将軍誘拐未遂 京極蜂起再び 1
今回は中途半端に終わります。
1551年 2月 観音寺城
去年の11月から後には、幾度か三好勢が侵入してきたが伊賀・甲賀の忍び達の情報によって待ち伏せを行う等して効果的に撃退することが出来た。
反対に京へ侵攻し、山科を放火するなど、一進一退のダラダラとした戦が続いている。
そして先月の終わり頃、伊勢貞孝を中心として一色藤長、進士賢光らが三好長慶の調略を受け、将軍足利義輝を誘拐、堅田より上洛しようとする陰謀が露見したのだ。そして陰謀がばれた伊勢貞孝らは将軍の元を離れ独断で京に上京したのだった。
どうして義輝を支えるべき幕臣達、特に政所執事という幕府の中枢にいる伊勢貞孝がこの調略を何故受けたのであろうか。
これは父・祖父・三雲定持などの様々な所から聞いた話によると、今幕府は細川氏綱派・晴元派の大きく2派に別れており、和睦を主張する非主流派の氏綱派が追い込まれ孤立し、これを打破する為に強引に将軍を京へ連れていこうとしたのが原因だそうだ。
この陰謀の首謀者である伊勢貞孝の離反は幕府に大きな動揺をもたらしているようだ。何故なら、伊勢貞孝は政所執事という要職に就いてるというのもあるが、歴代伊勢氏当主と同じく将軍の御親に定められており、義輝の実の育て親であるからだ。
この陰謀によって、重臣中の重臣に裏切られる形となった足利義輝の能力に大きな疑問符が付いた形となった。そして、彼の面目も多いに傷つけられることとなった。
離反した伊勢貞孝達は細川氏綱や三好長慶に上洛を歓迎されているようだ。彼らは細川晴元と敵対しているが、将軍家との敵対は望んでいない節があるから当然の対応だろう。
そして今月の7日に三好長慶は石原城に着陣し、それと同時に炭山を越えて松永長頼が近江に侵攻してきたが、予め待ち構えていた山岡景隆によって大きな損害を受けて引き上げて行った。
手痛い敗北を受けた三好勢だが大軍であることを頼みとし、10日には下鳥羽に陣を移したようだ。そこで遊佐長教からの派遣された援軍である安見宗房と合流したようだ。
これに対し、祖父定頼・父義賢がそれぞれ軍を率いて、三好長慶と睨み合う事となった。
その頃足利義輝は、三好勢が近江に侵攻してきた事を不安に思ったのか、御座所を堅田よりさらに遠くの高島郡朽木に移す事となった。
俺としては祖父・父が軍を率いて坂本に駐留しているのに、たかが一国衆に撃退された三好勢に怯え、朽木まで逃げるように御座所を移す事は弱腰と幕臣達に見られるだろう。自分の権威自ら貶めていることに気づいていないのか、と疑問に思う次第である。
この義輝動座に触発されたのか北近江にて、京極・浅井が蜂起したとの報が伝わってきた。さらにこの報に同期して、三好長慶が大軍を持って近江を狙う構えを見せたことによって、父・祖父が坂本から動けなくなってしまった。
祖父が父と晴元に迎撃を命じ、両者が向かおうとすると、そこに足利義輝が待ったをかけた。曰く、京極の蜂起は将軍が調停するので、義賢、晴元の両者は定頼の指揮の元、三好長慶と対陣を続けよとの事だった。
これに祖父定頼は激怒した。そのせいで発熱して倒れてしまい、軍中が混乱して迎撃どころでは無くなくってしまった。
更に間の悪いことに、京極蜂起の少し前に、伊賀・大和国境で三好の意向を受けたのか、小競り合いが発生し観音寺城の留守役の三雲定持が混乱を収めるために伊賀に赴いているのだ。
そして、今や観音寺城に残る重臣は蒲生定秀だけとなってしまった。残りの重臣達は対三好で坂本周辺に赴いている。
この兵力が分断されるという状況に陥った動揺は大きく、いきなり兵を集めようとしても中々集まらない事態となってしまった。
六角家中が右往左往している中、ここ観音寺城では当主不在の中留守を任されたもの達によって会合が設けられていた。
何時もは、祖父や父が座っている大広間の一段高い場所から残っている家臣達と議論を交わす事となった。
「蒲生殿、今直ぐに集められる兵の数は幾らぐらいなのでしょうか。」
そう切り出したのは、先の京極蜂起の時に大きな功績をあげた三雲賢持であり、その言葉に賛意を示したのが蒲生定秀の二男青地茂綱である。
この若武者2人を宥め落ち着かせるように蒲生定秀は口を開いた。
「両者少しは亀寿丸様を見習い落ち着くがよい。さて、集めらる軍勢は凡そ2千程。三雲殿が率いておられる1千5百と合わせて4千足らずですかな。」
「意外と集められるのだな。」
俺は、中々、兵が集まらないと聞いていたので1千も集まらないと予想してたので思わず口に出してしまった。
「しかし、この数字は直ぐにと言っても数日は待たなければ集まりません。それに、相手の京極高広の軍勢と同等のものを今から集めようと思いますと、1週間程はかかるでしょうな。」
そうこう話していると、詳しい情報を持ってきた使者が北近江からやってきた。
これによると、京極高広は浅井久政の援助を受け、1万近い軍勢を動員しているようだ。そして、甲良郡に進出し、今井・堀氏を調略し鎌刃・菖蒲獄を切り取り太尾と佐和山を分断しているようだ。
どうやら今回の京極高広の蜂起は相当練られたものであり、浅井が京極高広に組みして六角氏に反旗を翻したことが、決定的になったことが分かった。
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