大寧寺の変
旅行に行っているので更新が遅れます。
1551年 8月 長門国
山中を進む貴人の一行があった。皆衣服はボロボロであり、馬の1頭すら連れて居ない。この様子がこれまでの逃避行の辛さを物語る。護衛の兵もわずか数百人であり、その姿は皆落ち武者の様であった。敵に1度追いつかれれば為す術もなく皆討ち取られるであろう。
「御屋形様、あと少しで仙崎に着きまする。さすれば海路より石見の吉見正頼様の元で再起を図りましょうぞ。」
「冷泉隆豊、今の我にとってお主が最後の頼みの綱信頼しておるぞ。」
「御屋形様のご期待に答えて見せましょうぞ。」
そう言って冷泉隆豊は、大内義隆の前から立ち去り、列の後ろの方にいる公家達の様子を確認しに行った。
(隆豊は、我らが法泉寺から何とか落ち延びた時以来不眠不休で、護衛等の任をこなしてくれておる。それに対し、腐れ外道の陶隆房め恩義を忘れ、主家を滅ぼし家中の権力を掌握する為に、敵対した自らの一族ごと儂を討とうとするなど言語道断の所業。許さんぞ。)
事の経緯として、大内義隆は乱の当初大友氏の使者をもてなす宴会を続けており、蜂起した陶・杉・内藤に、対しての対応がとても鈍かった。更に大内義隆は、杉・内藤は陶には与同しないと考えていた。
隆房の侵攻を伝える注進が届いた事によりようやく義隆は対策に乗り出した。大内氏館である築山館を出て、僅かに防戦に有利な山麓の法泉寺に退いた。そして、本堂に本陣を置き、嶽の観音堂・求聞寺山などを隆豊らが固めたさせた。しかし、一緒に逃亡した公家たちや近習らを除くと、義隆に味方した重臣は隆豊くらいであり、兵も僅か2,000〜3,000人ほどしか集まらなない有様であり、組織的な抵抗を殆ど行うことが出来ない有様であった。
そして主の居なくなった大内氏館や周辺の近臣邸は、火をかけられたり、宝物を略奪されることとなった。このような動きに対し、前関白の二条尹房は興盛に使者を送り、「義隆は隠居して義尊を当主とする」という和睦斡旋を懇願したが、拒否されてしまった。
法泉寺の義隆軍は劣勢な状況であることが兵に伝わり多くの逃亡者が相次いだ。そのため、翌29日には山口を放棄することを決定し長門に逃亡する事となった。法泉寺には、陶隆康が殿として残って討ち死にした。義隆の継室であるおさいの方は、山口宮野の妙喜寺に逃れ、更に移り山口の光厳寺で出家することとなる。そして、話は冒頭の箇所に繋がるのであった。
(足が痛い。我が身を振り返って見ればこれ程歩いたことも追い込まれたこともあるまい。状況は最悪。殆どの家臣は陶に着いているようだ。何とかして生き延び、内乱が長期になれば我らにも勝機はある。生き延びねば、儂の盾となって討死した者達が浮かばれん。外道陶の首を切り落とし、家臣達の墓前に供えるまで儂は死ねんぞ。)
西国一と謳われた大大名大内義隆は、この絶望的な苦境にあってなお、意気消沈することはなかった。
覚悟を決めた義隆に率いられた一行は、仙崎道中の綾木辺りで岡部隆景が何とかして馬を入手した。しかし、全員を乗せることが出来る程の馬は入手出来なかった。義隆は、最も良い馬を冷泉隆豊に与えた。
「御屋形様、某に馬は必要ありませぬ。それよりも御屋形様がお乗りになられるか、ご子息をお乗せになるべきです。」
「何を言う隆豊。お主の命を削らんばかりの献身によって、ここまで我らは逃げてこられたのだ。其方を失えばどうやって儂は陶隆房を討てばよいのだ?どうか儂の頼みを聞き入れてくれぬか?」
「御屋形様にそこまで言われるとは、身に余る光栄にございます。乗らさせていただきまする。」
その後大内義隆は、自らの子供たち次いで公家、1番最後に自分の馬を選んだ。馬を得た一行は、速度を上げながら仙崎に向かう。
数日後、仙崎に着いた一行を待ち受けていたのは暴風雨によって荒れる海であった。冷泉隆豊が馬を走らせ湊の船を徴発したが皆どれも小型の舟であり、風に逆らい沖に出られそうなものはなかった。
「一か八か、沖に漕ぎ出し我が命運を海に委ねようでは無いか。」
大内義隆は僅かな希望にかけて海に漕ぎ出すことを決めた。馬を売り払い、食料等を買い上げると舟に乗せ海に向かって漕ぎ出した。しかし、無情にも舟は風に押し戻され再び湊に戻るしかなかった。
(おのれ、儂の命運もここに尽きたのか。外道陶隆房の首を家臣の墓前に持ってくるとの誓いは果たせぬか。追っ手の手にかかり、大内の名を汚す前に腹を切らねばならんか。)
義隆一行が絶望に湊に大船が3隻入港してきた。
(これぞまさに天の配剤。儂の運は尽きておらぬ。)
「隆景、あの大船の主と交渉し我らを乗せて石見に寄れぬか交渉せよ。金子が必要なら幾らでも払う。必ずや約束を取り付けて来るのだ。」
「御意。」
大内義隆は、岡部隆景を呼び寄せると大船に乗せてもらえるように交渉を命じた。隆景は一言返事をすると大船の方に向かって行き、交渉を始めたようだ。
その頃冷泉隆豊は、疲れた兵を休めつつ追っ手が来ていないかの偵察を行わせていた。
(もし追っ手がやってくれば、船乗り達には悪いが大船を乗っ取り御屋形様を逃がさねばならん。早く交渉が纏まり穏便にことが進めば良いのだが。)
義隆一行の願いが通じたかの隆豊が持ってきた答えは、金子を払うことによって、義隆一行を乗せて石見によってくれるというものであった。
「御屋形様、船長が金子と共に我らを運んだことを証明する為に一筆書いて欲しいとのことです。船長が言うには船には近江六角氏の荷物を運んでおり本来は時間厳守で運ばなければならないのですが、我らを運ぶことによって遅れが出るので、処罰を受けないように証拠が欲しいとのこと。」
「うむ。儂の一筆と金子で命が助かるのなら安いものよ。」
義隆一行は荷物を纏めて大船に乗ると大船はすぐさま出港して行った。出航時間から一刻が経ったあと陶隆房から送られた援軍が仙崎に到着したが義隆一行は既に海の上であり、小舟で追いかけようとしても風に押し流されるのみであり、追撃を諦め陶隆房に報告する為に山口へ戻っていた。
ここに義隆は、人生最大の危機を何とか脱したのであった。
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