大寧寺の変2
これから時々、大内義隆の奮闘を書いて行きます。これからの西国がどうなっていくか楽しみにしていてください。
1551年 9月 朝廷 内裏
修理、改築の進む内裏に参内した公家たちの間では山口より伝わってきた凶報で持ち切りであった。
「三条殿は、隠れていたとこを陶の足軽に引きずり出され無数の槍で突き殺されたと聞き申したぞ。」
「麻呂は、死なぬように手加減されながら、何度も突き刺されるような嬲り殺しにあったと聞きました。」
「他の多くの公家も惨たらしく殺されたと聞きました。」
「これ程の貴族が殺されたのは、前代未聞。さらに下手人陶は、この乱を起こしたのは、前将軍足利義晴の命であるとのたもうております。」
「もしそれが本当であれば、息子の義輝も細川晴元をけしかけて麻呂達を襲わせるかもしれなせぬ。」
「そういえば、最近細川ら幕府方は前も東山の辺りを焼いておりましたな。」
「ああ、怖や怖や。」
「麻呂は、今近江の六角殿の所に下向しようとすら考えております。流石の将軍も後ろ盾の六角殿には逆らえますまい。」
山口に下向していた多くの公家が殺された蛮行が引き起こされる原因となった大寧寺の変は、前将軍足利義晴の命によるものと陶隆房が盛んに喧伝していたのだ。
そして、大内義隆より朝廷・幕府の支持を取り付ける事を請われた、最後まで船に乗り込み若狭の敦賀よりやってきた二条尹房の参内によって朝廷の方針が固められることとなった。
参内した二条良豊殿に対し、居並ぶ公家達が質問を投げかける。
「関白殿、山口におられる三条殿はどうなられた?」
「冷泉殿はどうなられた?」
「二条殿、持明院殿生きておられるのか!?」
投げ掛けられる質問に二条良豊は、目を赤くし、涙を流がしながら答える。
「主な方々をあげますと、我が父である二条尹房・大宮伊治・三条公頼・清原清四郎が亡くなられました。他にも多くの公家が亡くなられました。皆最後は、陶の足軽に辱められた後に殺されもうしたとの事です。」
一息に言い終わると二条良豊は、声を上げて泣き出した。居並ぶ公家達も、あるものは悲しみの涙を流し、あるものは怒りの涙を流した。簾の奥からも啜り泣く音が聞こえた。この悲しみは、朝廷全体に広がりこの時ばかりま皆対立を忘れ、無惨に殺された公家達を偲んだ。この日、朝廷では女官も含めて涙を流さなかったものは居ないと言われた。
「主上!どうかこの二条良豊に陶隆房への治罰綸旨を!陶の首を取らねば、我が父を筆頭に亡くなられた皆様が浮かばれませぬ!どうか、治罰綸旨をお出しください!」
「その者は、朕の股肱の臣を数多討ち取るという前代未聞の所業にして朝廷の権威を軽んじた行動。朕は許せぬ。故に綸旨ではなく詔勅を出したいと思う。皆はどうか?」
この発言に異議など出るはずも無かった。
「では朕の名を持って朝敵討伐の詔勅を出す。関白必ずや成し遂げるのだ。」
「不詳、良豊必ずや陶を討ち取り帰って参ります。」
「勧修寺尹豊には朕の代理として、将軍に足利義晴の命の事の次第を聞いてまいれ。事よっては幕府との関係を見直さねばならぬ出来事ゆえ。」
「は。承知いたしました。」
「関白は、再建された屋敷にて休むが良い。命を削っての参内ご苦労であった。」
帝からの労いの言葉に二条良豊は、ただ平伏するばかりであった。その後二条良豊は、船に乗せてくれた事を感謝する書状を六角氏に向けて送った。
帝の使者となった勧修寺尹豊は、解散後、直ぐに馬上の人となり朽木に閉塞する将軍足利義輝の元へ向かった。
幕府側もある程度の情報を得ており、朝廷からの使者の来訪を予想していたようであり、勧修寺尹豊は直ぐに義輝と面会することができた。
上座に座った勧修寺尹豊は、時間が惜しいとばかりに挨拶も無しに口を開く。
「将軍も存じ上げておると思うが、乱の首謀者陶隆房は、前将軍足利義晴の命により乱を起こしたと喧伝しておる。義輝殿はお父上から何か聞いておりませぬかな?」
「大内義隆は、実現こそしなかったが父を支える為に上洛しようとする忠義者。父が自らに尽くす大内義隆の家中を乱すような事をするはずがありませぬ。」
「それに、大内の本拠山口には多くの公家の方々が下向ておられる。内乱になれば公家の方々が巻き込まれることは火を見るより明らかであります。それに本当だとして、このようなな重大な事を私に伝えぬまま亡くなるでしょうか?」
「陶は、父の命だと言いますが、そのようなことが書かれた文書があるなら諸将に見せ確かな証拠とするはずです。しかしそのような事は我々の耳には入っておりませぬ。これは、陶の妄言であり、父の名を借りて大内家中の権力を掌握しようとする謀反であります。我ら幕府は何の関係もございません。」
「帝は、陶を朝敵として詔勅をお出しになることを決められた。幕府が白ならこれに賛同していただけますな?」
「無論、賛同せぬ訳がありませぬ。私も微力ながら大内領国内に当主である大内義隆を支持すべしとの文を送りましょう。」
義輝は、理路整然と勧修寺尹豊に話し、詔勅を出すことまで賛成し、自ら大内義隆支援の為の文まで出すと言い切った。ここまで、言われては勧修寺尹豊も深く追求することは出来なかった。
その後、朝廷に帰り事の次第を報告すると、帝は幕府との関係を現状維持することを決められた。二条良豊は、詔勅と幕府の文を持ち再び海路より帰ることとなった。
敦賀に向かおうとする二条良豊を途中で待ち構えていたのは、六角定頼の名代として派遣された進藤賢盛だった。
「お急ぎのところ申し訳ありませぬ。某、六角定頼の家臣進藤賢盛というもの。近江から若狭までの護衛させて頂きまする。」
「なんとありがたいこと。六角殿には、助けられ、一度文を交わしただけなのにこの対応を。この二条良豊、事が落ち着けば六角殿に挨拶に参りたい。この旨を文にして渡すゆえ届けて頂きたい。」
「承知いたしました。」
敦賀に着くと、そこには、大船が4隻停泊しており、その中には大量の武具、兵糧が詰め込まれてあった。
「我が殿は、大内義隆殿を助けるべく、これらを手配されました。どうかお役に立てて頂ければ幸いです。」
「もう何とか言えば良いのだろうか。言葉が見つからぬ。この二条良豊、このことを大内義隆殿に確とお伝え申す。急ぎであるが故、数々の不義理を六角殿にしてしまった。此度の借りは、子孫の代になっても必ずや返そう。時間が無い、それでは失礼。」
二条良豊は、船に乗ると4隻の大船はスルスルと海面を滑るように石見国へ向かっていった。進藤賢盛は、船が見えなくなると護衛の兵を連れて急ぎ観音寺城へ向かっていった。
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