第七章 終章・風の記憶、春に還る
春の朝は、驚くほど静かだった。
あの夜の騒ぎが嘘のように、街は穏やかに息をしている。
川沿いの柳が芽吹き、街路樹の蕾がほころびかけていた。
美希は通学路を歩いていた。
坂の途中にある古い神社の前で立ち止まり、手を合わせる。
その指先に、やわらかな風が触れた。
風は桜の香りを運び、どこか遠くから笑い声を連れてくる。
「……おはようございます、先生。」
小さく呟いてから、美希は坂を上った。
大学の門の脇には、豊郷の名前が刻まれた研究室のプレートが光っている。
彼は正式に奥里坂大学の特別教授となり、
“風の信仰と輪廻思想”という講座を新設した。
講義の初日、教室の窓を開けると、必ず風が吹き込むという。
それが偶然かどうか、学生たちは知らない。
だが豊郷はいつも笑ってこう言うらしい。
──風は記憶を運ぶのです。だから、静かに聴きなさい。
◇◇◇
学園の食堂では、孝と琴音が昼食を取っていた。
孝はスマホを机の上に置き、アプリを開いてみる。
画面の再生リストには、見慣れたタイトルがあった。
《ドッとライジング!》
「……まだ消えてねぇんだな」
「たぶん、もう誰のスマホにも出てないと思うわ。
──でも、私たち四人のには残ってるのよ」
琴音が微笑む。
風が吹き抜け、二人の間に置かれた紙ナプキンが舞った。
そのナプキンが落ちる瞬間、
アプリがひとりでに起動した。
『おお、よう聞いとるか? 風の子ら。』
掛水の声。
懐かしいバリトンが、笑いを含んで響いた。
『ちゃんと笑っとるやろな? 風はな、止まったら腐るんや。
ほんならまた、吹きに行くで〜〜。あっち側も忙しいねん。のう坂田。』
『おう、わしら黄泉を照らす巡業がまだ残ってんねん。じゃ、今夜も朝まで──』
『『レッツ、ライジ〜〜ング』』
声が消えると、風鈴が鳴った。
孝と琴音は顔を見合わせて、思わず笑った。
◇◇◇
放課後。
丘の上には、風の音だけが響いていた。
炎の台座があった場所には、新しい芽が出ている。
灰の下から、小さな若葉が顔を出していた。
美希と真弓が、その傍らに立っていた。
バイクは近くに停められている。
燃えた跡は、もう見えなかった。
「……ここ、また来ちゃったね。」
「俺のバイク、今度は無傷だな。」
「当たり前でしょ。」
二人の笑い声が、風に乗って広がる。
真弓はポケットから木札を取り出し、光にかざした。
焦げ跡の残るその札は、まだかすかに温かい。
「なあ、ミキ姉。」
「ん?」
「次は、ちゃんと前に乗ってろよ。……後ろは、俺が守る。」
美希は少し驚いて、それから笑った。
「……頼もしくなったじゃない。真弓くん。」
風が二人の間を抜け、春の匂いを運んだ。
遠くで、豊郷の研究室の窓が開く音がした。
ページのめくれる音とともに、鈴の音が微かに響く。
◇◇◇
夕暮れ、街の空が淡い橙に染まるころ。
美希は見上げた空の中に、ひと筋の光を見た。
まるで、風が火の粉を抱えて空へ還っていくように。
頬を撫でた風が、確かに言った気がした。
──風は巡る。命は燃える。
その両方があってこそ、世界は呼吸するのだと。
美希は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸の奥に、静かで確かな熱を感じた。
あの夏から始まった風は、いま、春に還る。
◇◇◇




