足利義晴の死
これからは週一以上は更新できるよう頑張りたいです。
1550年 正月 観音寺城
今月の上旬三好長慶が摂津を完全に平定するため、東富松城に出陣し伊丹城に籠る伊丹親興を攻めたようだ。
もう何処からも援軍の宛のない伊丹親興は降伏するしか無いだろう。ここからどこまで粘れるのかが今後の晴元方の動きを決めることになるだろう。
1550年 2月 朽木稙綱
「今、三好の奴の目が摂津に向いているこの時が好機ぞ。晴元、定頼に命じて東山慈照寺の上に築城をするのだ。」
大御所は伊丹親興を討伐するのに三好長慶が苦戦しているとの報を聞き、三好が摂津に釘付けになっている隙を付いて城を築きたいご様子だ。
これは突拍子な考えではなく、前年の坂本への動座以来、京を狙うための強固な城の必要性を我ら幕府の全員が必要性を痛感していた物なのだ。
築城にどれだけの期間を費やせるのかは、摂津の伊丹親興がどれだけ粘れるかにかかっている。されど、完全に孤立した伊丹殿はそう長くは粘れまい。
これ程築城に費やす期間を我らが気にしているかと言うと、これまでの城とは違い鉄砲対策の為に城壁を二重にしその間に石を突き詰めるといった複雑な工程が必要だからだ。
大御所の体調も関係している。去年の師走より体調を崩されており、中々体調が良くならないそうだ。
まだまだ、将軍の義輝様はお若い。それに、実権は大殿がまだまだ握っておられる。ここで大殿が亡くなられると幕府は大いに混乱するであろう。
大殿の回復と伊丹殿の奮戦を願わずにはいられんな。
1550年 3月 観音寺城
今月13日、京に在陣している父義賢の命を受け、京で打廻を行ったようだ。三好勢は頑強に抵抗する伊丹親興に釘付けにされており、京の方面には集中出来ない隙を着いた形になる。
さらに細川晴元が父義賢と連動して配下と我ら近江衆を率いて出陣し、山城西院を焼いたようだ。
足利義晴はまだ普請が始まって1ヶ月しか経っていない中尾城に入りたがっているようだ。刻刻と迫る死期を悟っているであろう義晴は一刻も早く京に帰還したいのであろう。
しかし祖父定頼が病床の身体では山上への移動が難しいことや、外聞が悪いことなどを述べ諌めたが、それでも義晴は中尾城に入りたいと譲らなかった。
両者の妥協点として、坂本から山上に向かう途中の穴太という土地を御座所とすることに落ち着いた。
28日遂に摂津での晴元方の最後の拠点であった伊丹親興が三好長慶に降伏することとなった。この余波を受けて、三好勢が京にやって来ることを警戒して、足利義晴の中尾城への動座が当面中止となった。
同月 越水城 三好長逸
我らは伊丹親興を下し、摂津を平定することが出来た。これにより京への道を確保することが出来た。これにより、今京で細川晴元と対峙している小泉秀清、今井慶満に援軍を送ることが出来る。
我らが手に入れた京をそう易々と晴元に奪い返されては我らの威信に傷がついてしまう。義晴が御座所を穴太に移した事から分かるように我らから京を奪還するために何時兵をあげてもおかしくない状況である。
「諸君、知っての通り足利義晴・義輝親子は京の奪還を狙っており、大名と連携を図ろうとしてる。されど、先の江口での戦いから我らの勢いは止まるとこを知らぬ。」
「しかし、忘れてはならぬのは、細川晴元のしぶとさである。かの者はありとあらゆる手段を使い、細川京兆家の当主となった。奴の恐ろしさはその配下であった我らが最も知る所である。」
「一先ずの摂津平定は成ったが奴の魔の手はどこに伸びてくるか分からぬ。各々は兵馬を休めつつも、気を抜かず己の職務に勤めるように。」
殿の訓示を受け我ら家臣は各々の所領へ帰り内政に励むこととなる。しかし、我らはまた直ぐに戦へと呼ばれることとなろう。まだまだ、天下安寧は程遠い世の中よ。
4月下旬 坂本 朽木稙綱
大御所の体調は悪くなる一方であり、遂には病床に伏せってしまわれた。そして政所執事の伊勢貞孝、上野信孝、三淵晴員、大舘晴光、摂津元造ら幕府の重臣を集め、「我が息子足利義輝は天下を収めることの出来る器を持っておる」「そして、そなたらのような忠臣に恵まれている」と仰り、遺訓を告げられたそうだ。
大御所の義輝様を思う気持ちに呼び出された者達はみな涙を流し、義輝様へのご奉公を誓ったそうだ。誠に大殿を京へご帰還させる事が出来ず、今やこの地で亡くなられようとしている。
幕臣一同歯痒い思いである。
5月 坂本 朽木稙綱
4日、遂に大殿は京の地を再び踏むことはなくこの近江の地で亡くなられた。最後は果物の果汁を舐めながら、何とか生きようとするお姿は誠に痛ましいものであった。
義晴様は半世紀以上実現出来なかった親から子への将軍職の継承を成功させる、幕府直臣達の整備を行う、京兆家に頼らない体制作りなど幕府を大きく改革された方であった。
そのような偉大な方のあとを継がれるのはまだ幼少の義輝様。これに今や幕府は大きく動揺している。幕府内には三好の傀儡になるしかないと吹聴する輩が早速出てきたと聞く。
ここで幕府が割れようものなら幕府権威の衰退に歯止めがかからなくなるかもしれん。されどこの混乱を義輝様が収めるのは難しいのが現状。
我ら朽木家は、長年幕府奉公衆として活躍してきたが、これを機に六角との従属関係を深めなければ、ならんかもしれん。
同月 観音寺城
幕府の改革を成し遂げた男は40歳の若さで穴太の地で亡くなった。この後を継ぐ足利義輝は、歴代将軍の中で唯一三位に登れなかった事から分かるように、諸大名を糾合出来ず三好との戦いに敗北するなどして、朝廷から将軍失格の烙印が押されてしまうのであった。
遂に室町幕府の権威、秩序の崩壊はこの時より再び加速するのである。この幕府沈没に我ら六角氏が巻き込まれてはならない。領国の統制を取り、国を富ませ、兵を強くしなければならない。そう心に刻むことになった出来事であった。
これからは、三好、斎藤との戦が本格的に始まって行くので楽しみにしていてください。
ご意見・ご感想お待ちしております。




