江口の合戦後
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1549年 7月 観音寺城
今月9日、三好長慶が京へと入ったがすぐに摂津へと下向していった。今回の京に長期滞在出来なかったのはまだまだ摂津が安定していないからだろう。
ここで一旦、江口の合戦後の各勢力の動きを纏めて見る。
まず、長慶の同盟者である遊佐長教は自らが擁立した当主である畠山政国との対立が深まっている。これは、将軍が晴元に味方したことで遊佐長教、三好長慶が事実上幕府と敵対してしまったことに対して、畠山政国が反発したからだ。
政国出奔の噂もあり、河内国はこのまま1つに纏まらないだろう。
摂津国で唯一の晴元派の伊丹親興が孤軍奮闘しており、三好長慶の行動を阻害している。
丹波国では波多野氏が勢力を拡大し、元々の丹波国守護代であった、内藤氏を越える程の勢力になっていた。紆余曲折あり、細川晴元と接近しこれをテコに更に勢力を伸ばすことに成功していた。
三好長慶が細川氏綱を擁立したことにより、波多野氏は三好長慶と敵対することとなった。これに対して、三好長慶は内藤氏を援助することにより、丹波国内では晴元派の波多野氏、氏綱派の内藤氏と国を二分する事態になっている。
和泉国を見てみると、この国は氏綱や畠山氏の影響を大きく受ける影響で情勢が江口の合戦以前よりとても不安定であった。
江口の合戦の影響により、和泉国守護代の松浦守が氏綱派に寝返り、和泉国守護である細川晴貞親子が没落し実権を失ってしまった。
このように丹波、河内、和泉等の国では三好長慶が氏綱派に寝返ったことにより、氏綱、長慶派の武将が一気に台頭してきたことが分かる。
無論我ら晴元派も完全に没落した訳では無い。晴元派は将軍を推戴しており、後ろ盾である我ら六角氏も健在であるので反撃に転ずるのも時間の問題だろう。
1549年 9月 観音寺城
江口の合戦の後処理も終わり、再び戦線が膠着し、一息をつくことが出来た。
この頃になると祖父定頼は父義賢に政務の大部分を任せ、自分は将軍等の各地の勢力との折衝役を果たすようになっている。
そして、合間を見ては俺に六角の男子としてどのように振る舞うか、人の心をどのように掴むのか等の所謂帝王学を教えている。
今日も祖父の部屋で色々と祖父の話を聞くことになる。
「良いか亀寿、お前は賢いが故によく奇抜なことを思いつく。そしてそれを直ぐに実行しようとする癖がお前にはある。これはお前の良い点であり悪い点でもある。」
「政は戦と違い訴訟を捌いたり道を治したり等、今までの積み重ねがものをいう世界じゃ。突然、奇抜なことをすると家臣たちを動揺させ、人々の信頼を失うこととなる。」
「良き案を思いつけば、まず家臣たちと共に良く図り、家臣たちの理解を得てから行わなければならんぞ。」
「人はお前のように直ぐに新しい環境へと適応できるもの達だけでは無い。せいては事を仕損じるというように、政においては忍耐強く振る舞うことが肝心である。」
「亀寿は祖父の言葉をしかと胸に刻んでおきまする。」
そう、返事をすると祖父定頼はにっこりと笑い俺の頭をガシガシと撫でる。
将軍や管領といった幕府の大物達と互角以上に渡り合ってきた祖父の言葉は自分に足りないものがなんであるかを教えてくれる。
このまま何も知らずに成長していけば必ず家を衰退させるか、最悪滅亡させることになっていたであろう。
祖父の言葉を一言も聞き漏らさないように集中し、後で紙に書き記しこれを毎日読み自分を戒めるようにしている。
既存の支配者達が次々と没落していく中で、お家の勢力を保ち発展させて行くためには慢心してはならないのである。
1549年 10月 観音寺城
今月の20日、山科7郷に居座る十河一存を追い払うために、六角氏の1万余の軍勢が琵琶湖を渡り、大津坂本に到着した。
しかし、両者共に戦闘にはならず、十河側が引き下がることでことの解決がなった。
今年の稲の収穫全国的には悲惨なことになっている。稲の病が広まったことで多くの稲が枯れてしまったのである。
しかし、今までコツコツと深耕していた田の稲は枯れることなく黄金色に田んぼを染め上げていた。
六角の直轄領と伊賀、甲賀の国衆以外の領地は深耕が十分ではなかったが、それでも何もしていない田よりはましであった。
中でも北近江、京極氏・浅井氏の領地の田はとんでもないことになっており、急いで各地より米を買い占めたり、兵糧として備蓄していた米を放出し、民を救おうとしている。
俺はこの米不足に乗じて家臣に米や銭を貸し付けたり、領民に配ってなお余った米を売り捌くことで大きな利益を得ることが出来た。
この資金を鉄砲、鎧などの武器の生産に投資し、将来への備えとする。
今回の不作により、色々と進めていた農業改革の正しさが証明されることとなった。これにより、色々と理由をつけて検地を受けようとはしなかった家臣達を説得することが出来た。
これにより、より正確な家臣達の知行を把握することが出来、正しい知行に応じた軍役をおわせることができるようになった。
この不作により、我ら六角氏は家中と統制を強めることができた。これは将来の躍進への大きな原動力となるだろう。
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