飛び交う陰謀
大量の人名が出てきますが、殆ど今回だけしか出てこない名前で構成されています。
1552年 12月 観音寺城
今月の1日に三好長慶は重い腰を上げ、京に入った。芥川孫十郎を降伏させてから後の事であった。それに伴い、細川氏綱が淀城に入城し、21日に本願寺の証如より歳暮を受け取った。そして、25日三好長慶の嫡男千熊丸が元服し孫次郎を名乗ったようだ。
史実によれば、来年から将軍が対三好強硬派に引きづられ再び細川晴元と結び、三好長慶と対立するのである。何とかしてこの火の粉を避け平和に過ごしたいものである。
ゆっくりと鷹の絵を描き、家臣達に手紙付きで送る。やはり、優雅なものを送ると皆とても喜んでくれる。今度は彼らを茶の湯に呼んで対面で仲を深めよう。祖父定頼から受け継いだ名器を幾つか持っていき彼らに見せよう。
大広間では、義賢が家臣を集め評定を行っていた。
「諸君らはもう知っていると思うが三好長慶殿の嫡男が元服した。私もそろそろ亀寿丸の元服を考える時が来たと感じた。皆はどう思う?」
義賢の発言は多くの家臣達の賛同を得る。義賢は、三雲定持に発言を促す。
「私個人としては何時でも良いと考えております。亀寿丸様は、聡明にして武芸もよく学ばれており、何処へ出しても恥をかくことはごさいません。今直ぐにでも元服できる状態に亀寿丸様はございます故、何時でも良いと考えております。」
「で、あるか。」
義賢はそう発言すると、少し考え込んだ。
「では、来年の8月を目処に吉日を選び観音寺城にて亀寿丸の元服を執り行う。将軍の臨席を願い出る書状や朝廷への官位工作の為の書状を送ろう。これに伴う奉行の任命などは後日行おう。皆、これで良いか?」
義賢は家臣達からの異議が出なかったことを確認し、満足そうに頷く。亀寿丸の知らぬところで元服する日時・手順が決められて行くのであった。
1月 京 上野信孝
1月1日、三好長慶は足利義輝に使える公家衆・奉公衆・御供衆と共に将軍に挨拶に赴いた。しかし、三好長慶を幕府より排除しようとするという噂が京中に広がった。これに対し、長慶は身の危険を感じた事により8日、急いで淀城へ退却した。
「上野信孝、どうするぞ?何処からか計画が漏れたのではあるまいな?」
「大樹、我が同士にそのような不埒な輩は一人もおりませぬ。残念ながら大樹と長慶の間にすきま風が吹いておることは、京雀の人口に膾炙しております。恐らく京雀の噂が広まっただけでしょう。」
「なら良いのだが。では余は次にどう動けばよい? 」
大樹は、不安げに私にお問いになる。私は自信を持って答える。
「今はことを起こすには状況が悪うございます。ここは怒りを抑え三好との和解をし、機会を待ちましょう。恐らく機会は直ぐにやって来るはずです。」
「信孝、其方の言葉を信じよう。必ずや共に三好を打ち倒そうではないか。」
大樹の有難いお言葉に私は涙を流しながら頭を下げる。三好を除き幕府の主導権を大樹の元にお返しし、幕府の再興を義輝様と共に行うのだ。
15日、義輝と長慶は互いに敵意が無いことを確認し和睦した。そして翌日1千5百の兵が義輝の護衛を名目として京に派遣された。
「信孝、どうやら三好は我らの事を信用しておらぬようだ。三好の寄越した兵のせいで我らの活動の幅は著しく狭められることとなったぞ。加えて其方らが晴元と内通しておる事も知られておった。」
「なれば我らの方から三好に人質を出しましょう。さすれば疑いはとけずとも警戒の度合いは下がるでしょう。」
「其方のように余の事を心から思ってくれる幕臣が僅かにしかおらぬ事が誠に嘆かわしい。父の代から付き従う幕臣共は三好を恐れ、媚びへつらって居る。これでは幕府の権威が落ちるばかり。」
大樹はそう言って密かに涙を流される。私はその涙を見て、必ずや万難を排して三好を討ち、幕府を盛り立てることを心に誓ったのであった。
2月 観音寺城
今月に入り再び細川晴元の動きが活発になっていた。12日には、三好長慶本人が大軍を率いて東寺に陣を構え晴元を牽制した。これに対し晴元は20日に軍を京の西北に移動させ長慶との小競り合いを展開した。
そして26日、両者は京の鳴滝において激突した。結果は長慶方が晴元方の大将4、5人を討ち取り、のぼりや指物等を3〜4本分捕り勝利した。
京では月初めの晴元の活動の活性化を受け、親長慶派の伊勢貞孝・松田光致・松田盛秀・松田光秀・大和晴光・結城貞胤・中沢光俊らは、上野信孝を筆頭とする6人の幕臣達が三好長慶排除の陰謀を企んでいることやその実現のために行動している事を糾弾した書状を将軍義輝の元へ送った。
これに触発されたのか、伊勢貞孝・三好長慶・細川藤孝の3名が連署して上野信孝ら6人を非難した。更にこの問題について将軍との会談を取り行うべく賛同者を募った所、大舘輝氏・畠山上野介・細川輝経・治部大輔・朽木稙綱・伊勢因幡守・伊勢左衛門尉がこれに応じた様だ。
これらの動きによって、26日長慶は合戦と同時並行で清水寺の願書所で義輝と対面し反長慶派の上野信孝ら6名から人質を徴集したようだ。
これらのことから分かるのは、大部分の幕臣特に先代の義晴から従っていた者達は三好との和睦の維持を声を大にして主張しているということだ。恐らく彼等は細川晴元を信用していないのだ。晴元が足利義維を匿い続けた事や、足利義晴が一時期細川晴元との手切れを望んでいたことを、彼らは間近で見ていたのだ。彼らにとって細川晴元は絶対に手を組みたくない相手なのだろう。
これに対して、足利義輝は自らの側近を反長慶派や自らに忠実な者達で固めつつある。恐らく近いうち足利義輝は反長慶の兵を挙げることになるだろう。
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