彼女はそれに飛び乗っていた。
(ひとまず、人の多い場所まで行って、後は折を見てタクシーで帰るしかないか)
バスの車内から遠ざかっていく鞍馬の姿を確認した遥夏は、ほっと溜め息をついた。
その時だった……。
「久しぶり。遥夏、元気だった?」
その懐かしい……そして聞き覚えのある声は、遥夏に優しく問いかけてきた。
(そんな……うそ……)
声の方に顔を向けた遥夏の視線の先――彼女の目の前に立つ少年の姿は、誰よりも一番に逢いたかった“あの時の、いつもの笑顔”で佇んでいた。




