元服式流れる
物事を適当に決めてはいけない。
1553年 3月 観音寺城
三好長慶と足利義輝の和睦は早くも今月8日、義輝が霊山城に入城したことで破綻した。足利義輝は多くの幕臣の意見を聞かず、上野信孝ら6人と計って長慶と対決する道を選んだようだ。これに呼応した、晴元は京の畑に出陣したが長慶に一蹴されてしまった。
この後すぐに三好長慶は、細川晴元・細川氏綱と同じ従四位下となった。朝廷は、細川氏綱と三好長慶を同格の存在として認めた様だ。
5月 観音寺城
京から我ら六角家内部に目を向けてみると、伊勢の豊受太神宮から社殿造替及び正遷宮の費用の援助の依頼が届いた。これに対し、父義賢は金銭の援助と人夫の供出を約束した。
伊勢で大きな影響力を持つ寺社勢力を取り込むことで伊勢での影響力を拡大させる方針は上手くいっているようだ。伊勢各地から送られてくる書状には父義賢を伊勢国主として認めているものが年々多くなっている様だ。
南伊勢での北畠対策として伊勢神宮との連携も強めている。北畠家に奪われた領地の返還を行わせたり、税金の免除などを行い伊勢神宮の地を発展させようとしている。この行いは帝にも伝わり、好感触を得るなど一石二鳥の策である。
6月 観音寺城
今月17日、阿波守護の細川氏之が配下の三好実休とその弟である十河一存、両者の共謀によって攻められ三好氏の菩提寺である見性寺で自害するという出来事が起こった。所謂勝瑞事件である。
甲賀衆からの報告によると意外な事に三好実休よりも十河一存の方が細川氏之弑逆に積極的だったようだ。十河一存は讃岐国衆であった十河氏の養子となっているが、今の讃岐では西讃岐の守護代香川之景、東讃岐の守護代安富又三郎の両者が権勢を誇っている。特に香川之景は、細川晴元からの援助要請を受けていたり、晴元と氏之の仲介をしていた。
十河一存は、過去讃岐に強い地盤が無く晴元と氏綱の争いのどさくさに紛れ十河氏の城を奪っていた。この行動は、晴元を裏切って讃岐内での地位を得たことになる。ここで阿波の氏之と讃岐の香川之景が手を組んでしまえば真っ先に標的となり讃岐から没落する可能性が高い状況に追い込まれていたようだ。
また三好実休の方は堺公方である足利義維を正式な将軍に推しており、義輝と繋がっている晴元と手を結ぼうとする氏之を排除しようと考えていたのだろう。
三好実休と十河一存の両者の思惑が一致したことにより共謀して細川氏之を自害に追い込んだのだろう。
細川氏之の遺児である真之は実休が養育する事となった。氏之の自害の前後に名東郡の久米義広・野田内蔵助・佐野平明・小倉重信・仁木高将が反三好を掲げ挙兵したが直ぐに鎮圧される事となった。また、畿内では細川晴元が弟氏之の死を悲しみ出家して永川と名乗った。
一連の出来事により、三好実休は実力を持って阿波守護を排除し阿波国衆を従えることとなった。これにより阿波は完全に三好家の領国の1つとなった。しかし、混乱が収まるまで畿内で活動している兄三好長慶に援軍を送ることは出来ないだろう。
六角家の出来事としては、俺の元服式の日程が8月7日に決まり、将軍の御臨席の下盛大に行われることとなった。三好氏からは、安宅冬康が三好長慶の代理として来ることが知らされた。ここで両家の絆を再確認したいのだろう。ここから元服式に向けの練習等が始まる。また、臨時の建物等が建てられたり、本丸の完成が急がれているようだ。
7月 観音寺城
遂に元服まで残り僅かという28日、京より衝撃の連絡が入った。今月の14日から長坂や舟岡で安見宗房らと交戦していた細川晴元勢が長坂から出陣し上野信孝ら5、6人の奉公衆に迎え入れられたのだ。これは何度目か分からない三好長慶に対する足利義輝の蜂起であることを示す。
この知らせに驚いた父義賢は、急いで将軍と長慶の両者に使者を送り和睦の斡旋を始めた。両者が戦を初めると俺の元服式が流れてしまうからだ。長慶からは何とか合意を得ることができたが、将軍側では上野信孝が使者として赴いた永原重賢を将軍の面前で罵倒し追い返されてしまった様だ。
三雲定持
御屋形様の御命令により評定が開かれた。議題は、亀寿丸様の元服式についてである。広間に入ってこられた御屋形様の表情は、般若の如き表情であられた。普段は冷静沈着で感情を表に出されないお方であるというのに。そういう私も悔しくてたまらない。我が子のように思っている亀寿丸様の目出度い日を、これ程までに滅茶苦茶にした相手が将軍でなければ兵を率いて討ち取っていたであろう。
「我が六角家は将軍から2度の討伐を受け、その後に赦免された。それ以来、心を入れ替え父定頼と私義賢の2代に渡り真摯にお仕えした結果がこの仕打ちか!」
お座りになった後に怒りが抑えられなかったのか声を挙げられる。
「加えて、私が送った使者の永原に幕臣の上野某が私と父のいわれなきことを論い、将軍の面前で罵倒したというではないか!私はまだ構わぬ。されど!あれ程幕府に尽くした父を罵倒するとは!腐れ外道め!」
そう言って御屋形様は涙を流される。我らは将軍側のあまりの暴挙に顔を伏せ涙を流す者、怒りを浮かべる者様々出会った。
「御屋形様、落ち着きください。怒りに呑まれれば見えることも見えなくなりますぞ!」
蒲生定秀殿が勇気を出し、御屋形様を諌める。定頼殿のことを敬愛している定秀殿も辛いであろうに、進藤殿が亡くなられた今、この六角家家臣の中での最長老としての勤めを果たしておられる。
怒りを吐き出して落ち着いたのか、御屋形様は定秀殿の諫言を受け入れられた。
「皆には見苦しい姿を見せてしまった。」
「御屋形様、まずは喫緊の課題である亀寿丸様の元服式について話し合いましょう。」
「定秀の言う通りである。誰か意見のある者はいるか?」
御屋形様が意見を求められるが、烏帽子親になってもらう予定出会った将軍足利義輝が式に来れなくなった今、元服式は両者が和睦するまでは出来ぬであろう。
「御屋形様、某に腹案がございます。」
進藤賢盛殿が声を挙げる。
「話してみよ。」
「御屋形様も知っての通り、我が進藤家には山城国に近衛家に被官として仕えているものがおります。また、御屋形様も近衛家とは深い仲。この2つの繋がりより近衛家を動かし、朝廷から勅使を元服式にお迎え出来るように動くというのはどうでしょうか?」
賢盛殿の仰ったことはまさに奇策というべきものであった。しかし考えてみると、今の朝廷や公家の殆どは六角家の援助に頼っている。そして、この金銭は幕府を介して送られている。朝廷や公家としては、幕臣と六角家の仲が拗れることは望まないはず。
中でも近衛家は、幕府と六角家に強い繋がりを持っており両者が啀み合うのは望んでいないだろうから、ここを突破口とするのは悪くない考えだろう。
「しかし、そのような前例はない。朝廷が動くのだろうか?」
定秀殿が疑問を投げかける。これは当然の考え。呼ぶことが出来れば、式が多少遅れたとしてもそれを補ってあまりある名誉。しかし、これも実現出来ればの話であるが。
「正直に言いますと可能性は低いでしょう。しかし、朝廷内では六角家を頼みとする声は大きく反対に将軍への不満が溜まっております。ここで何もしなければ御屋形様の体面は大いに傷つけられたままであります。ここは、清水の舞台より飛び降りる気持ちでやってみようではありませぬか。」
若人の無謀な賭けとも言える策ではあるが、将軍の権威を越えるものは朝廷しかない現状ではやってみる価値は大いにあるだろう。家臣一同御屋形様の決断を待つ。
「…良かろう。進藤賢盛、其方にこの件を一任しよう。他の者も賢盛より助力を求められれば協力してやって欲しい。元服式は、この件の結果が分かるまで延期とする。良いか?」
異論等出るはずもない。願わくば亀寿丸様と御屋形様の名誉回復の為に朝廷からの勅使を迎える事が出来るようにとただ祈るばかりである。
適当に元服式の日付を決めたら将軍が京から追い出されて丹波に行っちゃってた。
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