プロローグ
10/9 第8章全話一括公開!
「ごほっ、ごほっ」
「大丈夫ですか、お嬢様」
薄暗い寝室に乾いた咳の音が響く。待機していた侍女が、ベッドに伏せる少女、セレディア・レギンバースを心配そうに見つめていた。
「……お水を」
「ただいま」
吸呑みを口に付け、少量の水が喉を通った。一口飲むのだけで精一杯。しかし、乾きを潤すには十分で、火照った体が冷やされたように感じられた。
「……ありが、とう」
「……どうかお早く、よくなってくださいませ」
ぼんやりとした瞳が侍女を捉えること数秒、セレディアの瞼はゆっくりと落ち、寝息を立て始めた。それに安堵しつつ、侍女は長く意識を保てないセレディアの様子に不安を覚える。
「お可哀想な方。せっかく伯爵様に引き取られて、憂いなく過ごせるはずでしたのに……」
なぜこんなことになってしまったのだろう。侍女は不思議でしょうがなかった。
(ルトルバーグ家のお茶会に行くまではここまで伏せることはなかったのに)
まさかルトルバーグ家がセレディアに毒でも盛ったのではないか。そんな疑念を抱いてしまうほど、セレディアの急変は明確であった。しかし、医者の診察によると毒を盛られた形跡は見つけられないとのこと。
症状としては重度の風邪に近いそうだ。異常なほど体力が落ち、免疫力が低下した結果ではないかと言われているが、そんなことがありえるのかといまだに侍女は懐疑的だ。
(神様とは残酷ね。こんな一人の少女に、当たり前の幸せさえ与えてはくれないのだから)
侍女は思う。いつもどこか寂しげで、だけど優しさを忘れない、新たに仕えることとなった主はそんな儚げな少女であった。
いつか本当に屈託なく笑う姿を見てみたい。侍女はそう考えていた。そして、そのためには父親の愛情が必要であることも理解していた。
だけど……。
(……伯爵様は一度お見舞いにいらしたきり。あれほど必死に捜されていたはずなのに)
亡くなった愛する女性との間に遺された一人娘、それがセレディアだ。娘に会えることをずっと待ち望んでいたことを侍女も知っている。
だというのに、実際に娘と会ってからの伯爵はあまりにも素っ気なかった。愛情表現が不器用とかそういう問題ではないように思えて、侍女は不安を募らせる。
(まさか、伯爵様はセレディアお嬢様のことを愛していな)
コンコンと、扉をノックする音がして、侍女は思考を止めた。不義を働いたような罪悪感に見舞われながら、侍女は足早に扉へ向かう。
訪問者はセレディアの護衛騎士、セブレ・パプフィントスだった。
「お嬢様のお加減はどうですか」
「先程少し水を飲まれ、今は眠っておられます」
「そうですか。こちら、知り合いの魔法使いに頼んで用意してもらった氷です。使ってください」
「まあ、ありがとうございます。額の布を冷やしましょう」
入室が許され、セブレは氷が入った桶をテーブルの上に置いた。ちらりと視線を向ければ、弱々しくも荒い呼吸をしながら伏せるセレディアの姿が目に映る。
セブレはつらそうに表情を歪めた。
「早くよくなってくださるとよいのだが」
「ええ、本当に」
氷水でしっかり冷やした布を絞り、侍女はセレディアの額の布を取り替えた。冷感が気持ちよいのか、ほんの少しだけ呼吸が楽になったように見え、侍女とセブレは安堵の息を零す。
「セブレ様、お気遣いありがとうございます。こまめに布を交換するようにしますわ」
「よろしくお願いします。氷がなくなったら言ってください。また用意しますので」
そう告げると、セブレはセレディアの部屋を後にした。
「……セブレ様のようにお嬢様に親身になってくださる方がいて本当によかったわ」
他の使用人とてセレディアを邪険に扱ったりはしていないが、セブレのように心から彼女に仕えてくれる者がいるかどうかは大きな違いだ。頼りになる味方がいることを侍女は喜んだ。
「布が足りないわね。少し取りに行かなくては」
今のところセレディアの状態は安定している。侍女は「すぐに戻ります」と呟くとセレディアの部屋から姿を消した。
そして、室内にはセレディアの寝息だけが響き――それがやんだ。
眠っていたはずのセレディアの体がゆっくり起き上がり、彼女の口から大きな吐息が零れ出る。
「……あれからまだ、聖女は見つからないか」
数日前、王都に解き放った魔物が聖女に倒された。それ以来、監視用の魔物を増やして捜索しているが、今のところ聖女の足取りは掴めていない。
セレディアは部屋の隅にある影をじっと見つめた。やがて影に魔力が宿り、影の奥からヤモリに似たトカゲ型の魔物、シャドウゲッコーが姿を現す。その数、九体。
「……行きなさい」
九体のシャドウゲッコーは三体一組となり、三つに分かれて部屋の中の影へと姿を消した。彼らは王都へ解き放たれたのである。
(よし、上手くいった。これで、私が直接ヴァナルガンド大森林へ赴かずとも、配下を増やすことができる)
九体のシャドウゲッコーのうち、新たに追加されたのは六体であった。最初の三体を自身の媒体として大森林に送り込み、彼らを介して六体のシャドウゲッコーを支配下に置いたのである。
「くっ」
唐突に目眩がして、ベッドに起こしていた上半身がグラリと揺れた。セレディアはどうにか踏ん張ってゆっくりとベッドに背中を預ける。
「……また、熱が上がったな」
新たに魔物を配下に加えたことでさらなる負担が掛かったようだ。魔力を使うたびにセレディアの肉体を負の魔力が蝕んでいく。
苦しく、とてもつらい……だが、セレディアは邪悪な笑みを浮かべてみせた。
「この苦痛が、レアの惰弱な心の声を遮断してくれる。我が名はティンダロス。聖杯実験器などという醜い肩書きなどいらぬ。我は魔王。魔王ティンダロス……ヴァナルガンドにはもったいない。その名は我がいただく」
息を荒げながら、セレディアとしての口調も整えず、ティンダロスは嗤った。
(……とはいえ、いつまでもこの状態というわけにはいかないな)
この調子を続けていれば、いつかこの肉体にも限界が来るだろう。やがて来る、聖女やヴァナルガンドとの戦いを考えれば、寝たきりでいるわけにはいかない。
(対策が必要だ。魔力を使うたびに肉体は内側から疲弊していく。この負担を相殺する力が……)
そこでふと、セレディアは枕元に目が行った。額に置かれていた布きれだ。さっき起き上がった時に落ちてしまったのだろう。
セレディアは弱々しい腕を伸ばし、その布をどうにか再び額に乗せた。まだほんのり残る冷気が額から熱を奪っていく感覚が心地よい。
そして、彼女は気付いた。
「ああ、そうか」
(どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう)
――内側の火照りは、外側から冷ましてやればよいのだ。
(……我が配下よ、動け。いや、蠢け。集めよ、負の魔力を……それを我が手に!)
王都に撒いたシャドウゲッコーの影が揺らめく。
そうして、メロディはおろかゲーム知識を有する転生者達さえ知らぬところで、闇は動き始めるのであった。
お久しぶりです。
個人的にとてもバタバタしておりまして、気が付いたら第8章の公開が遅れに遅れ、なんと10月10日のオールワークスメイド小説第8巻の発売直前になってしまいました。我ながらびっくりです……。
というわけで、発売直前ですが全話一括公開します。
ルシアナの番外編が途中ですが、後日再開します。少々お待ちください。
小説第8巻はWEB版第8章を加筆修正した内容となっております。
10月10日発売予定(紙の書籍・電子書籍)
巻末SS『素敵な休日の過ごし方』メロディとルシアナでワチャワチャするお話。
電子書籍版特典SS『ルトルバーグ領の冬』王都から領地に戻ったシュウのお話。
TOブックスオンラインストア特典SS『侯爵夫人のまちぼうけ』クラウドの姉クリスティーナのお話。
メロディとセレーナの素敵な笑顔が表紙の目印です。
よろしくお願いいたします。




