第三章 影の来訪
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
昨日の出来事が夢だったのか、それとも──。
胸の奥に、まだ風のざわめきが残っている気がした。
机の上の木札は、夜の間にほんのりと温もりを帯びていた。
手に取ると、指先から静かな震えが伝わってくる。
あの声のあと、しばらく部屋の空気が動かなかった。
まるで風が息を潜めて、何かを待っていたように。
◇◇◇
昼下がり。
学園の裏手にある坂道を下りると、小さな神社が見える。
古い鳥居と、錆びた風鈴。
学生の通り道になっているせいか、昼でも人影があるのに、どこか空気が冷たい。
「ミキ姉、こっち!」
声に振り返ると、石段の下にハマヤンが立っていた。
昨日、食堂で会ったばかりだが、今日はどこか真剣な顔をしている。
「どうしたの? こんな所で待ち合わせなんて。」
「昨日の話、気になってさ。……実際に見たんだ。風が止まる瞬間を。」
ハマヤンの声には、いつもの軽さがなかった。
昼の光の中で、彼の影だけが少し濃く見える。
その手には、小さな金属片──何かの破片のようなものが握られていた。
「これ、北のトンネル近くで拾った。
夜、工事の明かりがチラついてたから様子を見に行ったんだ。
……誰もいなかったのに、風が急に止まって、これが足元に落ちてきた。」
手渡されたそれは、焼け焦げた銅の札だった。
表面には、あの木札と似た紋様が刻まれている。
ただし、中央が歪んで割れていた。
まるで、“別の何か”を封じていた鍵のように。
「……どこで拾ったの?」
「北の再開発予定地。だけど、トンネルには入ってねぇよ。
入ろうとしたら、風が……“押し返してきた”。
音もなくて、息ができなくなるくらいの風だった。」
その瞬間、美希の指先に寒気が走った。
彼の言葉に、昨夜の掛水の声が重なる。
──“風が詰まっとる。通したってや。向こう側、開けに来とる。”
「……それ、誰かに見せた?」
「まだ。琴音に言う前に、ミキ姉に見せようと思って。」
「どうして、私に?」
「だって、あの声を聞いたの、ミキ姉だろ?
あれ、ただの風の音じゃねえ。……“呼ばれてる”感じがしたんだ。」
ハマヤンの言葉に、美希は息を呑んだ。
“呼ばれてる”──それは自分も同じだった。
夜ごと風の中から名前を呼ばれるような、あの奇妙な感覚。
ふと、風が止まった。
鳥の声も、木の葉の音も消える。
息を吸い込む音だけが響いた。
「……今の、感じた?」
「風が……止まった。」
二人の間を、黒いものが滑るように通り抜けた。
影──いや、煙のような“人のかたち”。
陽光の中でありながら、光を吸い取るような黒。
『……寄越せ。』
声が、地面の下から響く。
影が風を裂き、二人の足元へ迫った。
砂が浮き、風が逆巻く。
「下がれ、ミキ姉!」
ハマヤンが腕を伸ばし、美希を背にかばった。
その瞬間、彼の手の甲に赤黒い紋が浮かび上がる。
それは、美希が胸に提げた木札と同じ組み木の紋様だった。
風が逆流する。
影が膨張し、形を変える。
人とも獣ともつかぬ輪郭──“怨念”そのものが姿を持ったかのようだった。
「ミキ姉、走れ!」
「無理よ、あんなの──!」
「大丈夫だ! 俺は、今度こそ──!」
影が咆哮を上げた瞬間、木札が光を放つ。
風が巻き上がり、影の輪郭が歪む。
そこに炎のような光が走り──白い閃光が視界を塗りつぶした。
◇◇◇
気づいたとき、美希は神社の石段の上に倒れていた。
夕陽が差し込み、鈴が小さく鳴っている。
隣ではハマヤンが額の汗を拭っていた。
「……大丈夫?」
「なんとか。あれ……何だったんだ?」
彼の声が震えている。
だが、瞳の奥には奇妙な確信のような光があった。
「ミキ姉、俺……あの黒いやつを見た瞬間、
心の奥で“知ってる”って思った。あいつらを、前にも見た気がする。」
美希は答えられなかった。
ただ胸の木札が、まだ熱を帯びていた。
まるで──「まだ終わっていない」と告げているかのように。
風が再び吹き抜けた。
どこからか、掛水の声が混じる。
『……風は巡る。けどな、道が狂っとる。戻さなあかん。
ミキちゃん、あんたの“風”、まだ途中や。』
声は遠く、風の中に溶けて消えた。
ハマヤンは、美希の肩に手を置いた。
その手のひらは熱く、力強かった。
「なあ……ミキ姉。
俺たち、また“呼ばれた”のかもな。」
◇◇◇




