恋人は変人(side永田)
僕の彼女はちょっと変だ。
まあ、それは、片思いの時からわかっていたことだけど。
染谷芽衣子が僕の恋人になってから、気苦労は倍になったと言っていい。
一緒に居てもフラフラとどこかへ行くし、ぼーっとしてるし。
デートだって言ってんの。わかってる?
僕のことだけ見てればいいのに、まるで落ち着きというものがない。
ムカついたから、外出時は常に手を繋いでやる!
休日デートで水族館へ来た。
水槽を泳ぐ魚を観る彼女の横顔を、そっと覗き込む。子供みたいに目をキラキラさせて、にこにこしている。
「うわー、美味しそうなお魚だねぇ」
視点がおかしい。
大きな水槽を見つめてヨダレをじゅるりと垂らす彼女に、僕は生暖かく微笑む。
「あれは塩焼き、あっちは煮付け、あっ、エイヒレ!」って、変なの。変だけど、可愛い。
ニヤニヤするわけにはいかないから、「本当バカですね」なんて冷ややかに言うと、ぷぅとむくれる。
三十路目前の女が頬膨らまして、かわいいと思ってんの?
……すっごくかわいいんですけど。
デレデレするわけにはいかないから、フンと鼻で笑っとく。
「永田くん、この後、お夕飯食べて帰ろうね」
「そうですね。食べたいものあります?」
「シーフード! アクアパッツァ! お寿司!」
「完全に魚見たからですよね?」
どんな目線で水族館楽しんでんだよ。
苦笑しながらツッコめば、彼女は照れたように笑う。
「そのあと、うち、くるよね?」
「…………」
ほら、もう、油断ならない。
いつも不意打ちでぶっ込んでくるから、頬がゆるむのを押さえるので手一杯だ。
甘えるように僕の腕に体をくっつける。それだけで、心臓をきゅっとつかまれてしまう。
僕は顔を背けながら、「当然でしょ」と呟くのがやっとだ。
手を繋いで歩き、ちょっと良い店で夕食を済ませ、シメは彼女の家。
何度となくしてきた何でもない事が、ぜんぶ特別になる。
恋人って、両思いって、こんなに幸せなのか。
平然としたフリしても、心の中はウキウキして、世界中がキラキラ輝きそうになって……いかんいかんと気を落ち着ける。
自分の空回り体質はよくわかってるから。
手放したくないから、慎重に囲い込まないと……。
──なんて、我慢に我慢を重ねているのに。
「楽しかったー! ね、今日も一緒に寝ようねっ」
風呂上がりのパジャマ姿で、ソファに座る僕に抱きついてくる。
胸が当たる。胸だけじゃない。色々当たってる。
薄い布越しに、あたたかな体温を感じる。シャンプーのいい匂いもする。
付き合ってからというもの、彼女はとびきり無防備だ。自分がこの後何をされるのか、ちゃんとわかってるのかな。
首をもたげる欲望から、必死に目を逸らす。
焦らなくていい、ゆっくりいこう。
────本当に?
彼女はそれを信じてくれて、安心しているからこそ、こうなんだろう。
嬉しいよ、嬉しい、だけど。
ひとりで焦ってる。本当はそんなんじゃない。
安心しないでよ。無防備にならないでよ。
飛んでしまいそうになる気持ちを理性で押さえつけて、彼女の髪を優しく撫でる。
「あぁ……永田くんと毎日こうしていたい」
「……僕も」
うっとりと囁く声を聞きながら、頷く。
すると、彼女はパッと顔をあげて、こちらを嬉しそうに見上げた。
「だったらいっそ、ここで一緒に暮らしちゃう!?」
「え、ここで?」
急な提案に驚くと、彼女はコクコクと首を縦に振る。
「そうだよ。ひとりだと広く感じてたとこなんだよね」
──かーくんが出て行っちゃったから。
言外に『元彼』の存在を感じて、僕は思わず眉をしかめた。
今まで何度となくされてきた『ヤツ』の話。
わかってる、10年も一緒にいて、もう家族みたいに自然に溶け込んでるのはわかってる。
だけど、今まで許せていたことが、途端に許せなくなった。
あの、趣味の悪いアメコミのコースターもマグカップも、先輩の趣味じゃないであろう服も、小物も。
家具、家電、色んなところにヤツとの思い出がぶら下がっていると考えたら、途端にムカついてきた。
そうだ、これからふたりで眠るベッドにだって────。
「……嫌だ」
「へっ」
思わず思考が口をついて出た。
びっくりして固まった彼女に、僕は慌てて首を振る。
「あ、ちが、一緒に住むのがじゃなくて、あの」
しどろもどろになりつつも、「ちょっと僕は、物が多くてですね……」なんて苦しい言い訳をする。
それをどういう風に捉えたか、彼女は急にニヤニヤして「ほうほう、永田くんにも隠れ趣味が」なんてひとり唸りだす。何を想像してるんだ、おい。
「じゃあ、しょうがないね」
彼女は納得したようにそう言ってくれる。そのニヤニヤ笑顔にこっちが逆に納得できなくなったが、黙っておく。
だって、元彼に嫉妬して嫌がったなんて、カッコ悪くて知られたくない。
だけどやっぱり、『ここで』暮らすなんて気が狂う。
──その夜、僕は彼女を、ただ抱きしめて眠った。
抱きしめて、おでこにキスをして、柔らかな髪を指で梳きながら撫でる。
なんでだろうな。女って、こういう時の方が幸せそうに笑う。
僕が同じように笑えるのは、先輩が初めてなのに。
元彼とも、そうだった?
求められるより、甘やかされる方が嬉しい?
彼女は僕の腕の中で、安らかな寝息を立てている。
無防備なのに男慣れしすぎだろ。
アンバランスな彼女の鼻先を、キスで小突いた。
*
ぐちゃぐちゃした内面を隠しながら、数日が過ぎる。
にわかに仕事が忙しくなってきた。
今月はもう今までみたいに遊べないだろうな。
大きめの案件を任され、このままお盆休みまで働き詰めかもしれない。
最近、休憩室にも寄れてない。
先輩の玉子焼きが食べたい!
悶々としながら会社の廊下を歩いていると、前方から聞き慣れた声がする。
「染谷、この後の来客は第三会議室な」
「はいはい、わかってますって」
見なくてもわかる。染谷芽衣子だ。
横を歩く、彼女と同じくらいの年の男が馴れ馴れしく話しかけている。たぶん同じ部署の同期だろう。
ふたりは書類を抱えて足早に歩いている。
「あっ」
その時、先輩が前方から近付く僕に気付いて声を上げた。
にへへ、と顔が崩れていくのを見て、苦笑しつつ「お疲れ様です」と声をかけると、彼らは揃って「お疲れ様です!」と元気よく返してくれる。
すれ違う瞬間、先輩と視線が絡んだ。
お互い微笑み合う。
なんだか嬉しい。僕までにへへ、と笑いそうになっていると、
「なにニヤついてんだよ、ボケ。色ボケ」
「えー、ひどいな。色ボケて」
背後で仲良さそうなやりとりが聞こえた。
肩越しにそろりと振り返れば、からかわれて肘で軽く突つかれ、照れる先輩の姿。
いつものやりとりなのか、彼女は笑っている。笑って「やめろー」とか言っている。
…………。
あの男、同じ部署の同僚なら、先輩といつも一緒にいるんだよな。
お茶淹れてもらったり、一緒に仕事して、たまに雑談したりして。
黒い気持ちがもやもやと沸いてくる。
僕の染谷芽衣子に、触るな! 喋るな! 近付くな!!
…………はぁ。中学生か。
「悟はあたしの彼氏なんだから、他の女子としゃべっちゃだめ!」
若い頃のバカバカしい束縛の意味が、実感として解ってしまう。
その時は、「え、無理だろ」で一蹴したっけ。
今もし先輩に言われても、「え、無理です」と返すだろう。
だけど「嫉妬してくれるなんて嬉しい」の一言は添える。絶対添える。
実行するかどうかじゃなくて、気持ちの問題なのだ。
この先、仕事でなかなか会えなくなる。
それまでに、少しでも、少しでも、彼女との隙間を埋めたい。
他の奴の入り込む余地が、どうかできませんように。
……たぶん、僕には今、あんまり余裕がない。




