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なりそこない侯爵  作者: 加上汐


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16/19

王にならなかった男の話

 マルツは第二王子として生まれ、今は王弟と呼ばれている。兄が王であるからだ。

 その兄に呼び出されたのは、甥であり王太子であるネーザルがとある騒動を起こしたからだった。


 パーティーで婚約破棄を高らかに叫んだのは、いったい誰が最初だっただろうか。何がどう悪かろうと、本来は身内で終わらせるべき手続きを衆目に晒すのだから人目を惹くし話題を呼ぶ。つまり、後始末がとにかく面倒なのだ。

 甥が婚約破棄を叫んだと聞いて、マルツはついにやらかしたか、と思った。唯一の男児、生まれた時から王太子と決まっていた甥はとにかく出来が悪い。とはいえ、これは外戚の策略でもある。

 王妃はサザルク公爵家の娘であり、当時の王はそれを拒めなかった。突然の病で前王が崩御し、若くして代替わりを強いられた王には地盤がなかった。だから、サザルク公爵家の娘を受け入れた。

 そうしてもうけた王太子の出来が良ければなんとかなったかもしれない。だが、お世辞にも賢い子ではなかった。しかし母の姿はよく見ており、傲慢で、この世の全てが思い通りと思っている権力者。傀儡としてなら最高だ。

 唯一救いだったのは、選んだ婚約者だ。顔が好みだからとか馬鹿馬鹿しい理由はともかく、ベアリー侯爵家は毒にも薬にもならない家柄だ。

 なのに。その婚約者を公衆の面前で貶し、彼女の責での婚約破棄を宣言したのだ。そして新しい恋人は、莫大な財を持つニール伯爵家の娘だとか。

 完全にサザルク公爵家の意向の婚約破棄だ。サザルク公爵家は財布を、ニール伯爵家は権力を得たい。その二者の思惑により、哀れなベアリー侯爵家の娘はもう用済みになってしまったのだ。


「お前はベアリー侯爵家の娘を庇い、王太子になれ」

 しかし、利用価値はまだあると王は言う。

 マルツは冗談でしょうと言いたかったが、言えなかった。兄はいつも真剣だ。真剣に、国の行く末を考えている。よって血の繋がった実の息子をすでに見捨てている。

「あのやり方は拙かった。ベアリー侯爵家の娘に同情する者も多かろう。お前は同情票を拾い集め、ベアリー侯爵家の娘を口説け」

「……勘弁してくださいよ、陛下」

「できぬとは言わせん」

 マルツは眉を下げた。マルツだって王族として教育されてきた人間だ。やれと言われて、やれるかもしれない。

 けれどやったことがないし、自信なんてものはちっともない。サザルク公爵家と真っ向からやりあわなくてはならないし、同情票なんて一枚岩から程遠い。それにベアリー侯爵家の娘と会話を交わしたことはあるが、あれもあれで愚かな娘だった。

「サザルクは力を得すぎた。王妃も、いい加減黙らせるつもりだ」

「そっちを抑えて下さるなら、まあなんとか……。しかし陛下、私は王などという柄ではありません」

 これまでの人生における王子、そして王弟としての飼い殺しを、マルツは気に入っていた。何も頑張らなくてよくて、スペアとして生きているだけで意味がある。

 しかし王太子になれば、王に一番近い男ということだ。何かあれば国を背負うなど冗談ではない。

 国王は弟の内心を知ってか、ため息をついた。

「余は後継者に恵まれぬな……」

「申し訳ございません、陛下。もう一人おつくりになられては?」

「あれの下では何も変わらなんだ」

「……別派閥の妃を娶るのも難しいですからね」

 夜の相性もよくないのだろう、たぶん。甥は三番目の子で、それが二人の精一杯なのかもしれないとマルツは邪推した。

「お前が王になりたくないのなら、王子を産ませればよい。相手もいるだろう」

「……かしこまりました、善処いたします、陛下」

 兄に逆らうつもりは毛頭ない。生まれた時から王になるべく育てられた兄との才能の差は、嫌というほど見せつけられてきた。決して敵わない。逆らってはならない。相手は王なのだ。スペアはスペアらしく、あるいは駒らしく、手のひらの上で踊っていればそれでいい。

 糸の先に誰がいるか、わかっているだけマシというものだ。


 ネーザルは王族らしく整った顔をしているが、それはマルツも同じだ。ベアリー侯爵家の娘――エディーラは、その美貌で王太子の婚約者に選ばれたが、彼女が頷いた理由もまた美貌と地位だ。そのどちらも持っていれば、ネーザルだろうがマルツだろうが、どうでもいいのだろう。

「マルツ様、わたくしを救ってくださるのですね!」

 少し言い寄れば、エディーラは簡単に飛びついた。そんなものでいいのかと面食らったくらいだが、他の派閥とのやり取りを考えれば操りやすい方が楽かとマルツは思い直す。


 率直に言って馬鹿な王太子は、いくらサザルク公爵家の後ろ盾があっても敵が多い。マルツは王に指示された通り勤勉に動いた。

 横暴な王太子は将来の国王に相応しくない。

 一方、今まで目立っていなかった王弟だが、王太子が言いがかりをつけて切り捨てた婚約者を庇うような慈悲深さがある。そして、人々の好きなロマンスに繋がる――歌劇のような筋書きに、噂はあっという間に広まった。

「ネーザルのやつ、ここまで人望ないとは逆にすごいな」

 ついそう感嘆してしまったくらいだ。王妃、そしてサザルク公爵家の教育の歪みっぷりが見て取れる。

 マルツは淡々と己の派閥を築いていった。エディーラの実家のベアリー侯爵家は正直大した役に立たない。エディーラ自身も気分屋の悲劇のヒロイン気取りで、政治力はないに等しい。

 その中で派閥を築き、そしてネーザルを排除するマルツの手腕こそ王太子に相応しい。国王とその側近がそう思うくらいだった。


 ――そうした中で大会議室で国の重鎮たちが下した、ネーザル廃嫡の決定は、サザルク公爵ですらも覆せなかった。


 ネーザルは王都の塔に幽閉処分となり、浮気相手のニール伯爵家の娘は修道院に送られた。これでマルツは晴れて自由の身――とはならない。

 マルツはすぐにエディーラと籍を入れた。もともと予定されていた王太子との結婚式をまるっと乗っ取ったからだ。そしてすぐさま子作りに励んだ。王子が生まれれば、マルツは王太子の座から逃れられる算段が立つ。

 その一方で、人目に触れさせたくないほど溺愛している、という名目でエディーラを閉じ込め、公務には携わらせなかった。

 エディーラは不発弾だ。悲劇のヒロインのまま救われ、ハッピーエンドに辿り着いた物語の主人公。この世全てが己のものと思う、お花畑。

 そんなものを解き放てば、奇跡のようなバランスで成り立つ王弟派閥はたちまちのうちに崩壊するだろう。彼らはエディーラを被害者と思い集っているのだから、当の被害者に腹を立てれば離反するに決まっている。そうなれば当初より強い反発が生まれるだろう。

 マルツの仕事は、息子が生まれ育つまで派閥を維持すること。派閥がなければマルツのまだ見ぬ息子が王太子になることも容易ではない。王を退けない程度に弱く、王太子を支える程度に強い。そんな舵取りをしなくてはならなかった。


 昼は調整役として奔走し執務を片づけ、夕は招かれたパーティーで愛想を振りまき、夜は好みではないお花畑女に甘い言葉を囁き閉じ込める。とにかくストレスがたまる。

 何せこれまでは息をしているだけで生きるための全てを王族水準で与えられていたのに、一転して義務と責任と仕事がのしかかってくる。最悪だ。

 癒しが欲しいと思ったが、こういうときに癒してくれる何かを、マルツは知らなかった。王太子の身分に擦り寄る誰かも、派閥のために腹の内を隠して手を取る誰かも、信用などできない。

 できるのは人目のつかない庭でぼうっとすることくらいだ。子供のころからよくサボり場にしていた王宮の奥、誰も来ない東屋のベンチに横になる。空は見えないが、目を閉じれば草花の匂いが感じられる。吹き込む風が寒くて外套にくるまり、さなぎのように身じろぎひとつしなかった。

 そうしていると、ふと何かが聞こえた。

 人の――女の声だ。ただの声ではなく、泣いているような声。侍従は何をやっているのかと苛立ちそうになり、しかし泣いている女なら追い返す男でなかったと思い至る。

 マルツがため息をついて立ち上がると、東屋を囲む生垣の向こうにいる声の主が見えた。

 まだ若い女、いや、少女か。シンプルなドレスは下級侍女の装いだ。

 何をしている、と声をかけて追い出すこともできたが、マルツはお優しい王弟なので懐からハンカチを取り出した。

「お嬢さん」

 優しく声をかけると、少女は泣きぬれた顔でマルツを見上げた。その顔が、あまりに感情をむき出しにしていたから。つい惚けてしまいそうになる。

 ただ、そんな隙は一瞬で、マルツはすぐにハンカチを差し出した。少女がぽかんとしているうちに立ち去ることにする。

 一人の時間を邪魔されたのに、不思議と不愉快ではなかった。謝ってくる侍従に苦笑いし、マルツはすぐに頭を切り替えた。自分のいる場所は、あんな感情の発露を許してはくれないのだから。

 ――だが、切り替えないと頭に焼き付いて離れない表情だった。


 その少女――シェリーは、王妃の宮の侍女の一人だった。

 サザルク公爵家の派閥とも言える、しかしまったくパッとしない、存在感のない伯爵家の何人目かの娘。王立学園に通っていないのだから、その未来が明るいものではないのは明白だ。

 縮こまってハンカチを返しにきたシェリーと、マルツは少しずつ関わるようになった。同時期にエディーラの懐妊が判明して、肩の荷が降りたのかもしれない。あるいはもう限界だったのかもしれない。マルツは求めていた癒しをシェリーに見出した。

 と言っても肌を重ねるようなものではない。ただ会話を交わす、同じ空間にいる、それだけだ。見つかるとまずいのは互いに分かっているので、あの東屋で時間が合えば会うだけの関係だ。



 もはや、マルツにとってエディーラはどうでもいい存在だった。エディーラが不安だからと親戚の女を招いても、同じくらい腹の膨らんだ女が二人いても、どちらかが男を産むならそれを王子とする。それでいい。エディーラの拙い目論見を黙認するのは愛ではなく無関心だ。

 そうして生まれた王子が果たしてどちらの腹から出てきたのか。マルツは知らない。絶対に外部に漏れないような体制を敷いたので、兄にだって文句を言わせる気はなかった。血筋が問題だと言うなら、王位継承権を持つレクサム公爵家あたりから嫁を取ればいい。なんなら婚約者の選定に頭を悩ませずに済んで気楽だ。

 王子の名前はエディールとした。最愛の妃の名前をもじった、愛の象徴だと誰かが言った。考えるのが面倒だったなんてきっと誰も思わない。


 それからマルツが考えなくてはならないのは、エディールが王として相応しく育つための道筋だった。

 側近はどこから取るべきか。王太子の子の誕生に合わせて生まれる貴族の子息は多いはずだ。教育係は誰をつけるか。ネーザルに関わっていた使えない者は全員排除する。

 そして、エディーラ。誰よりも王子の教育に悪いこの女は、一日中泣く赤子に慈愛よりも嫌悪を注いだ。ならば距離を取らせればいい。産前の体型に戻ろうと躍起になっている妻のために、マルツはしっかりと人を揃えた。

 体重を管理したいならしてやる。若く美しくありたいのなら美容に詳しい侍女を与えてやる。王太子妃としてふさわしく着飾りたいのなら、いつだって豪華なドレスを着せてやった。

 窮屈さを感じたとて、それが愛のかたちなら文句を言うまい。盲目になるほどの恋という免罪符は、この世で一番使い勝手がよかった。


 幸い、エディールはすくすくと育った。マルツもそばで見守っていたが、なかなかに利発な子どもだった。少なくとも、ネーザルのような失態は犯さないだろうと思う。王太子であるマルツを父として追うことも、王太子妃であるエディーラを母として慕うこともしない子どもなのだから。

 関心が自分にないことを、エディールは知っていたのだろう。(エディーラ)は己を愛し、そして――(マルツ)は、別の女(シェリー)を愛していた。



 ある日、望まぬ相手に嫁がなければならないのだと、シェリーは泣いていた。

 本来は姉の婚約者であった相手。けれど姉は貴族としての責務を捨て、駆け落ちした。罪人の代わりの生贄となる自分が、婚家でどう扱われるか。想像するだけでもおぞましい。

 シェリーがそのことを王太子であるマルツに告げたのは、彼の権力目当てだったのだろう。それくらいマルツにもわかっていた。わかっていたはずだったが、理解できてはいなかった。

 シェリーを愛人として迎えれば、マルツの立場はなくなる。王太子として立ってはいられないだろう。それを王は許さないだろう。だから、シェリーの姉のようにすべてを擲つことはできない。

 一つの答えだけを欲している相手にそんなことを説明したって、理解するはずもないのに。マルツは信じたかった。おぞましい欲望の愛ではなく、清純な愛が自分たちの間にあるということを。この少女がマルツの言うことをすべて聞き分ける、都合のいい女であることを。


 結局、シェリーはとある子爵家に嫁ぐために職を辞した。マルツにとっては悲劇の別れで、いつか迎えに行くと心に決めた。そう、エディールが学園を卒業する頃には自分も自由の身になれるだろう。そこまで役割を果たしてきた報酬として、愛人を養うことくらいできるはずだ。

 遠くなった距離は、マルツの思いを燃え上がらせた。恋文を認め、しかし送ることはできないのでしまい込む。この手紙の山も、十数年後にはきっと届けられる。そう信じて。



「父上には隠居してもらいます」

 ――十数年後、届けられたのはそんな言葉だった。


 エディールは優秀な上、上昇志向が強かった。派閥もマルツが与えた者ではなく、学園に通いながら自分の目で見極めた者を取り入れた。

 王になるべき者として生まれ、備わった資質というべきか。マルツは初めて己の息子に嫉妬した。いや、もしかすると息子でないかもしれない少年だ。

 当たり前のように与えられた権利を、当たり前のように行使するこの王子が、もし王族の血を引いてないと知ったら。それを詳らかにしたいという暴力的な衝動がいまさら芽生える。

 しかし、ここで全てをめちゃくちゃにするつもりはマルツにはなかった。

「エディーラがああなってしまってはな……」

「母上のことなど、どうとも思っていないのでしょう?」

 うわべだけで演じる言葉に、エディールは淡々とした声で返した。責めるでもない、ただ真実を告げる口調だ。

「なにを、」

「本当に母のことを想っているなら、あの時すぐに止めればよろしかったんです。まあ、あんなことを言い出すと思ってなかったのでしょうけど。父上にとっても都合が良かったでしょうしね」

「……」

 エディールは気づいているだろうとマルツは思っていた。

 だが、こうして口に出すとは思っていなかった。……いや、よく考えれば当然か。

 上昇志向の強いエディールは、王の座を望んでいる。ならば、王太子である自分を退ける手を打つのは当たり前だ。王太子妃に失態を犯させ、消えない傷をつけ、表舞台から遠ざける。そして同時に邪魔になった父親をも隠居させる。

 マルツは口角が上がりそうになるのをおさえた。なんて都合がいいのだろう。どうしてそこまで、というのはマルツにとってはどうでもいい。歴史を紐解けば父や兄を謀殺し王位を継いだ者くらいいる。マルツにはどうしても見出せなかった玉座の魅力が、エディールには狂おしいほどだったのだろう。

 父親がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、エディールはとどめを刺すために口を開いた。

「シェリー・ナゼル子爵夫人でしたか?」

「お前……」

 流石のマルツも驚いた。シェリーの名前を突き止めてくるまでは考えていなかったから。マルツとシェリーの関係を知っているのは、マルツの侍従ただ一人のはずだ。

 それを嘲笑うように、エディールは口角を上げた。

「脇が甘いですよ。これを私に教えてくださったのは、陛下です」

 王族として、貴族として、マルツは教育されている。動揺を顔に出さないくらい簡単で、先ほどまではそうできていた。

 だが、兄がマルツとシェリーの関係を知っていたとなると話が別だ。二人きりだったはずの逢瀬は誰かに見られていて、それを広まらないように処理していたのが他ならぬ国王だった――その事実に、歯をきつく食いしばる。

「もうおわかりでしょう?この事実をバラされてしまえばあなたの政治生命はおわりだ。そうなる前に母上のことを言い訳に隠居していただいたほうが賢明かと」

 ――最初からそうするつもりだった。だから結末は変わらないはずだ。

 なのに、過程が違う。自分は負けてこの座を降りるのだと、マルツは突きつけられた気分だった。玉座に就く覚悟などないはずなのに、玉座への未練がある。

 しかし、反抗はしないだけの分別がある。マルツは疲れ切った声で「わかっている」と息子に返した。



 マルツは即座に身辺を整理し――最初からそのつもりだったので時間はかからなかった――田舎の保養地へ向かった。田舎と言っても王領で、高位貴族も訪れる場所は経済的にも豊かで過ごしやすい。

 王太子の座に就けられて以来、こうして静かに暮らすのは久しぶりだと思う。まるで追放されたような気分だったマルツはすぐに持ち直した。これこそが自分の求めていた安寧であるのだと。もう、王都のことなど忘れてしまおう。

 だが、最初は王都での出来事に耳を傾けていた。サザルク公爵家の粛清がどう進んでいるか、ということに。指揮を執っているエディールはやはり優秀らしく、サザルク本家の捕縛には一か月もかからなかった。


 その知らせがいくらか遅れて届けられた後、マルツは初めて保養地から出た。目的地は馬車で一週間ほどの、ナゼル子爵領である。

 ナゼル子爵は子爵の中でもかなり下位の家だ。つまり貧乏。領内は想像より治安がよかったが、ナゼル子爵家の屋敷はマルツがこれまで見たどの貴族家の屋敷よりもみすぼらしかった。

 ああ、シェリーはここでどんな苦労を強いられただろう。シェリーの姉が逃げ出した気持ちもわかると言うものだ、とマルツは一人頷いた。それも今日までだ。保養地では何にも煩わされない、ずっと快適な暮らしができるはず。

 なによりも――ナゼル子爵はサザルク公爵派閥の家だ。当主はサザルク公爵家の開発した爆発物流通に関わったとしてすでに捕縛されている。もう凋落するしかない家だ。


 マルツは侍従を先触れとして走らせた。と言ってもマルツが着いたのもそのすぐ後で、十数年ぶりに顔を合わせたシェリーは型落ちのドレスを身にまとっていた。

「王太子殿下にご挨拶申し上げます」

 当主不在の家を取り仕切っているのはシェリーらしい。かわいそうに、彼女はくたびれた顔をしていた。マルツは極めて気安く微笑みかける。

「シェリー、楽にしていい。私と君の仲だろう」

 その言葉に同席していた家令らしき男がぎょっとした顔をしていた。シェリーもばっと顔を上げる。

「で、殿下、畏れながら……」

「話は単純だ。私と来るといい、シェリー」

「……なにをおっしゃるんです?」

「私は役目を終えた。君を迎えに来たんだよ、シェリー」

 マルツは立ち上がり、シェリーの手を取った。「君が苦労することは何もないよ」そう囁く。あの日取れなかった手を、ようやく――。


「馬鹿を言わないで!」


 シェリーも立ち上がり、マルツの手を振りほどいた。ギラギラと輝く瞳がマルツを睨みつける。

 泣き顔とは違う、けれどむき出しの感情に、驚きに無防備になってしまった胸が締め付けられる気分だった。

「あなたが何を考えているか知らないけど、私はもうこの家の女主人なのよ!私がいなければ、私の息子を誰が支えると言うの?!無責任に放り出せって言うの?!」

「だ、だが、君が望んだことでは……」

「そんなのもう関係ないわよ!私は息子を愛しているの!あの子の苦労を肩代わりできるのなら、どれだけだってしてみせる!それが私の生きる意味なの!」

 わからなかった。

 マルツは狼狽え、一歩下がった。あの日、手を取らなかったことを怒っているのか?――違う。間違いを犯したのは、いつの自分だ?

「お帰りになって!二度と来ないで!……殿下とは生きる世界が違うのですから」

 君が欲しい。

 泣いていた君が欲しい。怒っている君が欲しい。清純な愛などとっくに壊れていて、もう自分を愛していないのだろうけど、君が欲しい。

 だが、マルツはそれを口にしなかった。黙って踵を返す。分別があるのだから。



 これから続いていくのは、息をしているだけで認められる時間だ。頑張る必要なんて一つもない。黙っているだけですべてが与えられる、それだけの時間。

 ――逆に言えば、何をしても認められない。死んでいるのと何も変わらないであろう時間だ。

 どこで間違えたのか永遠に問い続けるのなら、それは囚人と変わりがないのだろう。マルツはそう思い至って、自分が用意した牢獄へと帰ることにした。

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一番運命に翻弄された人かも・・・
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