第五章 風の丘
春の風が、逆向きに吹いていた。
いつも南から流れてくるはずの風が、今日は北から吹いている。
町の風見鶏は軋みながら逆を向き、川面に立つ柳が一様にうねった。
空は晴れているのに、風の色だけが重たい。
何かが、根本から“反転している”──そんな気がした。
◇◇◇
豊郷の研究室には、紙の匂いと焼けた金属の匂いが混ざっていた。
古地図と古文献の山。その中央に、手のひらほどの木札が並べられている。
琴音と孝が、作業机の前で真剣な顔をしていた。
「……これが、炎の台座になる“組み木”なんですね」
琴音が言う。
机の上の木片はすべて異なる形をしており、
それぞれが互いを噛み合わせるように細工されている。
まるで、命の構造そのもののように複雑だ。
「炎は、ただ燃えるものではありません。
正しく組まれた“理”の上にしか灯らない。
あなた方の手で、風を導く炎の台座を形にしてほしい。」
豊郷の声は静かだった。
その右肩には包帯が巻かれている。
昨夜、影の欠片のようなものが研究室に入り込み、
豊郷は自らの身で結界を張り、美希を守ったのだ。
「先生、無理をしないでください。」
孝が言うと、豊郷は小さく笑った。
「心配はいりません。……焼けるのには、慣れていますから。」
その言葉に、美希の胸が痛んだ。
夢の中の塔──槍の男が焼けた柱を支えた姿が、重なる。
輪廻は、同じ光景を別の形で繰り返す。
その“記憶の継承”が、今ここで再び始まっている気がした。
◇◇◇
影の気配は、刻一刻と強まっていた。
風が鳴り、建物の窓が一斉に鳴動する。
研究室の外──街全体が、まるで息を止めるように沈黙していく。
「……来ます」
豊郷が呟いた。
室内の空気が一瞬で冷たくなる。
風が消える。
音が消える。
光までもが鈍くなった。
次の瞬間、天井から黒い裂け目が降りた。
影が揺れながら形を取り、人の輪郭を帯びる。
いくつもの顔が重なり合い、ひとつの声となって響いた。
『──寄越せ。』
美希が息を呑む。
木札が熱を帯びる。
影が彼女の方へゆっくりと伸びてくる。
その背後で、ハマヤンが動いた。
「ミキ姉、逃げろ!」
炎のような光が彼の掌から走った。
まるで空気が焦げたように、赤い筋が床を駆ける。
その光が影を切り裂き、黒煙が一瞬で散る。
「……ハマヤン、今の──」
「わからない。でも、体が勝手に……動いたんだ」
彼の手の甲には、燃えるような文様。
美希の木札と同じ、組み木の紋が光っている。
その光が、彼の腕から心臓へと伝わっていく。
──弓の青年の記憶が、目を覚まそうとしていた。
◇◇◇
「美希さん、聞いてください。」
豊郷の声が震える。
炎の気配が天井を舐め、研究室が軋んだ。
影は消えたが、封印の綻びはすぐそこまで来ている。
「風が乱れるとき、影は巫女を追う。
今は、あなたが影を引きつけねばなりません。
“囮”となり、儀式を守るのです。」
「囮……?」
「ええ。風を乱すのは命の熱。
あなたが動けば、影はそちらに引かれる。
その間に我々が“炎の台座”を完成させます。」
美希は唇を噛んだ。
怖い。
でも──あの塔で逃げ延びたのは、自分だけだった。
だから今度は逃げない。
“守られる側”から、“守る側”へ。
それが、今世の自分の役目だ。
「……わかりました。行きます。」
その言葉に、ハマヤンが立ち上がる。
目に炎を宿したまま、まっすぐに美希を見つめた。
「俺も行く。あんたを一人にはしない」
「でも──」
「俺の役目は、守ることだろ? それなら、迷う理由はねえよ。」
彼の笑みは、どこか幼い。けれど強い。
あの夢の中で、炎に包まれながら微笑んだ弓の青年のように。
◇◇◇
組み木の台座が完成する頃には、風は完全に止まっていた。
窓の外では、遠雷のような音が続いている。
空が赤黒く染まり、太陽が沈むよりも早く影が街を包んでいく。
「孝くん、琴音さん、頼みましたよ。」
豊郷が言う。
二人は頷き、慎重に台座へ火を灯した。
ぱちりと音がして、柔らかな炎が立ち上がる。
その火は夜風を孕み、まるで生きているかのように揺れた。
「……行こう、ハマヤン。」
「ああ。」
美希は木札を胸に抱え、風の止んだ街へと走り出す。
背後で、炎の音が呼吸のように続いていた。
風を呼ぶための“炎”。
炎を守るための“風”。
それが、二人の役目だった。
◇◇◇




