とある一日
箸休め的な話です。
1551年 7月 観音寺城
「若様、もう起床の時間でございます。先日も三雲様に起床が遅いと怒られになったではありませんか。若様起きてください。また同じことを繰り返されるのですか?」
幾ら戦国時代が、小氷河期と言われていても夏の暑さは余り変わらないように感じる。そんな暑い日の午前4時頃に乳母である初に起こされる。
初は、俺が産まれて直ぐに母を無くして以来乳母として献身的に俺を育ててくれた人だ。この人には頭が上がらない。京極と戦うために城を抜け出したが、三雲賢持に縛られ送り返された時も初に泣かれながら説教された時が1番心に来た。
起こされたあと、俺の相手は初から三雲定持に代わり井戸端に連れて行かれ水をかけられて体を洗うところから一日が始まる。
「若様、良く寝られることは成長・健康のためにとても良い事でございますが、今は戦国の世。何時いかなる場所でも、お呼ばれになられたら直ぐに起きれるようにならなければなりませぬぞ。」
「定持のいうことは最もである。されど眠いものは眠いのだ。」
そういうと、定持の具体例を交えた説教が始まった。重要性は俺も良く分かるのだが、まだまだ11の小童は幾ら寝ても寝足りないのだ。
体を洗い終わると一旦定持と別れ、次は父と一緒に食事を取る。最近までは祖父も一緒に食べていたが病のせいで別の時間に食事をすることになったのだ。
「亀寿、武士にとって1番大事なものは身体の健康である。よく食べてよく運動することが大事である。勉学に関しては、心配しておらんが、もう少し成長したら武芸の訓練が始まる。精進するように。」
「しっかりと学び、父上のような弓の名手になりたいと思います。」
「うむ、それは良い心がけである。お前は私が直々に日置流弓術を仕込んでやろう。」
そういうと父はニコニコしながら弓の奥深さについて語ってくる。父は、吉田重政との養子縁組を行い日置流の家伝を伝授されたほどの腕前である。そこに、研究熱心な学者肌が合わさったことにより、弓術・馬術のことを喋らせると永遠に話し続ける人となるのだ。
先程話した馬術についても、大坪流を習い自ら新たな佐々木流を興している。我が父は祖父に隠れて影が薄いが文武両道を体現している人なのである。
突如始まった弓の講義を受けながら食事を済ませると次は城内にある観音寺正寺に行きそこで教育を受ける。ここではしっかりとした当主になれるようにと、身分の高いもの程厳しくしつけられる。
俺はよく勉強が出来た方なので一足早く中級の勉強に入った。内容としては、・「四書」論語、大学、中庸、孟子・「五経」易経、書経、詩経、礼記、春秋・「兵法書」六韜、三略、孫子を読めるようになり内容を理解するものである。大学生の時の一般教養がここで役立つとは思わなかった。
このキツイ時間を何とかやり過ごすと、次は体力錬成の時間になる。守役の定持にきっちりと監視されながら走り込みをする事となる。暑いし汗が目に入って大変である。たまに、三雲賢持や青地茂綱等がやってきて一緒に走ることがある。
ちなみにこの頃の服装は、みんな単衣の麻等の薄物になりみんなスケスケである。当然女性もみんなスケスケである。やはり近代とは貞操観念が違っており、胸が見えることに羞恥心は無いらしい。俺も当然上下スケスケの服であり、下着である褌がよく見えるのである。
次は大名のトイレいわゆる厠事情について説明しよう。この頃の厠は広いものでは12畳とも6畳とも言われる程広いのだ。なぜ広かったのか、というとそれは簡単な話で「槍で串刺しにされない為」という単純な理由なのだ。勿論、天井も高く、旗指物そのままで入れるほど高い。そして出入り口は必ず二つある。これは敵から襲われた時に脱出できるようになっている。
厠の中には香が焚かれ、その中央に樋箱ひばこと呼ばれる、いわゆるおまるが置いてあるか、穴が掘ってある。
そして、このような環境の整えられた厠は中々居心地の良いものらしく、父は度々そこにこもって政務をやっているようだ。
ちなみに尻は、庶民達は葉っぱ等を使っているようだが、そこは大名。揉んで柔らかくした和紙を使い尻を吹いている。
あれやこれやとしているうちに次はお風呂の時間となった。観音寺城本丸には大きなお風呂が2つある。1つは古くからある蒸し風呂でありもう1つは俺が作らせた湯船にお湯を貼る現代と同じような風呂だ。
蒸し風呂の構造は、2つの部屋からなり、1つの部屋でお湯を煮えたたせ、隣の部屋に蒸気だけを入れる方式の物だ。部屋は狭く、少人数しか入ることが出来ない。
対して、あたらしく作ったお風呂は、大きな湯屋を作り、その中は東大寺の湯屋を模して作ったのだ。
構造として、浴堂の中は、五つに分かれている。まず「前室」「湯船の部屋」「焚き場」が並んでいて、それから、湯船の部屋の左右に、「小風呂の部屋」と「水風呂の部屋」がある。湯船のある部屋は、「温室」と呼ぶ。
着替えをしたと言われている前室は、温室を囲む形でL字型をしている。Lの短い方の辺は、出入り口になっている。長い方の辺からは、観音開きの戸、玄関のある方からは、引き戸で温室へ入ることが出来るようになっている。
四方を部屋に囲まれた、中央の温室は、正方形になっており、温室の壁は端板で作られ、焚き場側の壁近くに大きな鉄製の「湯船」が置いてあり、焚き場に設置された大竃から、樋といで直接お湯が流し込まれるようになっている。出入口と同じ方向には、「小風呂」と書かれたスペースがあり、そこへ引き戸で入れます。東大寺では、小風呂から直接、前室にはいけないようになっているが観音寺城では行けるようになっている。
小風呂には、また焚き場の竃(大竃より小さい)に隣接して、円形の湯船が置いてある。小風呂と反対側には、観音開きの扉の向こうに、水風呂の部屋があり、外側に長方形の水船が置かれている。
風呂に入る間隔として夏場は、さすがに戦国の世と言えども毎日お風呂に入る。冬場は、月におよそ8回程お湯を沸かす感じである。
さて、前部屋で服を脱ぎ湯船で垢を浮かべるためにお湯に浸かる。大量の水を使うので湯船に浸かれるのは月に2日のみである。その為俺達以外にも多くの家臣達が入ってきている。中には、お湯にお盆を浮かべお酒を飲んでいる者もいる。
そんな彼らからは、色々な話を聞くことができる。妻や息子との付き合いが難しい、領地が豊かになったので武具を新調することが出来た、戦でこのような活躍をした等の多種多様な話を聞くことができる。この湯船は、1種の社交場になりつつある。
話を聞いたあと、身体を洗い終えると次は父と夕飯を食べ、その後、部屋に戻ると論語等を読んで日が完全に沈むと就寝となる。
この世界では、人の命がいかに軽いかをさまざまと見せつけられ、将来の自分の肩に多くの家臣達の命がのしかかるのかを思い知らせる。その重圧に耐えるために常に鍛錬を怠ってはならないと思うのであった。
これからもたまにこのような話を挟んで行きたいです。
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