騙し討ち
1555年 観音寺城 六角忠定
「若様!お待ちくだされ!走って逃げても無駄ですぞ!」
傅役の三雲定持が息を切らしながら追ってくる。もう50近いのに凄い体力である。しかし、こちらも易易と捕まる訳には行かない。本丸を出ると、左手に向かって走り出す。その前にその場にいた物に忠定は右に行ったと言うように言い含めておく。佐野の屋敷を通りすぎると、三雲定持の屋敷が見えてくる流石の定持も自分の屋敷に逃げ込むとは思うまい。
「誰かー」
屋敷の前で呼び掛けてみる。誰も出てこない。これは、定持に言い含められているのかもしれない。ならば、ここには用はない。別の屋敷に匿って貰おう。布施の屋敷とかどうだろうか。
踵を返して走り出そうとした瞬間、脇腹に何かがぶつかった衝撃が走る。飛ばされる様に仰向けに倒れる。
「忠定の兄貴、悪いね。親父から見つけたら捕まえるように言われてるんだ。」
「成持、嵌めやがったな。」
脇腹に突っ込んだ犯人は、申し訳なさそうな口ぶりとは裏腹に満面の笑みである。三雲成持、三雲定持の息子であり、三雲賢持の弟だ。中々の美少年でもある。あんな厳つい雷親父からこんなのが産まれるのは、誠に不思議なものである。
「兄貴、嵌めたなんて人聞き悪い事を言わないでよ。油断していたそっちが悪いのさ。」
「分かった。俺が悪かった。分かったから、身体からどいてくれないか。」
「それは無理なお願いだね。さっき言ったろ。親父が兄貴を見つけたら捕まえてくれって。親父が駆けつけて来てくれたらどいてあげるよ。」
おのれ成持共に同じ乳を飲み育った乳兄弟だと言うのに親父に売り飛ばすというのか。魔の手から逃れる為に藻掻くが流石は甲賀者。武士の性格が強いとは言え、その体術は他の武士よりも格段に熟達している。
ならどうするか。体格差で無理やり持ち上げるのだ。栄養をしっかりと取り、不本意ながら鍛えられたこの身体は、大叔父である氏綱公の様に中々大柄なものになっている。これを使わない手はない。
「藻掻いても無駄だよ。諦めて大人しくすうぇ!」
和服の襟を持ち、片手で無理やり持ち上げる。どうやら今度は成持が油断していたようだ。素っ頓狂な声を上げながら大きく姿勢を崩す。そのまま、拘束から抜け出すことに成功する。だが、相手も逃すまいと必死である。今度は服を掴んでいた右手に絡み付いてきやがった。そのまま、しつこい成持と格闘している間に定持がやってきた。
「成持良くやった。若様、ここが年貢の納め時ですぞ!」
そう言って、なんと三雲定持も飛び込んできた。大の大人が恥を捨てて飛び込んで来たのだ。そのまま威力たるや。もんどりうって地面に叩き付けられる。完全に伸びてしまった俺を二人でえっちらおっちら、担いで本丸に引き戻されてしまった。
「若様、婚儀の日程は先方と我ら重臣達の会議で決まった事です。これは御屋形様のご了承もいただいております。どうか理解を示していただけませぬか。」
「まだ、早い。この身はまだまだ未熟であり、妻を迎えることなんぞとても考えられない。どうだ、もう一度考え直さぬか。」
来年でやっと16だぞこっちは。結婚してたまるかってんだよ。徹底抗戦の構えを取るしかない。
「若様、今までの行いを振り返ればその様な事は通りますまい。どうかこの定持の顔を建てる為に首を縦に振っていただけませぬか。」
定持がもう、泣きそうな顔でこちらを見てくる。定持には傅役として幼い頃より第二の父、亜父として尊敬している存在である。それに、息子である成持の前である。面子が何よりも大事なこの時代。股肱の臣である定持の面子を潰す事はどうしてもできない。
「.........分かった。定持からの願いだ。受け入れるよ。」
「流石は若様。されど、この様な泣き落としに引っかかるようではまだまだですな。」
面を上げた定持の顔には満面の笑みが浮かんでいた。そう、騙されたのである。
「嵌めおったな、定持。」
「嵌めたとは人聞きの悪い事を仰りますな。汗によって目から涙が出ていたように見えましたかな。」
「父上、そこまでにした方が宜しいかと。忠定様が凄まじい形相をしておられますよ。」
「これは失敬。何時も若様に振り回されてばかりなのでここぞとばかり。されど、某の若様を思う気持ちは、傅役を拝命した時より一切変わっておりませぬ。」
頭から足まで忠誠心がみっちり詰まっている定持の言葉である。上に立つものとしてこれ程までに滅私奉公されてはそれに答えなければならないし、このような配下を持つことが出来て嬉しいものだ。
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