第37話 山守姉妹の母
門を抜けた俺たちは、上品な和服姿の“お母さん”に先導されて、漆塗りの回廊を進む。中庭には飛び石と手水鉢、そして鹿威し──竹筒が石に落ちる澄んだ音が耳に心地良い。舗石の継ぎ目一つ狂いがなく、長年の手入れが行き届いているのが分かる。
視線を前に移すと、先を歩くお母さんの背筋は一本の弦のように伸び、歩幅も乱れない。まるで能の舞台を踏む役者のようだ。
「……さっきから、お母さんのこと見てない?」
袖口をくいと引かれ、山守――いや秋月が小声で問いかけてくる。目がほんのり吊り気味だ。
「いや、立ち姿が綺麗だなって思っただけさ。何か習われてるのかなと」
「ふふ、そういうことね。お母さん、茶道と華道の先生してるから。昔から姿勢には厳しかったよ」
秋月が安堵したように笑う。先ほどの“牽制”が解けたようで、俺も胸をなで下ろす。
廊下は緩やかに曲がり、その先に格天井の大広間があった。朱塗りの欄間、畳は鮮やかな青畳で、外光が障子を優しい乳白色に染めている。床の間には季節の山野草が簡素に活けられ、凛とした香気が漂った。
「どうぞ楽になさってください」
お母さんの柔らかな声に促され、自然と正座になる。 するとモコが俺の隣でぺたんと膝を折って座った。完璧な正座──尻尾だけが嬉しさを隠しきれずに左右へ揺れている。
「モコ、お行儀良いな」
「ワン♪」
ラムは畳の端をくるくる回ってから落ち着き、秋田犬の菊郎は座卓の脇で伏せの姿勢を取る。まるで護衛のような佇まいだ。
「改めまして、秋月と紅葉の母の月見でございます」
お母さんが丁寧に頭を下げる。自己紹介を聞き、俺も慌てて背筋を伸ばした。
「風間 晴彦と申します。現在、この子達と一緒にダンジョンで過ごさせていただいています。勝手にお邪魔してしまい申し訳ありません……」
お母さんはかすかに目を細めて、穏やかに首を振った。
「いいえ。清掃の件といい、父が大事にしていた山を気遣ってくださったのでしょう? あの人もきっと喜びます。秋月が良いと言うなら、私どもに異存はありません」
胸が温かくなる言葉。モコとラムも“良かった”と言わんばかりに俺の膝に前足と体を預けた。
「では、ささやかですがお茶をお点てしますね」
「い、いえ本当にお気遣いなく!」
「遠慮なさらず。お若い方に飲んでいただくのが嬉しいのです」
にこりと笑みをたたえ、立ち上がる所作も一分の隙もない。茶道の師範というのも頷ける。
月見さんが袖を払って去った瞬間、秋月がこっそり耳打ちしてきた。
「パパにもちゃんと挨拶してね。ビックリする見た目だけど……うん、話せば良い人だから」
「ビックリ?」
「えーっと、百聞は一見にしかずかな」
不穏な含みを残したまま、月見さんが戻ってくる。朱色の懐石盆の上には、蒸気を立てる鉄瓶と棗、そして見事な茶筅。畳の上で手際良く茶を点て、黒楽の茶碗を俺に差し出した。
「熱いので気をつけて。どうぞ」
若草色の泡がきめ細かく、ほのかに甘い香りが鼻を抜ける。濃厚な旨みのあとに、爽やかな苦味がすっと消えた。
「とても美味しいです」
「それは何より」
秋月と紅葉にも薄茶が渡り、モコとラム、菊郎には動物用ビスケットを。「ワン♪」「ピキィ♪」と嬉しそうに頬張る。
ほっとしかけた、その時だった。
ドス、ドス、ドス……
廊下を地響きのような足音が迫り、襖が豪快に滑って開く。刈り込んだ丸刈り、丸太のような首、広い肩幅。柔道着の袖を捲くり、黒帯の結び目をぎゅっと握る――熊のような男性が立っていた。
「むぅ……誰だ貴様はッ!」
鋭い眼光が俺を射抜き、驚きと威圧が空気を震わせる。モコとラムが一斉に背後へ隠れ、菊郎でさえ小さく鼻を鳴らした。
「あ、お父さん!」
秋月が慌てて立ち上がる。まさかこの人が山守家の――
「許さあぁぁぁあああぁぁぁぁぁんッッ!!」
雷鳴のような咆哮。畳が震え、茶碗の湯が揺れる。
俺は硬直し、背中に冷たい汗がつっと流れた。
(お、怒ってらっしゃる!? や、ヤバい!)
モコが足首にしがみつき、ラムがぷるぷる震える。俺も声が出ない――!
広間に張り詰める重圧。父親の視線が俺を串刺しにする中、運命の(?)対面が始まろうとしていた。




