第83話「大好きだよ」
神殿が揺れた。
霊脈を流れる魔力が津波のように大地の裂け目から飛沫を上げる。
何気なく空を見て見れば、心なしかメルセイムの大地がついさっきまでよりもくっきりと映っているような気がした。
まさしく破滅を目前にした光景だが、魔力を持たない一般人がこの異変に気付くことがないことだけは不幸中の幸いだった。
悠真は打ち立てられた十字架の前で足を止め、磔にされている妹の名を呼んだ。
「沙希……すぐに下ろしてやるからな」
沙希の手足を縛っている枷や鎖の正体は、天多が魔術でこしらえた代物だった。
魔術で形成されたものであるのなら、悠真にとっては粘土細工も同然だ。
「《解析》……硬度変更……《改編》――!」
術式を書き換えて物質硬度を低下させた。
鎖を素手で引きちぎり、倒れ込んでくる沙希を優しく受け止める。
大切な妹の背中に腕を回して、力いっぱい抱きしめた。
半日も経っていないはずなのに、随分久しぶりに触れたような気がして、思わず涙ぐんでしまいそうになった。
もう少しだけ、この幸せをかみしめていたいところだったが、あまりのんびりしている時間はない。
早く沙希を起こして、異世界の召喚を止めなければならない。
「沙希……おい、起きろ沙希! 助けに来たぞ!!」
「ん、んぅ~……あと五分……スヌーズがあるからだいじょーぶ……」
「大丈夫なワケないだろうがああああっ!!」
「うぎゃあァっ⁉」
悠真の強烈なでこぴんを食らって、沙希は涙目で叫んだ。
「いったぁーい……! ちょっとお兄ちゃんっ、起こすならもっと優しく起こしてよ⁉」
「こんな時まで二度寝しようとするやつに言われたくないわ! 俺がどれだけ心配したと思ってるんだ……!!」
「うっ……ご、ごめんなさい……でも私、信じてたよ。お兄ちゃんが絶対に助けに来てくれるって」
「え……? そ、そうなのか?」
「なんでそこで首を傾げかなぁ……」
「だ、だってお前っ、あの時俺が助けようとしたのに首振って拒否ったじゃないか……!」
「あの時って……あ、もしかして学校でのこと? あれはともちゃんが心配だったから、私より先にともちゃんを助けてあげてって言いたかっただけだよ」
「……は? じゃあ別に俺のことが嫌いになったとか、そういうワケじゃないのか……?」
「はあ? 何がどうなったらそういう発想になるの? 私がお兄ちゃんを嫌いになるワケないってば。お兄ちゃん、何か悪いものでも食べた?」
「い、いや……、そういうことじゃなくてだなぁ……! だって俺はお前を、その……」
戸惑ったような、緊張した様子の悠真。
こういう時の兄は大体何か言いにくいことを言おうとしてる時なのだ、と沙希は思考を巡らせる。
そしてピンときた。
「――ははーん。さては志摩くんが言ったことを真に受けたなぁ? 私がこんな危ない目にあってるのは全部おにいちゃんのせいなんだー、って恨んでるとでも思ってた?」
「うっ…………」
図星だった。
ぐうの音も出ない。
悠真の情けない反応に対し、沙希はあからさまなため息をついた。
「あきれた。ほんっとにあきれた。怒る気も失せちゃった。……お兄ちゃん、私がそんなこといちいち気にするような器の小さい女だって、本気で思ってるの?」
「思ってない。思ってないけど……俺のせいでお前が危険な目にあったのは事実だろ」
「だとしても、だよ。私がお兄ちゃんを嫌いになることなんて絶対にないから」
「――俺が、お前を殺してしまったのに……?」
振り絞るようなかすれた声だった。
冗談でも聞き間違いでもない。
沙希を見つめる悠真の瞳は、ひどく怯えていた。
……そっか。お兄ちゃんは、ずっとそれが訊きたかったんだね。
あの日、沙希が病室で目覚めて以来、悠真がこの話をしたことは一度もなかった。
話してしまえば、兄と妹という関係が壊れてしまうような気がしたから。
……あの日のことは、私たち家族の間では話題にしないことが暗黙のルールみたいになってた。どんなことがあったにせよ、こうして同じ時間を生きていられるならそれでいいんだって……。でも、多分それじゃダメなんだよね。
見たくないものは見ようとせず。
聞きたくないことは聞かなかったことにして。
空気を読んで一定の距離感を保ったまま、かたちだけは家族のふりをして。
そんな仮初の関係は終わりにする時がきたのかもしれない。
「お兄ちゃんは、私を殺したくて殺したの?」
「違う! そんなこと俺は思ってなんか……っ!」
「なら、あれは不幸な事故だったんだよ」
沙希は必死に否定する悠真の手を取って、自分の頭の上に乗せた。
「そして幸運なことに、私は今もこうしてお兄ちゃんに頭を撫でてもらえてる。ほら、私がお兄ちゃんを嫌いになる理由なんてどこにもない」
悠真の目尻に涙が溜まる。
しょうがないなぁ、と沙希が苦笑しながらその涙を拭った。
今までも伝えてきたつもりだったが、あらためてこの気持ちを言葉にしよう。
何度でも、何度でも。
彼が自分自身を赦せるようになる、その日まで――。
「私は、お兄ちゃんのことが大好きだよ」
「――沙希っ!」
悠真は涙を流しながら、沙希の体を抱き締める。
溜め込んでいた思いが涙と共にあふれ出す。
「ごめん……ごめんな、沙希っ……こんな兄ちゃんで、ほんとうにごめん……!」
沙希は小さくあいづちを打ちながら、悠真の謝罪を快く受け入れた。
本当は謝る必要なんてないのだが、いまはただ悠真の気持ちを受け止めてあげたかった。
「……俺も、沙希のことが大好きだ」
「うん、知ってる……お兄ちゃんってば、私が居なきゃホントダメなんだから」
「それは俺のセリフだろ。誰が毎日起こしてやってると思ってるんだ」
二人はしばらく見つめ合ったまま、やがてどちらからともなく笑い出した。
とても長い回り道の末、兄妹はようやく心を通わせて笑い合うことができた。
……沙希に嫌われたくないとか言いながら、俺が沙希のことを信じてなかったんだ。俺が一番、沙希のことを信じてあげなきゃいけなかったのに。
これからは何があっても、俺が沙希を信じるんだ。
兄だからじゃない。妹だからでもない。
俺が俺として、藤代沙希のことを大切にしたいと思っているから。
この気持ちにはもう、嘘はつかない――。
「お兄ちゃんにとっては嫌な記憶かもしれないけど、私にとっては案外そうでもないんだよ」
「どうして?」
「だってほら、『殺したいほど愛してる』ってよくいうくらいだし。実際に殺された私は、それだけお兄ちゃんに愛されてるってことになると思わない?」
「ばっ――、お前何言ってんだ……! 冗談でもそういうこと言うなよ! 大体、さっき俺が言ったは当然家族としてであってだなあ……!」
顔を赤くして恥ずかしがる悠真。
その背後で突然、ぎらりと何かが光った。
総毛立つような鈍い白刃の光に、沙希は目を見張った。
悠真の背後に忍び寄っていた天多が、握ったナイフを悠真の背中に突き立てる。
「お兄ちゃんッ――!!」
「え、うわあっ……⁉」
沙希に押し倒された悠真は、倒れながら天多の姿を視認した。
かなり憔悴した様子だった。
悠真はすぐに沙希を抱き起し天多から距離を取った。
血走った目で恨めしそうに悠真をにらむ天多。
噛みしめた唇からは赤い血がにじんでいた。
「これみよがしに見せつけやがって……。僕への当てつけのつもりか、藤代悠真……!」
「へぇ、お前にはそう見えたんだな。羨ましいならお前も自分の姉さんたちと仲直りでもしたらどうだ」
「今更できるワケないだろ、そんなこと。僕は捨てられた人間だ。本来ここにいちゃいけない人間なんだ」
「そんなことない!」
沙希は二人の会話に割って入った。
「私には魔術師のこととか、志摩くんの家のこととかはよくわからないけど……生きてちゃダメな人なんて、この世界のどこにもいないよ!」
「馴れ馴れしい呼び方を……。事情も知らないクセに、よくもそんな綺麗ごとが言えるな」
「言えるよ。だって少なくとも、私は志摩くんと仲良くしたいって思ってるから」
「…………は? どうして君が? 僕は君を利用したんだぞ?」
「うーん、どうしてって言われるとあんまり深い理由はないんだけど……多分、放っておけないんだと思う。いまの志摩くんは、なんだか昔のお兄ちゃんみたいだから」
「――――っ」
天多は絶句した。
赤の他人がどうしてそこまで自分のことを気に掛けるのか。
他人どころか犯罪者と被害者のような関係だ。普通は友人はおろか、知人にすらなりたいと思わないだろう。
どんな世界で生きていれば、こんなにも甘い考えが出てくるのか。
――いや、問題はそこじゃない。
「僕がそいつと同じだって? 冗談じゃないッ! 誰かに支えられていないと一人で立つことさえできないような奴と、僕を一緒にしないでくれ……!」
「お前だって、ずっと一人だったワケじゃないはずだ。こっちの世界でも向こうの世界でも……きっと誰かがお前の側にいたはずだ。そうだろう?」
「あぁ、そうだ、そうだとも。――その結果がこれさ! 捨てられて、利用されて、踏みにじられた!! 家も立場も失って、仲間だと思ってた人たちからも裏切られた!! だから僕も同じことをしてやるんだ。使えるものはすべて使って、何もかもをぶち壊してやるのさ――!!」
「だからって世界をめちゃくちゃにしてなんになるんだよ⁉ それに朝音さんから聞いたぞ。お前、実の父親を殺したんだってな」
「あぁ、そうだ。だからなんだっていうんだ。殺されて当然なんだよ、あんな男!! あいつは姉さんたちに……自分の子どもを産ませようとしてたんだからなあ!!」
「なっ…………⁉」
それは天多がメルセイムからこの世界へと帰還してすぐのことだ。
自分の意図したことではなかったにせよ、奇跡的に元の世界へと帰って来ることができたのだ。異世界のことを父に報告すれば、もしかしたら褒めてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱いて、天多は約三年ぶりに自分が生まれた家を訪れた。
そこで聞いてしまった宗慶の本意は、彼の中にわずかに残っていた家族への期待を打ち捨てさせるには十分すぎるものだった。
「僕が志摩家を継げなくなった以上、次期当主の座は姉さんたち二人のうちどっちかだ。だけど姉さんたちは召喚術が使えない。適性のない親から突然適性のある子どもが産まれるなんてことは滅多にない。だからあの男は、姉さんたちに自分の子どもを産ませようとしてたんだ。志摩の召喚術を守るためだなんていうふざけた大義名分のために、姉さんたちを使い捨てるつもりだったんだ……っ!!」
天多の握りしめた拳から血が滴る。
近親での交配は、魔術師の界隈ではそれなりに聞く話ではあった。
強い血に強い血を交配させ、より強大で特異な血を生み出す。
小学生でも思いつくような足し算の話を、嬉々として実行してしまう者は少なからずいるものだ。
もちろん、代わりに損なわれる可能性のある人間性や、発生しうる成長障害などはすべて度外視された。
そんな邪悪極まりない人間が身近にいる恐ろしさは、きっと誰にも理解できない。
天多は二人の姉がたしかに苦手で嫌いだった。
でもだからといって、二人が何をされてもいい理由なんてどこにもなかったはずで。
……産まれた時から生き方を決められて、その上で人としての尊厳まで踏みにじられて……そんなの、見過ごせるはずがないじゃないか……!
「だから僕が殺してやったんだ。姉さんたちがあの男に利用される前に、僕が終わらせてやったのさ!」
父親を殺すと決めた時、天多は生きる意味を見つけられた。
たとえ親殺しがどれだけ罪深い行いだったとしても、きっと彼は後悔してはいない。
誰に感謝されることもなく、天多は自分の道を突き進むことを決心した。
奪われるくらいなら奪ってやる。
「この世界には薄汚い悪意が満ちあふれてる。だから壊すんだ。誰も苦しまない。誰も奪われない。そのために僕が平等に――この世界の全部を終わらせてあげるのさ!」
――志摩天多という人間は、もうどうしようもなく壊れてしまっているのだ。
はじめはただの復讐心からだった。
それが憎悪や失望といったあらゆる負の感情によって、彼は自身の復讐を正当なものだと思い込んでしまった。
‟全世界を巻き込んだ八つ当たり”のような計画が、‟全人類の救済”へと形を変えたのだ。
……誰も悲しんだり苦しんだりしなくていいように……そのために世界を終わらせる? ――そんなことは、絶対に間違ってる……!
反論しようとした悠真より先に、沙希が胸を押さえながら叫んだ。
「……っ、そんなことしたら、せっかく助けたお姉さんたちまで死んじゃうんだよ⁉ それでもいいの⁉」
「誰かに傷つけられるくらいなら、僕が殺してあげるほうがいいだろう? ほら、君だってさっき言ってたじゃないか。――殺したいほど愛してるってヤツだ」
「あ、あれはそういう意味じゃ……!」
「無駄だ沙希。何を言ったところで、あいつの考えは変えられない。そもそも言って聞くようなら、こんなことにはなっちゃいないんだ」
「でも……でもぉっ……!」
涙ぐんだ沙希が悠真の袖を掴んで必死に訴える。
優しい彼女は、天多の矛盾した心にまで寄り添ってあげたかった。
だけど言葉は届かなくて、彼を止められるだけの力もなくて。
最後にはやっぱり兄に頼るしかない自分の無力さを嘆いていた。
「大丈夫だ沙希。俺があいつを倒して、異世界の召喚だって止めてやる。だから俺を信じて、少しだけ離れててくれ」
「お兄ちゃん……。うん、わかった」
沙希は悠真のそばを離れ、悠真は天多に向き直った。
これで心置きなく戦える、と悠真は袖をまくって残った魔力を体のあちこちから手繰り寄せる。
……術式装填による術式の引用はそう何度も使えない。使うたびに頭痛がするし、魔力もかなり消耗する。できてあと数回ってところだろう。使いどころはしっかりと見極める……!
優勢に見えて実は余裕のない悠真。
闇の精霊を失って影を操れなくなった天多。
罪を背負いながら生きることを決めた者。
生きる意味を見失って罪を重ね続ける者。
彼らの道は相容れない。
譲れないから、ぶつかるしかなかった。
……勝って、世界を終わらせる。そしたら今度こそ、僕は……僕だけの居場所を……!
「――取り込み中のところ悪いが、君の出番はここまでだ」
不意に、天多の背後で人影が動いた。
帽子を被ったその男は、手にした剣を無防備な天多の背中に突き刺した。
どすっ、という鈍い音がした。
「…………え?」
命を摘み取る音だった。




