尾州侵攻
久しぶりの更新です。
1554年 4月 伊賀上野城 六角忠定
北伊勢の差配が終わり、築城開始から約2年が経ちある程度形になってきた伊賀上野城に戻ると次は将軍が六角氏討伐の軍を起こし、それに便乗し浅井氏家臣が浅井久政を追い落とし、別の人物を当主に据え六角氏に反乱を起こしてきた。
今は父義賢が、近江勢3万を率いて小谷城を囲みつつ若狭武田氏・越前朝倉氏と睨み合っている。そして、私は近江勢の一部と伊賀・北伊勢の諸衆を率いて美濃・尾張の国境の防御を命じられた。
「三雲定持よ、私はただ敵を待ちぼうけしているだけでは父上の援護とならぬ様に思う。」
「とおっしゃいますと。……まさか、忠定様。」
戦の準備に慌ただしい中、城内の屋敷で三雲定持と今後の方針について話し合う。その中でわたしの考えている事を匂わせると、考えを理解したであろう定持が信じられないという面持ちでこちらを見てくる。
「そのまさかだ。清須織田家をだしにして尾張の一部を制圧しつつ、隙あらば美濃に進出してやろうと考えておる。」
私の言葉に定持は顔を曇らせると、意を決したように諫言してきた。
「尾張には、斎藤利政の娘婿である織田信長が勢力を誇っております。それに対し、同盟を結んでいる清須織田家は主君である斯波氏を弑逆しその勢力は今や風前の灯火。ここは大人しく防御に徹するべきでしょう。」
「確かに尾張国内だけを見るとそうであるが、織田信長は今川と知多半島一帯を巡って争っておる。今年の2月末には、村木城で今川方と戦っておる。我らが攻勢に出れば今川も動きを見せるであろう。美濃は、望月出雲守の伝を使い本家である信濃望月家を通して武田晴信に東美濃の撹乱を確約させておる。美濃・尾張において十分に手を回しておる。」
「ですが、御味方は多く見積っても8千あまり、これでは尾張の制圧はおろか美濃への進出は出来ませぬぞ。それに、他人が自らの思うがままに動くことは決して有り得ませぬ。若様は、まだまだお若いのですから老人のように生き急ぐ事などありませぬ。経験を積み、多くのことを学び、一歩一歩確実に事を進めるのが上策でありますぞ。」
どうやら、定持は美濃侵攻には反対の立場であるようだ。しかし、無理やり押し通すのも良くはない。ここは私が折れるしかないだろう。
「分かった。美濃侵攻は取り止めにして、尾張を切り取ろう。但し、美濃進出する構えは取り続ける。これでどうか?」
折衷案を提案すると定持は、我が意を得たりといった風に頷いた。
「爺は、諫言が受けいられて嬉しゅうございます。若様の逸る気持ちもよく分かりますが、それを理性で押さえ確実に歩を進めることこそ肝心であります。」
「定持これからもなにかあれば、私を諌めて欲しい。」
「それが臣下の勤めにございますゆえ、これからも何度も申し上げますぞ。」
これは手厳しいと笑いながら、会話を締め括ると本格的な尾張侵攻の為に本営を伊賀から北伊勢の千草城に移す。伊賀勢が1千5百、近江勢5百、旗本衆3千、北伊勢勢2千の合計7千が集まった。北伊勢は、まだ混乱していると思っていたがかなりの数を集めてきたのは驚いた。
伊賀勢は、藤林長門守、近江勢は、三雲賢持、旗本衆は青地茂綱、北伊勢衆は梅戸高秀をそれぞれ大将としている。
千草城に集まった諸将を前に尾張攻めの計画を発表する。
「まずは、先鋒を北伊勢に任じ、第2陣を伊賀勢、本陣を旗本衆と近江勢で固める陣立とする。意見があるものはいるか。」
誰からも意見が出なかったので具体的な話を進めていく。
「まず、先鋒は3里の渡しを通り佐屋に着いたあとは、蟹江城を落としそこに着陣せよ。次に第2陣は、同じく佐屋に着いたあと北上し津島を制圧した後、勝幡城を占拠して陣取るべし。最後に我ら本陣は、両城が陥落した後に清洲城に入城する。」
「我ら先鋒が目的とする蟹江城から佐屋までの間には幾つか城塞があるがそれは如何すべきしょうか。」
梅戸高秀が質問を投げ掛けてきた。
「基本的には、我らが攻め落としその後に清須織田家から守備の兵を出させる。有力な家臣を多く失っている清須織田家ではあるが、城の守備位なら出来るであろう。」
「そのような家に背後を任せるのは不安でありますな。」
高秀の心配も最もだ。だが、対応は確りと考えてある。
「もし後背で何かあれば、勝幡城、清須城より援軍を出せる体制を整えるつもりだ。また、この三城と庄内川を持って織田信長を抑え込む。」
最も撤退に追い込まれる様なことになれば、津島を焼き払い織田信長の片翼をもぎ取って行くことも出来る。
西に父上、東に武田晴信の両名に挟まれれば流石の利政も信長に援軍を出すことは出来ないだろう。ここで、豊かな尾張地の西半分を奪い取りたい。さすれば、今川と結んで信長をすり潰すことが出来る。将来の脅威は、まだ小さな芽のうちに摘み取って置くのが良いであろう。
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