第六章 黄泉返しの儀
夜の街を、風が追ってきた。
いや──風ではない。
息のない、声を奪う“影の風”。
黄泉の口から漏れ出したそれは、生者を選ばずに追いすがる。
◇◇◇
「ミキ姉、しっかり掴まってろよ!」
「掴まってる! けど、ハマヤン、後ろ……!」
夜道を駆けるバイクのテールランプが、闇に一筋の光を引いた。
影は地面から伸び上がり、舗道の端から滲むように現れては追ってくる。
黒い霧のような腕が美希の足元に絡みつこうとする。
木札を胸に握り、必死に払うように翳した。
稲妻のような風が走り、影が一瞬退く。
「っ……離れろ!」
木札が焼けるように熱い。
美希は息を荒げながら、背中で叫んだ。
「ハマヤン、スピード上げて!」
「もうこれ以上出したらバイクごと吹っ飛ぶって!」
黒い影が壁を這い、並走してくる。
電柱の影が歪み、横から手が伸びた。
ハマヤンが反射的にハンドルを切る──
バイクがよろけ、タイヤが路面を滑った。
車体が傾き、壁ぎりぎりでバランスを取り戻す。
「危なっ……!」
美希が息を呑む。
その瞬間、バイクが止まった。
エンジンの唸りが途切れ、街が一瞬、死んだように静まる。
「もう、見てらんない!」
美希が叫ぶように言い、ハマヤンの肩を叩いた。
「交代!」
「はあ!? お前、免許取り立てだろ!」
「うるさい! 私の方が冷静!」
「どこがだよ!?」
「文句言うなら降りて!」
言葉の裏で、美希の手が震えていた。けれど、その目だけは揺らがなかった。
ハマヤンが舌打ちしながらバイクを降り、美希が前に跨る。
彼女は震える指でエンジンをかけた。
キーが回り、再び音が夜を裂く。
ハンドルを握る手は固く、目の奥には決意の光が宿っていた。
「俺のバイク、壊さないでくれよ!?」
「誰に言ってんの?」
美希が振り返りもせず言う。
「真弓より3つも年上なんだから!」
「……え?」
背後で、ハマヤンがぽかんとする。
「いま俺のこと……真弓って……?」
「いいから後ろ! ちゃんとあたしのこと守ってね!」
ハマヤンの口元が少し緩んだ。
「……了解。姫君。」
バイクが唸りを上げ、再び闇を裂く。
後部座席でハマヤンが弓を構えた。
空気が焼けるように張り詰め、火の弦が張られる。
弓の弦が風を切り、火矢が放たれた。
◇◇◇
街中に炎の軌跡が走った。
火矢が闇を裂き、影の塊を貫く。
燃える矢筋が夜空を横切るたびに、風が蘇った。
空気が震え、建物の窓が一斉に鳴動する。
影が呻き声を上げて後退し、黒い霧となって逃げ惑う。
「ミキ姉! もう少しで丘だ!」
「わかってる! あと少し!」
風が強まる。
だが、それは生きた風。
息をする風だった。
丘の上に灯る炎が見えた。
琴音と孝、そして豊郷が待っている。
◇◇◇
丘の上では、豊郷が結界の中心で支柱を押さえていた。
琴音と孝が、組み木の台座に最後の文様を刻んでいる。
風の通り道を整える“理の陣”。
音、火、息──すべてを一つに繋ぐための“構造”だ。
「孝くん、あと少しで完成する!」
「掛水さん、聞こえるか!? こっちは準備できた!」
孝はスマホを掲げた。
アプリの画面がノイズで揺れ、やがて懐かしい声が割り込む。
『……聞こえとるで、坊主ら。風の音、ちゃんと流れとるやん。
ええか、“笑い”と“音”で風を回すんや。怖がったら負けやぞ。』
「こんな状況で笑えって!?」
孝が目を丸くしてスマホの画面を覗き込んだ。
『あほ、そこはプロわしらに任せとけ──なあ坂田。』
『坂田もやるんかーい!』
「坂田さん! そこにいるんですね!」
思わず孝の顔が喜色ばむ。
『掛水の奴が一向にボケへんもんやから、わしの出番なくてな。ちゃあんと笑かしたるから安心せえ。伊達に黄泉巡業しとらんで。』
掛水と坂田──二人揃って初めて《ドッとライジング》だ。
この二人の掛け合いで孝は笑わなかったことがない。
掛水と坂田の漫談が始まる。
孝が笑い、琴音も笑った。
四人の声が混ざり合い、アプリのスピーカーを通じて夜に響く。
風が微かに応える。
──命のリズムが、戻り始めていた。
◇◇◇
バイクが丘へと駆け上がる。
風と炎の境界を突き破るように、夜空が裂けた。
美希はアクセルを開け、最後の坂を登り切る。
丘の上では、炎の台座が揺らめいている。
その周囲を、なおも影が取り囲んでいた。
『──寄越せェェェ……』
声が重なり、闇がうねる。
無数の顔が火の輪の外側に押し寄せていた。
風が歪む。
空気が凍る。
影の一体が美希に襲いかかった瞬間、ハマヤンの火矢がそれを貫いた。
「今だ、ミキ姉!」
美希は木札を掲げ、炎の台座へ駆ける。
その瞬間、豊郷の声が響いた。
「“風よ、炎を抱け──輪廻を回せ!”」
炎が風を喰らい、光が夜空を裂く。
影が次々と焼かれ、悲鳴が風に溶けていく。
だが──最後の一体が、豊郷の方へと飛びかかった。
「先生ッ!」
琴音が叫ぶ。
豊郷は倒れながらも、支柱を掴んだ。
火の粉が肩を焼き、皮膚が裂ける。
それでも、彼は離さなかった。
「まだ……早い……まだ閉じられん!」
「先生! もう十分です!」
「だめだ……風が、まだ目を覚ましとらん……!」
その時──。
美希の声が丘に響いた。
「──風よ、燃えて!」
炎が爆ぜた。
風が渦を巻き、朝の気配が空を染める。
影が悲鳴を上げ、光の中に溶けていった。
トンネルの方角から、鈍い音。
黄泉口が、完全に閉じた。
◇◇◇
朝。
丘には柔らかな風が吹いていた。
木々の葉が揺れ、鈴が優しく鳴る。
豊郷は包帯を巻かれ、火傷の肩を押さえていた。
孝が心配そうに覗き込む。
「先生、まだ動いちゃダメです」
「……やっと、これで……」
豊郷は微笑んだ。
「今度こそ、果たせましたな。あの時、守りきれなかった命を……」
その声に、琴音が柔らかく言う。
「ええ。でも先生──これでようやく、研究に専念できますね。」
豊郷は一瞬、目を見開いた後、ふっと笑った。
炎の残り香が風に混ざり、朝の光が丘を包む。
「やれやれ……やっとゆっくり休もうかなどと思っておりましたが、いまどきの若い子は手厳しい。」
「……そうですな。やっと、静かに書けそうです」
その言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
丘の端では、美希と真弓ハマヤンが並んで立っていた。
風が髪を撫で、桜の花びらがひとひら流れていく。
「終わったんだね。」
「ああ。風も炎も……ちゃんと、生きてたな。」
真弓が空を見上げる。
その瞳には、まだ燃えるような光が宿っていた。
「ねえ、真弓くん。」
美希が言う。
「やっぱり……その名前、好きだな。」
彼は照れくさそうに笑った。
女みたいな名前だと、昔からよく揶揄われた。
でも今はこの名前で良かった。そう思える。
「……もう、好きに呼べばいいよ。ミキ姉。」
風が吹く。
丘の鈴が鳴る。
その音の中で、遠くから掛水の声が聞こえた。
『風は巡るもんや。その行き先は、まだわからんなあ……また、きたりしてな。』
春の風が、ふたりの間を通り抜けた。
◇◇◇




