その十二 小説を書く為に
最後になって、このテーマ。もしかしたら、順序が違わない?
そう思われるかもしれませんが、これでいいのです。何故なら、「文章を書くこと」と「小説を書くこと」には、明確な違いがあるのですから。
そもそも「文章」は、何かを伝える為に書くモノです。それは自分の中の想いかもしれない。現実では決して言葉に出せない衝動なのかもしれない。それを言の端(言葉)に乗せたら現代ではそれだけで犯罪とされるものかもしれない。でも、誰かに伝えたい。
では、「小説」は?
そこには、作者の想いを仮託する「主人公」がいます。一人か複数かはそれぞれでしょうけれど。その主人公(たち)の行動、言葉、想い。それらを借りて作者の想いを伝えるのが「小説」です。それは、哲学的な「何か」かもしれません。或いは単に「楽しんで欲しい」という気持ちかもしれません。それどころか「読者の性衝動の発露」を求めているのかもしれません。それは、その作品それぞれに違うものでしょう。
そして、「小説の作者がその小説に込めたモノ」と、「小説の読者がその小説に求めたモノ」が、必ずしも一致するとも限りません。一致しないからといって不幸になるとも限りませんが。
作者は、その作品に哲学的な示唆を籠めていたのかもしれません。けれど、読者はそれを読んで「三発ヌけた」という感想をしか持たないかもしれません。これは、作者にとっては哀しいことかもしれませんが、作品としては「読んでもらえてよかった」という結果なのかもしれないのです。
作者の思惑通り読まなかったとして、それは読者が責められることではありません。その作品をどう読むかは、読者の自由ですし、その作品を読んでどう思うかも、また読者の自由なのですから。
けれど。「読者にこう思ってほしい」。それが、作者が小説を書き始めたきっかけなら。その通り読んでもらえなければ、作者は(筆を折る前に)心が折れるでしょう。その場合はどうしたら良い?
「読者」の気持ちを入念にリサーチし、その気持ちに沿うように書く。それも選択肢の一つでしょう。しかし、万人が好む小説などは決してこの世に存在しません。如何なるベストセラーでも、100人に読ませれば51人は「つまらない」と答えます。では、読んでくれる全ての人に気に入ってもらえるように書くには、どうしたら良い?
一つは、はじめからそういう嗜好を持った閉鎖的サークル内で公開する。
一つは、作者に好意的な感想を告げる人以外は読めないような環境(たとえば作者のHP内)で公開する。
一つは、はじめから読者の感想の全てをシャットアウトし、「読者は全て作者とその作品に好意的な感想を持っている」と妄信する。
挑発的な言葉を選んで使っていますけれど、これ、全て間違いとは言えないんです。
例えば、BL小説。
同人作品ではなく商業作品を例にとって語りますが、BL小説は、書店のどこに陳列されていますか? 経済書や純文学、戦記の棚の中には無いでしょう。多くの書店では「BLコーナー」を設けるか、或いは初めから「ラノベ・オタク向け」のコーナーを用意します。つまり、「BLコーナー」の前で立ち止まる人は、間違いなくBLに対して否定的な感情は持っていないのです。だから、「読んでいて裏切られた気分」という想いは、多分起きないでしょう。
ちなみに、筆者は少年時代には「コバルト文庫」を愛読していました。女の子視点の恋愛ものが中心でしたが、それでも結構楽しめました。が。
〔桑原水菜著『炎の蜃気楼』集英社コバルト文庫〕には泣かされました。
純粋な転生ファンタジー戦記と思って読んでいたら、詳細且つ写実的な男根の描写があり。
ストーリー的には面白かったから結構頑張って読んでいたのですが、最終的には耐え切れなくなりました。
閑話休題。
なろうでは、「異世界転生/転移」のジャンルが強い、とよく言われます。
筆者も、「異世界転生/転移」のジャンルで小説を書いています。
けど、筆者は作品を公開するにあたって、幾つかの小説公開サイトをリサーチしました。その結果、「異世界転生・ハイファンタジーならなろうが良い」と思ってなろうで公開することを選んだのです。つまり、「BLを売りたいからBL専門書店に営業をした」というのと、その意味では同じなのです。
ともかく。
そうして作者は公開する場を選びました。
そこで、また作者は考える必要があるでしょう。「何故、この小説を書く?」「何故、この小説を公開する?」
「小説家になろう」は、基本「小説家になりたい」という人が作品を公開する場、とされています。全員がそうとも言えないでしょうが、だから「小説家になる」のがその目的、という人もいるでしょう。
……目的。それは、終局的に辿り着く場所の事です。
「小説家になる」「書籍化し、自作を書店に並べる」。これは、本来「目的」ではなく「目標」です。つまり、そこがスタートラインであり、ゴールじゃないんです。
自動車教習所で卒業を目指すのは、それが目的ではなく、行動で車を走らせる資格を得る為だということと同じなのです。
実際、「自作を書籍化し、書店に並べる」ことは、そんなに難しくありません。原稿を書き、印刷所に持ち込んで製本してもらい、それを書店に置いてもらえばいいのですから。そうやって自費出版の本を書店に並べる人も、実は少なくありません。また同人誌即売会を通じて買ってもらってもいいでしょう。売り上げが良ければ、「小説家」を名乗っても誰も文句は言わない筈です。「商業作家」でも「小説家」を自称しない人は幾らでもいますし、逆に「同人作家」なのに「小説家」を自称する人だって幾らでもいるのですから。
では、あなたの夢見る「小説家」とは、どんな人でしょう?
プロの編集者、出版社に認められ、生活出来る額の印税の収入がある人。
多分、これ。
さぁそうすると、この平成28年中になろうで話題になった、「相互評価クラスタ」などは、莫迦ばかしいという話が見えてきます。
確かに、なろうのシステムを考えると、ランキング上位の方が書籍化は近いでしょう。
けど、プロの編集者、出版社が、相互評価で下駄を履いて評価だけ高めた作品に、価値を見出すでしょうか?
仮に編集者の目が節穴で、書籍化の声がかかったとして。読者はそんな「内輪ウケ」の作品に興味を持つでしょうか? そして、編集者の目が節穴だったとしても、出版社は業務として書籍を出版しているのですから、売れない本を売ることはありません。つまり、運良く一冊書籍化されたとしても、二冊目以降はもう期待出来ず、当然印税生活など夢のまた夢。
それどころか、その編集者は社内での評価を落すことになり、その原因を探します。そして見出した「原因」が、「相互評価クラスタによる上げ底評価」だとわかったら。その作者は、二度と書籍化の声掛かりはないでしょう。
結局、「評価を求める」のではなく、「評価される作品を書く」ことが、夢を叶える近道だということになるのです。
そして、評価される作品。
それは結局、「嘘のない作品」だと、筆者は思います。
「自分はハーレムには興味はない。けど、今はハーレムが流行りで、ハーレムならどんな作品でも売れるだろう。だからハーレムを書こう」
「自分はハーレムが好きだ。ツンデレも、いいんちょも、ドジっ娘も、世話焼き幼馴染も、高飛車お嬢様も、皆脈絡なく主人公に惚れるような、そんな作品が好きだ。世間でハーレムが流行っているかどうかなんか関係ない。自分はハーレムが好きだ。だからハーレムを書く」
……どっちの方が読んでいて面白いか。どっちの方が評価されるか。誰でもわかるというものです。
「目標の、8割達成を以て成功とする」。
こういう考え方があります。なら、
「なろうのランキングで上位に入る」というのを目標にしたら、ランク入りは出来ても、いつまでもランキング上位にはなれないでしょう。
「書籍化」を目標にしたら、ランキング上位に達することは出来ても、書籍化は叶わないでしょう。
「ベストセラー作家」を目標にしたら、書籍化は出来ても、ベストセラーには達しないでしょう。
あたかも、「ノーベル賞」を目指した研究ではノーベル賞を取れないように。
目標を高く持ち、そこを目指して努力すれば、その途上にあるチェックポイントは気付かぬうちにクリア出来る筈。
小さな山を目指しても意味はありません。
どうせなら、高い山を目指しましょうよ。
(3,446文字:2016/12/23初稿 2017/01/17誤字修正)




