第67話「奇跡の価値」
「いやー、まさか急に雨が降り出すとは思わなかったよー。ごめんねぇ、リビング濡らしちゃって。あとタオル貸してくれてありがとね」
「ど、どういたしまして……」
悠真はフィルフィーネの知り合いだという大型犬……もとい、狼を家に招き入れ、浴室から持って来たバスタオルで体をがしがしと拭いてあげた。
狼は気持ちよさそうにわふっ、と声を漏らした。
「――それで、どうしてアサネがここにいるのよ。アカネと一緒に家に帰ったんじゃなかったの?」
「うん、ちゃんと帰ったよ。そしたらちょーっと困ったことになっててさー……。フィルフィーネたちに話したいことがあったから、狼になって急いで来たんだ。――ちなみに、ここまではフィルフィーネの匂いを辿って来たんだー。どう、すごい? すごいでしょ」
「はいはい、すごいすごい……で、どうして人の姿に戻らないの?」
「一度全身を獣の姿に変えちゃうと、しばらくは元に戻れないんだよ。まぁ、そのうち元に戻れるから気にしないでいいよ。私、この姿も結構好きだから」
朝音は狼の姿のまま、上機嫌で尻尾を振った。
《獣化》で狼の姿になった彼女は、感覚や習性などすべてが狼の生態に準ずることになる。
なのでこうして尻尾の動きだけで感情の機微が読み取れてしまうし、発達した嗅覚で特定のにおいを辿るようなことも簡単にやってのけてしまう。
声だけは狼の声帯では上手く喋ることができないため、魔術を使って喋っている。
「――こほん。フィルフィーネさん、そろそろ私たちにもわかるように説明してもらってもいいですか?」
「あぁ、ごめんなさい。彼女が少し前に話してた姉妹の妹のほうで、名前が――」
「志摩朝音だよ。あさちゃんって呼んでね♪」
フィルフィーネの言葉に食い気味で割り込み、早速愛称呼びを提案する朝音。
けれど澪依奈は華麗にこれを無視。
「鷹嘴澪依奈です。よろしくお願いしますね、朝音さん」
「むー。鷹嘴のお嬢さんは相変わらず冷たいなぁ」
「おや、以前どこかでお会いしたことでもありました?」
「むかーし鳴滝市のお偉いさんが集まるパーティー会場でちょこーっとね。イヤーな顔して会場の隅っこにいたから、よく覚えてるよ」
「……そうですか」
「ちょっとちょっと! のんきににあいさつなんかしてないで、さっさと用件を話しなさいよね!」
「おっと、それもそうだね。……だけどその前に、ちょっと失礼――ふんふん、くんかくんか」
朝音は悠真の体に鼻をこすりつけるようにしてにおいを嗅ぐ。何かをたしかめるように、それはそれは念入りに。
「え、な、なに……? なんか臭いですか、俺?」
「あー違う違う。これはただの確認。……あー、やっぱりたーくんのにおいだ……」
……たーくん? 誰のことだろう。
「みんなはマクスウェルって人の正体が知りたいんだよね? ――たぶん、よく知ってるよ、私」
「ほ、本当ですか⁉」
「ホントホント。って言っても、私たちからしてもかなり驚きなんだけどね」
「……ねぇアサネ。それってつまり……」
「そう、全部お姉ちゃんの予想通りだったってこと。妹ちゃんを連れてった魔術師の本当の名前は――志摩天多。私たちの、実の弟だよ」
志摩家の人間以外誰も知らなかった長男の存在を、朝音は初めて部外者の前で口にした。
産まれて来たことさえなかったことにされてしまった、弟の存在を。
悠真と澪依奈が驚き戸惑いを見せる中、フラートだけは忌まわしそうに鼻で笑った。
「なにそれ。つまりあいつはあんたの身内ってこと? じゃあ、あんたもあいつとグルなワケ?」
「ううん、それは違うよ。だってたーくんは私が中学生になる前に、こことは違う世界に飛ばされちゃったから」
「こことは違う世界って――」
……メルセイム、だよな。
悠真がちらりとフィルフィーネの顔を覗き込む。複雑な面持ちだ。彼女にしても、寝耳に水だったのだろう。
フィルフィーネは後ろ手に拳を握って、小さなため息をついた。
……やっぱりあの世界にはまだ私の知らない秘密がある。
そう確信したフィルフィーネは一度深呼吸をして、正面から朝音を見据える。
「教えてくれる、アサネ。……どうして、あなたの弟が沙希を連れ去ったのか。あなたたち一家に、一体何があったのか。全部話してちょうだい」
「えぇ、もちろん。もとから私はそのつもりだしね」
「――その前に、まずはあんたたちの目的について聞かせなさいよ。どうしてそんな大事な話をわざわざ私たちに教えたの?」
「必要だったからだよ。私とお姉ちゃんのふたりじゃ、正直心もとなくてさ……。だから、フィルフィーネみたいな強い魔術師の力を借りたいの」
本来それは志摩家の人間としてどころか、魔術師としてとてもリスクのある行為だ。
生まれや家庭の事情などというものは外に漏らさないことが当たり前で、ましてや自分から部外者に語るなど、信じられない愚行だ。
現に澪依奈は目を丸くしているし、フラートだって朝音の話を信じられないと疑っている。
それでも彼女はここへやってきた。信用されないとわかっていながら、それでも頼りに訪れた。
もちろん茜音も了承済みである。
リスクなんて知ったことではない。
もう二度と会えないと思っていた存在が、間違いなくそこにいるのだ。だったらどんな手段を用いてでも、今度こそその手を取らなければならない。
だから彼女たち姉妹は家や立場などには縛られず、自身の意志のもとに行動するのだ。
すべては、愛する弟のために――。
「私たちの目的は一つ。たーくんを……弟を助けたい。ただ、それだけだよ」
†
闇夜下の、さらに底。人々に忘れ去れた闇の中で、沙希は冷たい空気に肌をなでられて目を覚ました。
「……んぅ?」
まず最初に目に入ったのは、焦げ茶色の天井だった。
どうやら仰向けで寝かされていたらしい。
とても高い天井は視界におさまりきらないほどに広い。ドーム球場ほどには広くないが、むき出しの鉄骨に支えられた壁や天井は、なんだか体育館のようだ。
遠すぎる天井の照明は、間接照明のようにこの広い空間をほどほどに明るく照らしている。
おかげであまり眩しくはないものの、ここがどこなのかはさっぱりわからない。
ひとまず体を起こそうとして、気付いた。手足に鉄の輪っかがはめられていて、そこから伸びた鎖によって体が台座に繋ぎ留められている。
「なにこれ……ふんっ! ぬぐぅー……! ふりゅう~……!」
どれだけ力をこめて引っ張ったところで、鎖はビクともしなかった。沙希が女性らしからぬ怪力の持ち主だったとしても、この鎖はきっと断ち切れない。
鉄の輪っかに鍵穴はなさそうだ。どうやってこれをはめられたのかもわからない。
……こりゃ抵抗するだけ体力の無駄っぽいね……。
身動きが取れない状態で、彼女は暇を持て余した。
「逃げられないってことがわかると、逆に冷静になるもんなんだだねぇ……。無駄な体力は使わずに、いつ助けが来てもいいように、漫画の主人公みたいに時間だけ数えてみようかな」
「それ、今の時刻かがわからないと無駄だと思うけど」
「……居たんだ」
「居るに決まってるだろう。僕が連れてきたんだから」
沙希が首を横へ傾けると、台座の陰にはしゃがんだマクスウェルの姿があった。
彼は魔力を込めた指先で、床に直接何かを描いている。
沙希は何を描いているのか確かめようと思ったが、寝たままの体勢ではよく見えない。
「ねぇ、背中が痛いから寝返り打ちたいんだけど、この拘束緩めてくれない?」
「……そこは普通、『私を逃がしてくれ』、とかじゃないのか」
「言ったら逃がしてくれるの?」
「そんなワケないだろう」
「だったら言うだけ無駄でしょ。だから無難な要求だけして、相手が譲歩してくれそうなラインを見極めるの」
「その思惑を口にした時点で、君の計画は破綻してると思うんだが」
「でも私と会話はしてくれてる。それって交渉はしないけど話は聞いてくれてるってことでしょ?」
「……僕が準備をしている間、暇つぶしに口を動かしてやってるだけさ」
「ほら、あなたが何かを準備してるってことがわかった。はい、私の勝ちね」
一体いつから勝ち負けの話になったのか。
文脈があるようでないような会話と、精々首から上しか満足に動かせない少女の笑みに、マクスウェルは心底困惑した。
「……僕が言うのも何だけど、君、自分が捕まってるっていう自覚ある?」
「あるよ。でもね、私こういう状況で怖くて震えて何もできない~みたいなやつって嫌いなんだよね」
「それは君の好きな小説の話?」
「……半分そうで、もう半分は私自身の話。助けてもらう側にも、助けてもらうだけの資格とか準備とかが必要なんだよ。だからこれは、ただの自己嫌悪なのかも」
「なるほど……まぁ、わからなくもないよ。僕も昔はそうだった」
「……そうなの?」
予想外の返答に、沙希は素直に聞き返した。
「そんな風には見えないけど……」
「僕にもそれなりに色々あったってことさ。じゃなきゃ世界を壊そうだなんて、普通は考えないだろ」
「世界を壊す……それがあなたの言う復讐なんだよね?」
「あぁ、そうだ。僕はこの世界とメルセイム、ふたつの世界に同時に復讐する。そのために長い時間を掛けてここまで準備してきたんだ。誰にも邪魔はさせない。もちろん君にもね」
マクスウェルは嬉しそうに言った。
邪魔が入ることは想定内だと言わんばかりの口ぶりに、沙希は唇を尖らせた。
「――それで? 私は一体何に使われちゃうのかな」
「それはまだ秘密。準備が整ってからの、あとのお楽しみだ」
「えぇー……それまで暇なんだけど。なにか話してよ」
「本来誘拐犯とこうして話しができてること自体がありえないとは思わないのか」
「だってあなた、私に興味ないでしょ?」
マクスウェルの手が止まる。
顔は伏せたまま、声のトーンが下がる。
「――――どうして、そう思ったんだ」
「目を見て話してればわかるよ。あなたは『聖女』が必要なだけで、私『個人』のことはどうでもいいって思ってる。だからこうして会話してても、私には何の感情も向けてこない」
「……すごいね、それだけでわかっちゃうんだ」
「小さいころから色んな目で見られてたからね。自然とそういうのがわかるようになったの」
「あぁ、そういえば『奇跡の少女』とか言われてたんだっけ」
「――やめて」
今度は沙希の声のトーンが下がった。
表情からは笑みが消え、嫌悪と拒絶の眼差しがマクスウェルに突き刺さる。
「その呼び方、嫌いだからやめて」
「……言われなくても、もう呼ばないよ。だから君も黙っててくれ」
「……わかった」
それ以降、二人が言葉を交わすことはなかった。
沙希は無言で天井をじっと見つめていたし、マクスウェルも黙々と魔法陣を刻み続けた。
――奇跡なんてものはこの世界にはないってことさ。
マクスウェルは手を動かしながら、悠真に言ったことを頭の中で反芻していた。
あらゆる事象を探求し、あらゆる現象を解明することで、魔術の発展に結びつけるのが魔術師で。
その探求の果てに辿り着いた己の答えを示す術を、《魔術》と呼んでいるのだ。
ところが奇跡というものは、それらを簡単に無下にする。してしまう。
安っぽくて、つまらなくて、くだらないもの。
それが奇跡と呼ばれる再現性のないイレギュラーの正体だ。
計算式をすっ飛ばした解答に価値がないように。
魔術師は奇跡を認めないし、求めてはならない。
……奇跡にすがりつくような魔術師を、僕は否定し続ける。そして必ず、魔術師としての僕の価値を証明してみせるんだ。
何度も心の中で唱えた誓いは彼の信念となり、彼が歩む道そのものとなった。
辛く険しい孤独な旅路……そのはじまりは、彼の十歳の誕生日だった。
――十歳の、最低最悪の誕生日。
それがマクスウェル……志摩天多にとっての始まりであり、すべてを失った運命の一日でもあった。




