第60話「影を踏む足音」
「ごめんなさい藤代くん。放課後まで付き合わせちゃって」
授業は終わり、すでに放課後。
西日が校舎を照らす中、悠真は誰もいない学校の廊下を担任教師の近江実夕と一緒に歩いていた。
「司書の先生から急に頼まれちゃって……私一人じゃ終わりそうになかったから、本当に助かったわ」
「いえいえ。図書室の本棚の整理なんてなかなかやる機会ないですから、正直ちょっと楽しかったです」
悠真が頼まれたのは、図書室の本棚から古い本を抜いて、新しく購入した本を棚に差す作業だった。地味な仕事だが広い本棚の中から特定の本を探し出す作業は、思ったよりも難しく時間が掛かった。
作業を終えて図書室を出てみれば、外はすっかり夕焼け模様。
白い廊下を埋め尽くすほどに、二人の影は長く伸びている。
「……ところで、藤代くんは将来の夢ってある?」
「なんですか、藪から棒に。昔はあったかもしれませんけど、今は特にないです」
「やりたいこととか、興味があることとかは?」
「……先生、歩きながら唐突に進路相談始めないでくださいよ」
「あはは、バレちゃったか」
実夕はわざとらしく笑った。
図書室でもチラチラと悠真に視線をやっては何か話しかけようとして、けれどなかなかタイミングが掴めずにいた。
結局こんなタイミングで露骨な話の切り出し方をされれば、悠真でなくても実夕の言いたいことはなんとなくわかってしまう。
「――そんなにダメでしたか、俺の進路希望は」
「い、いいえそんな……ダメってことはないのよ。ただね、藤代くんの学力ならもっと自由に大学を選べると思ったから」
「俺は自由に選んだつもりなんですけど」
「でも君が書いた大学って、全部自宅から通える範囲ばかりだったでしょ。それはどうして?」
「…………実家から通える方が楽じゃないですか。行きたい大学も特にないですし」
言い訳のような回答に、実夕は少し寂しそうにそうね、と頷いた。
「もちろん、それもひとつの考え方だと先生も思う。実際そういう子もいる……だけどもし、藤代くんが本当にやりたいことを見つけた時は、遠慮なく先生に相談してね。こういうのも私のお仕事なんだから」
「…………見つかれば、いいんですけどね」
「見つかるわよ、絶対。まだあと一年以上あるんだから」
前を向いたまま真顔で歩く悠真に、実夕は優しく微笑みかけた。
その根拠のない笑顔が眩しくて、悠真は逃げるように視線を窓の外へとやった。
……将来の夢なんてあるはずない。だって俺は、沙希のために生きなきゃいけないんだから。
一秒でも長く、沙希のすぐ側で彼女を支える。
それが藤代悠真の生きる意味であり、存在意義のすべてだと悠真自身が定義した。
自分のやりたいことなんて、沙希の幸せの二の次、三の次くらいのもの。
……本当は、沙希と同じ大学に行きたい。でもそのせいで、沙希が本当に行きたいと思う大学に行くのを遠慮してしまうかもしれない。それはダメだ。沙希には沙希の人生があるんだから、俺のせいで沙希の意志を変えてしまいたくない。
悠真は自分の考えが間違っているなどとは微塵も思っていない。
本人の意思とは無関係に、藤代悠真は兄という役割を全うしようとしている。
その異常さを誰も指摘してあげられなかったことが、一番の悲劇かもしれなかった。
――キーンコーンカーンコーン。
二年二組の教室の前で、下校時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
時刻はすでに十七時。予定より遅くなってしまった。
教室で待たせたままの沙希の機嫌が悪くなっていないかと、悠真は心配になった。
早くカバンを取って沙希を迎えに行こう。
そう思って、悠真が教室の扉に手を掛けた。
――バサッ……。
「え?」
その時、何かが床に落ちる音がした。
悠真が振り返ってみると、実夕が持っていたファイルやプリントを落とし、壁にもたれ掛かるようにして座り込んでいた。
「先生……?」
ついさっきまで普通に歩いていたはずなのに――。
悠真はすぐに彼女に駆け寄り、今にも倒れてしまいそうな体を支えた。
「ど、どうしたんですか先生?」
「わか、んない……けどなんだか、すごく眠く、て……」
「眠い? こんなところで? ……ちょ、ちょっと先生! 先生っ!!」
悠真の声に答える力もないのか、実夕はまぶたを閉じてすぐに寝息を立て始めた。
だがその表情はとても穏やかではない。
まるで悪夢でも見ているかのような苦しい表情をしている。
悠真がどれだけ体を揺すり声を掛けても起きる気配はない。
……疲れて眠っただけには見えない。一体何が起こって……⁉
悠真の背筋にぞわりと悪寒が走った。
誰もいないはずの廊下を、ゆっくりと振り返ってみる。
そこにあったのは、夕陽に照らされて浮かび上がった自分たちの影――。
――その影が、人の形を成して立っていた。
「な…………」
突然の事態に思考が追いつかない。
いつもと変わらぬ風景の中、異形の存在がこちらを見ている。まるで怪異譚のワンシーンだ。
いや、そもそもあの影に目や口なんてあるようには見えない。影は悠真のシルエットを切り取ったかのように真っ黒で、人の形をしている以外にこといった特徴はない。
見られているように感じるのは、悠真があれに恐怖しているからだろうか。
恐怖心は次第に、悠真を冷静にさせた。
……あれはどう考えても魔術で生み出されたものだろうし、少しだけど魔力の流れも感じる。〈協会〉が学校にまで攻め込んできたのか? でもなだか全体的に魔力が濁ってるような気も……いや、細かい分析はあとだ。今はとにかく先生を守らないと……!
悠真は実夕の体を床に寝かせ、彼女を守るべく前に立つ。
そして、威嚇するように影に向かって叫ぶ。
「止まれ! それ以上近づくな!」
「……………………」
影は何も答えない。口がないのだから当然だ。
影はゆらゆらと体を揺らして、一歩ずつゆっくりと近づいてくる。
べしゃり、べしゃりと泥水の中を這うような音がした。
すると次の瞬間には、何の予備動作もなく突然影の右手が伸びた。
影は鋭利な刃物のように尖っていて、油断していた悠真の左腕の皮膚を切り裂いた。
「ぐっ! こ、こいつ、自由に体を変えられるのか……!」
傷を押さえて怯む悠真に、今度は影の左手が伸びる。
さっきは不意打ちゆえ攻撃を食らってしまった悠真だったが、冷静に見れば攻撃の速度はそれほど速くない。
悠真は上体を逸らして影を避けた直後、すかさず魔術を起動する。
「――《解析》!」
青白い魔力光が迸り、人影を形作っているであろう術式を読み取る。
しかしそのせいで、悠真はさらに混乱する。
「何だこれっ……術式が文字化けしてる!?」
読み取った術式は、術式の体を成していなかった。
文法が違うとか、計算式が違うとか、そういう話ではない。まず言語として成立していないのだ。
これがどうして魔術として成り立っているのか、この影がどういう仕組みで動いているのか、悠真にはさっぱりわからなかった。
悠真が混乱している間に、人影は両手の影をメジャーのように高速で巻き取った。
すると人影の頭部だと思っていた部分が、両手同様に刃となって伸びたのだ。
「お前そこ顔じゃないのかよ⁉」
思わずツッコんでしまう悠真は、非常識な存在相手に常識の枠組みを当てはめることがそもそもの間違いだと気付いた。
伸びる影を身を屈めてかわし、流れるように床を蹴って影の懐へと潜り込む。
右腕をぐっと体に引き寄せて力を溜める。
……身体に魔力を流して、右手に集中させる……!
「うおおおおおっ!」
魔力を込めた拳で、影の胴体と思われる部位を殴り飛ばした。
煙を殴ったかのような手応えに顔をしかめる悠真。
やはり通常の攻撃では意味がない……と予想していたのだが、飛び散った影が元の形に戻る素振りはない。
人の形を保てなくなった影は、そのまま闇に溶けるように跡形もなく消えてしまった。
「……よかった、普通の打撃が有効で助かった。それにしても、一体誰がこんなことを……」
〈協会〉がまた攻めてきたのかとも思ったが、恐らくそれはないだろう。放課後とはいえまだ生徒の多い学校で、こんな目立つマネをするとは思えない。
あの時のような結界もないし、これは〈協会〉とは無関係な別の誰かの仕業なのではないか、と悠真は推測する。
「……待てよ。たしかフラートの言ってた魔術師って影を操るんじゃなかったか? じゃあこれがその魔術師の仕業だとして、狙いはなんだ? ここには〈協会〉に関係するようなものなんて……」
――べしゃり。
再びあの泥水の中を這うような音がした。
悠真がしまった――、と思った時にはすでに実夕のすぐ後ろに、さっきと同じ人影が気配も何もなく立っていた。
見ればなんとなくだが、さっきの人影とはシルエットが違うように見える。
さっきの人影は悠真の影から現れた。ということは、今度の人影は実夕の影から現れたのではないだろうか。
……って、そんなこと冷静に分析してる場合じゃないだろ!
「――先生ッ!!」
悠真は床を蹴って実夕を助けようとした。
しかし、すでに人影の手は眠ったままの実夕に向いている。
武器を持たない悠真には、この距離を一瞬で埋める術はない。
……間に合わないっ……!
そう諦めかけた次の瞬間――。
「どおりゃああああああああああああ!!」
聞き馴染みのある声と共に、竹刀を持った男子生徒が人影を背後から一刀両断した。
健児だ。
なぜか竹刀を持って現れた健児は、真っ二つになった人影を横一閃に散らすと、竹刀を肩に担いで、
「またつまらぬものを切ってやったぜ……」
と、いつか言ってみたかった決め台詞を、ここぞとばかりに言ってみせたのだった。




