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第59話「『ヘカーティア』」

「爪⁉ いたっ……!」


 フィルフィーネはとっさに身をよじった。

 爪は彼女の胸をかすめ、脇腹を抉った。

 ぼたぼたと流れ出る血を止めようと、フィルフィーネは左手で傷口を押さえる。


 ……出血は多いけど、見た目ほど傷は深くないわね。それよりも……。


 顔を上げれば、さっきまでとは違う格好をした朝音が立っている。

 獣の耳と尻尾を生やし、両手と両足には鋭い爪を備え、にやりと笑う口元には異常に発達した犬歯がのぞいていた。


 ――人狼ワーウルフ


 彼女の出で立ちは、メルセイムでも度々見られる魔獣のそれと酷似していた。

 フィルフィーネは表情を強張らせる。


「もう、お姉ちゃんが余計なこと言うからバレちゃったじゃん」

「あなたの攻撃が単調なのよ。もっと相手をよく見なさいな」

「はーい」


 戦闘中でもふたりの調子は相変わらずだ。

 フィルフィーネは傷付いた脇腹を魔術で塞ぎながら、朝音の姿について尋ねる。


「それがあなたの本当の姿ってことでいいのかしら」

「違う違う。これは《獣化ビーステリア》で狼に変身してるの。食べた動物の特徴や能力を得られる私のお気に入りの魔術なんだ。どう、かわいいでしょ~」


 朝音は耳をピコピコと動かし、尻尾を振ってみせる。可愛らしい動きだが、爪に付着したフィルフィーネの血のせいで可愛さが打ち消されてしまっている。


 ……いまの彼女は半獣半人とでも呼ぶべき存在。狼の爪と牙、そして運動能力も得ている……となると、さっきまでの怪力はまた別の動物のもの? 多分いくつもの動物の力をストックしてるんだわ。戦闘中に能力を切り替えられるのは厄介ね。変身してられる時間か種類にでも制限があればいいのだけれど……。


「応急処置は終わった? それじゃ、第二ラウンドいっくよーっ!」

「……っ、まだ途中だってのよ――!」


 今まで跳ねるように移動していた朝音だが、今度は地面を這うように四足歩行で近づいてきた。

 すでに半解凍気味の地面を爪でがっしりと捉え、左右に素早く切り返しながら距離を詰めてくる。

 すれ違いざま、彼女の爪が何度もフィルフィーネを切り裂いた。

 フィルフィーネは朝音の動きを目で追って懸命にさばいてはいるものの、その圧倒的な手数に防御が追い付かない。

 普通、狼は前足を用いて攻撃してくるが、朝音は人間だ。両手の爪に加えて蹴り技を混ぜてくるため、非常に対処しづらい。人間らしい体術に、獣らしい異様な動きが合わさって、フィルフィーネは朝音の攻撃を読むことができない。

 回し蹴りを叩き落とすと、今度は左手の爪が伸びてくる。これをさばくと次は右足が脇腹を掠めた。


「くぅ……なんて動きっ!」


 不用意に槍以外で防ごうとすれば、そこからバッサリといきかねない。

 不自由を強いられる戦いに、フィルフィーネは奥歯を噛み締めた。


 ……蹴り技は私の十八番おはこなのに!


 フィルフィーネも時折槍を突き返すが、攻撃を当てる以上に隙を晒すリスクの方が高かった。

 攻撃を当てた数より食らった数の方が多くなっていく。

 何十合ものやり取りの結果、フィルフィーネは全身傷だらけになってしまった。

 身体中のいたるところから出血し、足元にはぽたぽたと血が滴り落ちる。

 一つ一つのダメージは大したことはないが、相手に手玉に取られているような状況がフィルフィーネを静かに苛立たせた。


「このっ、ちょこまかとウザったいったらないわね……!」

「あははははは! 異世界の魔術師さんも大したことないね。ほらほら、もっと楽しませてよ! 魔術を使いたければどうぞ。もちろん、そう簡単に詠唱なんてさせないけど――ね!」


 笑いながら襲い掛かってくる朝音。

 その様子が、以前戦ったとある魔術師を彷彿とさせた。

 下卑た笑いが脳内でリフレインすると、それが引き金となった。


 ……楽しませて、ですって?


 激昂したフィルフィーネの髪が淡い輝きを放ち始めた。

 感情の抑えが利かなくなった彼女の魔力が、毛髪の先からあふれ出している。

 奇しくもそれは、彼女にとっての変身とも呼べる状態だった。


「――どいつもこいつも、人を傷つけることに喜びを見出して……いい加減にしなさいよねッ!!」

「うわっと……⁉」


 フィルフィーネは槍を大きく横に凪いで一閃し、近寄る朝音を牽制する。

 たまらず後退した彼女に対しすかさず距離を詰めていく。

 茜音は目の前を横切るフィルフィーネの姿を凝視する。信じられないものでも見たかのように、彼女の姿から目が離せない。


「あの現象は、まさか……どうしてあの女が……?」


 そんな茜音の視線に気づくこともなく、フィルフィーネは朝音に連撃を叩き込む。

 完全に戦況は逆転した。

 朝音のスピードを上回る速さでフィルフィーネが槍を突き、叩き、回し、すり潰す。


「はぁああああッ――!!」

「がぁっ……! こ、これはちょっとヤバいかも。一旦距離を……⁉」


 それは狼の本能だった。

 朝音は自身の危機において、最も自然な逃避行動を選択した。だがそれは、今までの読めない動きではなく、狼ならばこう逃げるであろうという、予想できる動きだった。

 ゆえに、フィルフィーネはそれを容易く看破する。

 四足歩行という低い姿勢を保ったまま逃げた朝音の脇腹を、フィルフィーネは思いっきり蹴っ飛ばした。


「ぐはぁっ……!!」


 ……ちょっ、ちょっとちょっと! さっきまでと全然違うって!! なんでこんな急に速く…………⁉


 サッカーボールよろしく蹴り飛ばされて宙を舞う朝音。

 彼女が体勢を整えている間にも、フィルフィーネは槍を投擲していた。

 朝音は岩をも貫くであろう追撃を、空中で身をよじることでどうにか回避する。

 あと少し反応が遅れていれば串刺しになっていただろう。

 朝音はほっと胸を撫で下ろした。


 ――が、すぐにその表情は驚愕と恐怖によって支配される。


「ウソでしょ――――」


 朝音の着地点へと先回りしたフィルフィーネが、右足に魔力を集中させていた。

 風を纏った右足が、ひゅるひゅると風切り音を鳴らす。

 もはや一つの嵐を宿したかのようなエネルギー量は、この広い洞窟内部の気圧を変動させかねないほどの圧迫感があった。

 朝音はまだ息のあるまな板の上の鯉のように、空中で手足をバタつかせた。


「タンマタンマ! それ絶対ヤバいヤツじゃん! 下手したらホントに死んじゃうってば!!」

「問答無用! 少しは痛い目見て反省しなさい! あとついでに、散々引っかいてくれたお返しよ――ッ!!」


 翠緑色の髪がより一層の輝きを放つ。

 フィルフィーネが左足で踏み込み、体を倒しながら大きく右足を持ち上げた。


「とりゃあああああああああああ!!」

「いやああああああああああああ⁉」


 美しいハイキックが朝音の体を真芯で捉え、豪快なシュートを決めた。

 朝音はノーバウンドで洞窟の壁に叩きつけられ、ガラガラと音を立てて崩れた岩壁の中に沈んだ。

 フィルフィーネはたしかな手応え……いや、足応えにガッツポーズを決める。


「どう? これがホントの蹴りってものよ」


 勝ち誇るフィルフィーネ。

 だが、彼女は内心ちょっぴりドキドキしていた。


 ……あ、危なかった。ホントに殺しちゃうところだった。ちょっと意識が飛びかけたけれど、今度はちゃんと制御できたわ。手加減もギリギリできた……はず!


 クライスとの戦い以来、フィルフィーネは沙希の側で戦う自分が暴走していては本末転倒だと、あの時の行いを深く反省した。

 夜中にこっそり部屋を抜け出して、ひとり静かに魔力コントロールを一から磨き直した成果が、ここでしっかりと発揮されたのだ。


 とはいえ、危なかったのも事実だ。これ以上の感情の高まりがあっても大丈夫なように、より一層自分の心と向き合わねばならない。

 フィルフィーネは己の心を戒めるように胸を叩く。


 すると、茜音がフィルフィーネに近寄って来て、


「――『《《ヘカーティア》》』」


 と、聞きなれない単語を口にした。


「ヘカーティア……? 一体なんのこと?」

「感情の発露と共に著しく魔力量が上昇し、体の内側に抑え切れなくなった魔力が体の外にあふれ出る特異体質。女性にのみ受け継がれていたと言われるその体質は、特に髪がほのかに光るケースが多いことから、月光を浴びる女神のようだと昔読んだ書物に記されていた。だけど、その血はすでに途絶えたとも書かれていた……なのにどういうわけか、お前はその『ヘカーティア』と同じ体質をしている。なぜだ? お前は異世界の人間ではなかったの?」

「なぜって言われても……」


 フィルフィーネは返答に窮した。

 答えないのではない。

 彼女自身も、自分がなぜこんな体質なのかわからないからだ。


「私はたしかにこことは違う世界……メルセイムの人間よ。物心ついた時には一人だったし、両親の顔も知らない。私を鍛えてくれた人は、この力を特別なものだとは言ってたけど、それ以上は私にもわからない」

「……そう。それじゃあ仕方ないわね」

「どうして、そんなことを聞いたの?」

「……別に深い意味なんてないわ。ただ知的探求心を刺激されただけ。気を悪くしたのなら謝るわ。ごめんなさい」

「別にいいけれど……あなたのスタンスがよく分からないわ」

「それは当然でしょう、会って間もないのだから。そんなことより、他にもっと私に聞きたいことがあるんでしょう?」

「え、えぇ……それはもちろん。でもいいの?」

「お互いに手加減していたとはいえ、朝音を圧倒したその実力は本物だわ。私も魔術師としてそれなりの自負はあるけど、こんなところで無駄に怪我したくはないもの。それに、もし本当にあなたが私たちの敵なら、話なんてせずにさっさと殺してるでしょ」

「そう言われると、私からは何も言い返せないわね。それじゃ、ひとまず休戦ってことで」


 フィルフィーネの言葉に頷く茜音。

 ただ、それでも互いの間の空気は張り詰めたままだ。


 ……朝音が戦ってる間に霊脈調整の術式は無事に終了した。今この女と無理に敵対する必要はない。敵の敵は味方……とは限らないのが魔術師の世界だけど、敵と敵が勝手に潰し合ってくれる分にはこちらにも利があるのだし、何より異世界の情報が手に入るまたとないチャンスだわ。最初に拒否した分、こちらが折れてると思えば相手も口を開きやすいでしょうし、上手く情報を引き出さないと。


 ……〈協会〉のことを共通の敵と認識してもらえれば、彼女たちを味方にすることができるかもしれない。だけど、沙希のことは……聖女の存在はうまく誤魔化す必要がある。こっちの魔術師が聖女を何かに利用しないとは限らないもの。迂闊なことは喋らないように注意しないと。


 二人とも、嘘と謀略に塗れた魔術師の世界で生き残って来たのだ。

 口約束がどれだけ信用ならないかはきちんと理解している。

 それでも信頼を得たいフィルフィーネと、だからこそ信頼を偽装したい茜音。

 どちらも考えていることは同じだ。


 ――開示する手札は最小限に、得られる情報は最大限に。


 二人は互いの目を見合って、どちらからともなく口を開こうとした……その時。


「んなああああああああああ!」


 間抜けな叫び声を上げながら、崩れた壁の瓦礫の中から朝音が両手を伸ばして飛び起きた。

 いくつかの傷はあれど、それなりにピンピンしている。

 よく見れば彼女の体に狼の耳や尻尾はなく、代わりに両腕を分厚い鱗のような外皮が覆っていた。


 ……朝音のやつ、とっさに《獣化》をアルマジロに切り替えて攻撃を受けたのね。たしかにそれなら身を守れるでしょうけれど……。


 二人の様子を見て何かを察したのか、朝音は《獣化》を解除して肩を回しながら歩いてくる。


「いったたた……あービックリした。さすがにヒヤッとしちゃった。――って、あれ、お姉ちゃんもう終わり?」

「終わりよ朝音。それよりあんた、あれで攻撃を受けるくらいなら最初から適当な鳥にでもなって飛んで避ければよかったでしょうに」

「えー。だってお姉ちゃんが《獣化》は二段階目までって言ったんだよ?」

「……そういえばそうだったわね。まったく、変なところで律儀なんだから」

「えへへー。それほどでも」


 頭をかいて照れる朝音。

 彼女の《獣化》には全部で五つの段階があり、それぞれの段階によって姿と得られる力の詳細が変化する。

 一段階目は身体能力の強化。これは取り込んだ動物の種類によって伸びる力が異なる。熊なら腕力、馬なら脚力といった具合だ。

 二段階目は身体的特徴の獲得。爪や牙が生えるのがこの段階。

 三段階目からは、自身の身体の一部をその動物の姿に変化することができる。両腕が翼になったり、下半身が全て魚になったりもする。


 得られる力も多い分代償も大きくなってしまうため、茜音としてはあまり使っては欲しくないのだが、当の本人は嬉々としてこの魔術を使っている。

 姉としては頭の痛い話だ。


「そういうことだから、お姉さんとの決着はまだ今度ね」

「できれば決着をつけるまで戦うようなことはないと嬉しいのだけれど」

「まあまあそう言わずに……ところでお姉さん、なんて名前だっけ?」

「そういえば名乗ってなかったわね。私はフィルフィーネよ」

「フィルフィーネ……オッケー、覚えた。んで、フィルフィーネは何でここに来たの? 私たちの邪魔をしようとしてってワケじゃないんでしょ?」


 茜音がぴくっと反応した。

 勝手に話を始められて少々ご立腹のようだ。

 しかし、朝音の質問も自分が訊こうと思ってたことと同じだったので、あえて黙っておくことにした。


「この場所を知ったのは偶然よ。情報源までは話せないけど、私はとある魔術師について情報を集めてるの。そいつは影を操る魔術を使って〈協会〉の魔術師を殺して回ってるみたいで――あ、〈協会〉っていうのは、あなたたちが言う異世界の魔術師たちが所属する組織のことで……って、二人ともどうかしたの?」


 フィルフィーネの話を聞いていた二人が突然目の色を変えた。

 姉妹一緒に怖いくらいの勢いでフィルフィーネに詰め寄って、左右同時に肩を掴み、


「「その話、もっと詳しく聞かせて!!」」


 と、声を合わせて叫んだ。

 困惑するフィルフィーネの肩を掴む姉妹の手は、とても力強かった。

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