第二章①
その時がきたことを感じて、沙依はハッとして動きを止めた。そして意味もなく空を見上げ、少しだけ考えを巡らせる。ほとんど感情を揺らすことがないわたしが、今はかなり動揺しちゃったからな。今ので絶対ナルには何が起きたか気付かれた。そう自分の夫に自分が隠したいことが筒抜けであることを考えて、沙依は色々画策することを諦めた。
ターチェの婚姻の儀式である唯の儀を行った夫婦は、魂の契りを結ぶことになり、死が二人を分かつまで分かつことのできない強力な絆で結ばれることになる。思考が筒抜けと迄はいかないものの、感情の揺れが相手に伝わってしまう。強い感情であればあるほどハッキリと相手に伝わり、相手がその時何を思っているのか解ってしまう。実際は感情の揺れなんて人それぞれで、だからそれだけで何が起きたかまで把握されることなんてそうそうありえない。でも沙依の場合は、普段それほど感情を揺らすことがない為、大きく動揺すれば何事かと思われるのは当然で、そしてその心当たりを探られば直ぐ真実に辿り着かれてしまうのは必然だった。
わたしの異変に気が付いてから、ナルが事実に辿り着くまでなんて数秒もかからないだろう。そう思うから沙依は、それを今から取り繕うとしたって無駄だと思った。もうバレてる。冷静さを欠かない夫の感情が変わらず大きな揺れを示さないまま、深いところで重苦しく沈んでいるのを感じて、沙依は申し訳ないような気持ちがした。その時がきたら、もう少し冷静でいられる気がしていた。わたしが平気なら、ナルだってここまでこの時を重苦しく受け止めなくてすんだのに。でも、こんなに動揺するなんて、やっぱわたしはこの時がくるのが嫌で嫌で仕方がなかったんだな。そう考えて、沙依は一つ溜め息を吐いた。
自分がすべきことを考える。そして別にすることなんて何もないなと思う。子供達も独り立ちしてて親の手なんかいらないし。まぁ、親の手が必要でもナルもいるしね。皆もついてるし、心配することなんてない。やらなきゃいけないことを強いて言うなら、退役届けちゃんと出しとかないとってことくらいかな。別に出さなくても適当に処理してくれそうだけど、そこはちゃんとしとこうか。今は平和な時代だし、軍人なんてそんなに必要じゃない。実際自分が抜けていた間、第二部特殊部隊は一馬が代わりを勤めてくれててちゃんと回ってたわけだし、わたしが不在になっても問題ない。わたしが退役するって言ったら、あいつら色々うるさそうだけど。それだけ。いや、でも、理由が言えない退役なんてあいつら絶対納得しないし、色々面倒くさそうだから、あいつらには黙っていなくなろう。絶対怒るけど。わたしが居なくなった後でナル経由で退役届けが提出されれば、一馬含め主だったところはそれで察してくれるだろうし。わたしが居なくなった後のごたごたは、一馬やナルに任せよう。尻ぬぐいさせて、だいぶ負担を掛けちゃうけど、それは仕方がない。残された時間が限られている以上、時間は有効に使いたい。あいつらの世話は、わたしの中で優先順位が低い。申し訳ないけど。そんなことを考えて、沙依は少し気が重くなった。
自分が居なくなっても何も問題は無いことは解っている。でも、問題は無いけど、やっぱり受け入れるのは難しい。前だったら何も問題が無いなら全く平気だったのに。こうしてこの場所に在ることに固着してしまうのは、繋がったナルの感情のせいなのか、自分の意思なのか。でも、ナルに会いたくないと思うから、きっとこれは自分の意思なんだろうなと思う。本当は誰よりも先に会いたい。どれだけの猶予があるのか自分には解らないから、解らないからこそ、夫の元に行きたい。でも、顔を合せてしまえば、自分がここから消えたくないという想いが強くなりすぎてしまいそうで、行きたくないと彼に縋ってしまいそうで、怖い。皆がいる世界がこのまま継続して欲しいと思うのに、そこにこのまま自分もいたいと思う。それが叶わないと解っているのに、願ってしまう。願ってしまったその先は、全てが一に戻るしかないのに。いくらわたしが自分勝手でワガママで、今までこうあって欲しいと願う未来を、摂理をねじ曲げてでも手にしてきたといっても。こればかりは、どちらかを選ぶしかない。自分一人がこの世界から消えるか、全ての存在を一に戻し全ての意味を無意味にしてしまうのか。実際は違うけれど、無理矢理今の概念に当てはめるなら、一人で死ぬか、自分も含め世界を滅ぼすかの二者択一。人にきけば即答で、前者を選択するのが正しいと言われるに違いない。自分もそれが正しいと思う。以前の自分なら、その判断を実行するのにためらいもしなかったと思う。なのに、こんなにも後ろ髪引かれるなんて。本当、自分じゃないみたい。こんな感情、自分のモノにならなきゃ楽だったのに。そう考えて沙依は、やっぱこんな状態でナルに会いたくないなと思った。
そっと目を閉じて、自分の中に流れ込む夫の感情に想いを寄せてみる。そうしてみた夫の覚悟の強さに、沙依は目を開けて小さく笑った。ナルは流石だな。わたしみたいに感情が解らなくて平気だったのと違って、ナルはずっとこれと向き合って生きてきた。平気じゃないけど平気なフリをして、色々なものを背負ってずっと一人立ち続けてきた。そしてこれからもずっとそうして生きていくんだろう。ナルが覚悟を決めているのなら、わたしもちゃんとしないとな。弱音を吐くのは後で良い。後悔してから弱音を吐いて、独りぼっちの世界で耐えきれなくなったら助けてって叫び続ける。そうしたら、助けに来てくれるって約束したから。世界を滅ぼすことになっても、わたしを助けに来てくれるってナルは言ってくれたから。だから、本当にどうしようもなくなるその時まで頑張ろう。永遠に頑張らなくてもいい、頑張れる間だけ頑張れば良い。それでいいなら頑張れる気がする。ナルは嘘つきだから、そう言っておきながら来てくれないかもしれない。世界とわたしを天秤に掛けて、結局は世界をとって永遠にわたしを助けに来てくれないのかもしれない。でも良い。それはそれで。その代わり、ナルはわたしと一緒に苦しんでくれる。永遠に、わたしの苦しみを受け止めてくれる。ナルはそのどちらの覚悟も決めている。そして、どちらの選択をしても、それをわたしのせいにしない。わたしを悪者にしたりしない。そう解ってるから。だから、わたしも頑張ろう。これからはわたし自身がナルの背中の荷物になってしまうのは避けられないから、ナルがその重荷に潰されないように。もう二度と顔を合せ言葉を交わすことも、互いに触れることもできなくなったとしても、わたし達は魂の絆で結ばれた夫婦。わたしが消えてしまっても、ナルはわたしに縛られたまま、他の人とは契れない。でも、それでも良いと言ってくれたから。それでもわたしと契りたいんだって言ってくれたから。この時が来ることも踏まえた上で、全部受け止めてくれて夫婦になったんだから。わたしも覚悟を決めよう。そう考えて、沙依は夫が待っているであろう我が家に向かった。




