傷だらけの公爵令嬢の話①
デルカが生まれて、与えられたのは名前ひとつだった。
「お前など産みたくはなかった」
その言葉を理解したのは、いくつのときだろうか。
デルカの母親は、デルカの父親である男を憎んでいた。婚約者がいた身であるのに、無理矢理に閨に連れ込まれ、孕まされ、小さな屋敷に閉じ込められたのだから。そうして生まれたデルカも、母親にとっては憎悪の対象だった。
しかしデルカに母親の不幸はわからない。
与えられるべき親の愛情を一片も感じなかった。家族のぬくもりを知らなかった。泣けば怒鳴られ、粗相をすれば手を上げられた。投げつけられる呪詛から言葉を学んだ。
そういう生活しか知らなかったから、不幸が何かすらも理解できなかった。
デルカが小さな屋敷から出されたのは、五歳の時だった。
父親である男――サザルク公爵は、デルカを公爵家の娘として育てることにしたらしい。何故なら、デルカと王太子の子の年齢が近かったから。その王子の相手にあてがうか、あるいは近しい貴族に嫁がせるか。王子の生まれた年は貴族の子供が増えるので、相手には困らないだろうという考えらしかった。
六歳のお披露目までに、デルカは最低限の作法を身につけなければならなかった。泣かずに、動かずに、黙って立っていることはできた。けれど挨拶は苦手だった。
「さ、さざるく、こ……、」
「もう一度初めから」
つっかえれば鞭が飛んできた。でもどうしても滑らかに喋ることはできない。名乗りすら覚束ない娘に、サザルク公爵は眉を顰めた。
「下賎な女の子供などその程度よ。どうせ使えないわ」
元使用人の母を、サザルク公爵家の広大な屋敷から追い出したと言う夫人は、無表情のままそう言い放った。
失敗すればデルカは鞭打たれた。何度も打たれた。それでもうまくできなかった。泣かないことも、動かないことも、黙っていることもできたけど、喋ることだけはできなかった。
結局、デルカは緊張しているからという言い訳のもとにつっかえつっかえの挨拶を許され、あとは「はい」しか喋らないよう厳命された。
そうして六歳のお披露目は終わった。サザルク公爵はデルカの婚約者の吟味を始めていたが、デルカ自身の生活に変わりはなかった。
公爵家の本邸の片隅に部屋を与えられてはいるが、掃除をされないこともある。食事は日に三食か、二食か、一食か、あるいは持ってこられないこともある。毎日部屋から連れ出されて何事か言いつけられ、喋るたびに鞭で打たれる。そういう毎日だった。
「君が僕の妹?」
ある日、見知らぬ人がそう声をかけてきた。
サザルク公爵家の、デルカの十五歳くらい年上の兄らしい。そう自己紹介した人の声色はデルカが今まで聞いたことがないくらい優しかったが、デルカに幸も不幸もわからないのでその優しさに感じ入ることはない。
「君に見せたいものがあるんだ。おいでよ」
優しく微笑んだ兄に手を引かれて、デルカは屋敷を出た。デルカの中には言われたことに逆らうという選択肢はない。ついでに言えば、打たれるとわかっているので自発的に喋ることもしなかった。
デルカが連れていかれたのは、公爵家の敷地内にある伝導器の研究所だった。その地下に、兄は研究室を構えているらしい。
研究室のやたらとだだっ広い空間にはいくつかの箱が並んでいた。そのうちの一つを指さして、兄はデルカに言った。
「僕の研究の手伝いをしてほしいんだ。それに伝気を込めてくれる?」
デルカはうなずいた。最低限の伝気の使い方は身についていた。兄が壁際に下がるのには、気が付かなかった。
箱に手を置いて、伝気を込める。何かがごっそり吸い取られるような感覚がして、デルカはふらりと倒れそうになった。
そして。
箱が爆発した。
デルカは吹っ飛ばされ、毬のように転がった。箱に触れていた手にはもはや感覚がない。床に頭を打った。耳がキーンとする。ごろごろと床を転がり、ただ必死に悲鳴を飲み込んだ。泣かないこと、黙っていること。それだけ考えていた。
「威力はいまいちかなあ。伝気を込めるのに時間もかかっていたし、まだまだだね」
兄が何か言っていたが、デルカには理解できなかった。歯を食いしばり、目を開ける。手のひらに刺すような痛みがある。手首までの皮膚が赤く焼け爛れていた。
「ああ、戻っていいよ。ご苦労様」
兄はデルカを見下ろして微笑んだ。
痛みに冷や汗が背中を伝う。戻っていい、というのは、どこに?なんとか言葉を咀嚼して、いつもの部屋に帰れということだと理解する。手をついたら痛いので、デルカは不格好に足の力だけで立ち上がり、研究所を出た。
デルカの怪我を見て、通りがかった使用人が悲鳴を上げたのはそのすぐ後だった。
デルカに大怪我をさせた兄は、さすがに公爵に叱られたらしい。へらへらと笑いながら「ごめんごめん、父上が君ごときに怒ると思わなくって」と言われたデルカは、「はい」返した。
「怪我が治ったらまた付き合ってね」
「……」
「はい、でしょ?」
「は、はい」
痛いのは嫌なので、返事が遅れた。兄はへらへら笑ったまま、舌打ちをして部屋を出ていった。
それから。デルカはだんだんと理解した。
自分は、あるいは自分の置かれた環境は普通ではない。
母のいた小さい屋敷ではわからなかった。関わる人数が少なければ知ることはなかった。
けれど、使用人の中にはデルカを憐れむ人が少しはいるようで、公爵家、そして兄の所業が非難されるべきものだと知った。
もう一つのきっかけは、デルカに婚約者ができたことだ。マティア・シャール。シャール侯爵家の次男だ。
「妾の子のお前と同じ下賤の者よ」
そうサザルク公爵夫人が言った。なのでデルカは自分と同じような人かと思った。
「初めまして、マティア・シャールです」
けれどはきはき喋るマティアを見て、あ、違うな、と思い直した。
挨拶を交わしたあと、庭を見ていらっしゃいと言われたマティアに手を取られる。傷が痛み、それでもデルカは泣かなかったし喋らなかった。「こっちだよ!」と言われるがままについていき、また痛い思いをするのかと思った。
だがマティアは好き勝手に喋るだけだった。デルカに相槌を求めているかもわからない。
公爵家の人間のことはだんだんわかり始めていた。彼らは尊大で、デルカを好きにすることができる。五歳以降一度も会っていない母もこれと同じ部類だろう。
教師のこともわかり始めていた。彼らはデルカに何かを復唱させたり、真似をさせたり、暗記をさせたり、答えさせる権利を持つ。間違えた場合やうまく喋れなかったときは鞭で打つことができる。
周りの使用人は三種類いた。デルカを無視する人。デルカに文句を言い、仕事をしない人。そしてデルカに同情し、デルカの境遇が不憫だという人。最後の人の話を聞くのはデルカにとっては苦痛だったので、他の人がいた方がよかった。
マティアはそのどれとも違った。
サザルク公爵家には、冷たい空気がある。公爵と夫人の間にも、公爵と兄の間にも、使用人たちの間にも。でもマティアとシャール侯爵夫妻との間にそれはなかった。
マティアがはきはきと喋るからだろうかとデルカは思ったが、彼がそれ以降好きに喋っても、親であるシャール侯爵夫妻に叱られることはなかった。サザルク公爵も責めなかった。
それに、マティアの手には傷痕がない。絶対に手袋を外すなと言われたデルカとは正反対だった。
デルカをかわいそうと言う使用人たちは、マティアはかわいそうではないと言うのだろうとデルカは思った。正しいのはマティアの方だ。
デルカは、何故か間違っている。かわいそうと言われるたびにそう思って、苦しかった。正しくないから苦しかった。正しくある方法がわからないから。
――だから、デルカはマティアが嫌いになった。
自分が間違っていることを突きつけてくる人が、嫌いだった。
しかしマティアはデルカの婚約者らしい。
「ぼくは父上のあとをついでシャールこうしゃくになるんだよ」
誇らしそうに言うマティアに、デルカは婚約と結婚のシステムについて思い出していた。シャール侯爵になるマティアと結婚するデルカは、シャール侯爵夫人になる。おそらく、マティアと一緒に暮らす。シャール侯爵夫妻のように、マティアのような子どもをもうける。その子どもが次のシャール侯爵になる。
想像するだけで身の毛がよだった。できない、と本能が悟った。間違っているデルカが、あの中で息ができるとは思えない。冷たい空気にチリチリと身を焦がすことはできるけど、手の傷を隠して痛みを我慢することはできるけど、それだけはできない。
でも、デルカはサザルク公爵に逆らうこともできなかった。きっとこのままマティアに嫁ぐ。傷を見たらマティアもデルカが間違っていることに気づく。
そうしたら。
マティアも、サザルク公爵のように、夫人でない人を見つけるのだろうか。
そうしたら。
マティアも、冷たい空気を纏うようになるのだろうか。
――そうしたら。
マティアも、いつか。デルカのような間違っている何かを連れてくるのだろうか。
その考えを、デルカはすぐに打ち切った。
考えていると胸が痛くなるからだ。それに、デルカがマティアと結婚するのはずっと先の話だ。
さいわい、マティアと顔を合わせる機会はほぼなかった。デルカの知らないことだったが、シャール侯爵夫妻はサザルク公爵家の娘と婚約を結べただけで満足で、サザルク公爵もデルカに下手なことを喋らせたくはなかった。
何より、マティアがデルカ自身に興味を持たなかった。彼にとっては自分が父親の後を継ぐのは当たり前のことで、デルカとの婚約の意味などわかっていない。それに、喋りもしない女の子に好感を持つこともなかった。
デルカはあの部屋に戻って、以前と同じような日を繰り返した。教師に鞭を打たれる。使用人に間違っていることを突きつけられる。そして、兄に研究所に連れていかれて日用品を含むさまざまなものに伝気を補充させられた。機密情報の塊である研究所へは使用人の入館も制限しており、デルカを伝気補充係として使うことにしたらしい。伝気を使いすぎれば虚脱感に襲われるので、研究員に行わせるには効率が悪かったのだろう。
もちろん、危険物に伝気を込めさせられることも多かった。顔に残る傷こそはつかなかったが、デルカの手はボロボロで、そのボロボロの手でペンを握り勉強をさせられた。
なので、デルカは考え事をするときはいつも頭の中に書き留めていた。
人のことを考えるのは胸が苦しいのでやめて、モノのことを考えていた。鞭で打たれるのは嫌だが、勉強は暇つぶしとして最適だった。
文字を習ったときはペンを握らず頭の中で思い浮かべ、指先で空気をなぞって反復した。手本のように字を綺麗に書き、書き損じることはほぼなかった。
数字と、計算を習ったとき頭の中で何度も繰り返し、暗算ができるようになった。
詩の暗誦はうまく喋れなかったが、内容はすっかり頭に叩き込んだ。
歴史の授業で過去の偉人や政策や戦争を学んだ後は、その人がどんな人であったか、どうしてそうしたか、どれだけ効果があるか、どんな戦略だったか、じっと考え続けた。それは間違っていることもあったが、デルカが教師に質問することはなかった。せいぜい与えられた本を隅々まで読み見落としがないか確認するくらいだ。
そして、デルカが一番時間を費やしたのは、兄の伝導器の仕組みについて考えることだった。
どうしたら痛い思いをしなくて済むのか。兄が優しさのふりをして伝導器の仕組みの本を置いていったので、それをよく読み込んだ。研究所にある伝導器の中身をよく観察した。それだけでわかることは少なかったが、わからないなりに想像を膨らませた。
遠くから伝導器を動かせたら?伝気を溜める仕組みを作れたら?あるいは、人間のように動く伝導器を作れたら?そのどれもが、ただの妄想で終わった。それでも痛みと空腹を紛らわすには十分だった。
何にも書き留めず、口にも出さないデルカが何を考えているかは誰も知らなかっただろう。兄も、公爵も、マティアも。
頭の中でだけ完結する物事にだけ目を向けて、デルカは外のことを考えるのをやめた。
デルカが再び外に目を向けたのは、学園に通うようになってからだった。
ある日突然デルカは学園の寮で一人で暮らすように告げられ、そのまま馬車に乗った。制服がいつの間にか用意されていて、それらは寮のクローゼットに入っていた。あとは少しの私服と、勉強道具と、食費と身の回りのものを買うための金銭があった。
寮といっても高位貴族向けの部屋で、風呂もトイレも洗面所も簡易キッチンもある。管理人が案内してくれて、寮内に食堂と談話室があることを知った。購買では文房具と生活用品が買えるらしい。つまり、生活に困ることはなさそうだった。
デルカはまず金銭を数えた。知識としてコインの種類は知っていて、総額を計算する。
それから、購買にあった文具の価格と食堂にあった一番安いメニューの値段を思い出し、これからここで暮らすと言われた年数分の必要経費を算出する。
――一日三食には足りないけど、二食なら足りる。でも生活用品がどれくらいの頻度で必要になるかわからない。制服も、着られなくなったら仕立て直す必要がある。そのことを公爵に伝えたとして、追加の金銭がもらえるかはわからない。
できるだけ節制したほうがいい。週に何日かは一食にしたほうがよさそうだ、とデルカは結論づけた。
それから始まった学園生活は、デルカにとって体力面でかなり大変だった。
今まで屋敷の中でじっとしていたから、寮から教室まで歩くだけで疲れる。さらに別の教室に行くこともある。それだけでふらふらになるくらいだった。
さらには、話しかけてくる人がいるのも問題だった。名前や顔を覚えるのは簡単だったが、「デルカ・サザルクと申します」と「はい」しか答えられないデルカは何も言えずに困った。とはいえ、じきに話しかけて来る人はいなくなったので安心した。
鞭で打たれることもないし、怪我をさせられることもない。体力がつき、慣れればサザルク公爵家の屋敷にいたときよりもずっと快適な暮らしであることに気づく。他の生徒が連れているような使用人がおらず、自分の面倒は自分で見なくてはならなくても、些細なことだった。
入学して最初の試験で、デルカの成績は思ったよりも悪かった。教科書の内容を覚えていたにもかかわらず、だ。それはデルカの頭の中に勝手に作り上げた妄想が棲みついているからだった。
その多くが間違いであると突きつけられたデルカは困惑し、そして解決する方法を探した。口に出して質問ができないのなら、本を読めばいいと気づいたのは図書館があることを知ったからだ。
デルカは授業が終わればすぐに寮の部屋に戻っていたが、じきにそれは強要されていないのだと気がついた。授業中以外なら生徒たちは好きに喋って構わないし、寮の規則に反していなければ学園の敷地以外を歩いてもいいらしい。そして学園内に限らず学園都市の中には、たくさんの図書館がある。
一歩踏み出してしまえば簡単な話だった。
学園の外の図書館に行こうとすれば、学生向けの店が軒を連ねる通りがある。興味を持ったものを見ても、買っても、デルカを叱る者はいなかった。金銭的な縛りがあるので好きなものを好きなだけというわけにはいかないが、楽しむには十分だった。
買い物をするとき、あるいは図書館で本を借りるとき。少しだが会話をしなくてはならない。最初はいちいち怯えていたデルカも、つっかえて話したところで鞭打たれることはないと気づいてからは気が楽になった。
だって。外ではデルカに視線を向ける者は少ない。公爵家の屋敷では、公爵も兄も教師も使用人も、デルカという個人を認識していた。けれど街中でデルカの名前を知っていて、デルカ個人に興味がある人なんてちっともいない。デルカが間違っていると気づく人なんて一人もいない。
学園でだって、今やデルカに話しかけてくる人はいなかった。遠巻きにされ、妾の子であると噂を流され、仲間外れにされていたのだが、そっちの方がデルカにとっては平和だった。気づいてはいなかったが。
一年目は平穏だった。二度目の試験では点数も上がり、満足した。次の試験では満点を取りたいところだ。
二年目には、入学時と同じだけの金が部屋に届いた。空腹に耐え忍ばなくてよくなったのは喜ばしいことだった。
ついでに言えば、デルカの婚約者のマティアが入学してきた。久々に見るその顔に、デルカは将来マティアと結婚することを思い出したが、以前のように心をかき乱されることはなかった。
それに、マティアもデルカに近づくことはしなかった。同じ学年のエディール王子に近づこうと必死だったからだが、もちろんデルカはそんなことは知らない。
どちらかというと、デルカが新しく興味を持ったのはマティアの兄のほうだ。ずっと同じクラスだったエルドル・シャールがマティアの兄であることには気づいていなかった。
――どうして、エルドル・シャールがシャール侯爵家の跡取りではないのだろう?
その疑問は当然のものだった。
マティアは自分が跡継ぎだと言った。つまり、エルドルは跡継ぎではない。しかし彼は学年一位の成績を取るくらいには優秀だ。長子であるエルドルが跡継ぎでないのは極めて不自然だ。
デルカはこっそり周りの話に耳を傾けることを始めた。今までは雑音としか捉えられていなかった周りの話も、耳を傾ければ様々な情報が得られる。
たとえば、食堂で一番人気のメニューや次の試験の出題。そして人間関係。誰が誰を好きだとか、あの先輩は付き合っているとか、あの二人は婚約解消秒読みだとか、あの家は今資金繰りが苦しいだとか、そんな話だ。
そして生徒たちが口にする言葉のすべてを真だとすると、どうしたって矛盾が生じる。デルカははじめて、人が本当のことだけを言わないことを意識した。嘘ではない。ただ、間違っている。
マティアも、間違っていた。
彼は自分が後継だと言っていた。だが、それを示す確固たるものは存在しない。エルドルは優秀で、エディール王子にも認められていて、上級生との関係も深い。エルドルが排除される理由はどこにもない。血筋もエディール王子の従兄弟だ。一つも瑕疵がないし、エルドル本人も当主になりたがっていないとは思えない。
その年の最初の試験結果が張り出され、デルカは結果を見に行った。マティアは十三番目だ。去年のエルドルは一番目だし、今年のエルドルも一番目だった。マティアがエルドルより優れているという根拠はどこにもない。
デルカがふと顔を上げると、マティアがいた。彼はエルドルを睨んでいた。
そこには――マティアたち親子にはなかったはずの、冷たい空気があった。




