江口の合戦
やっとかけたぜ。
1548年 4月 観音寺城
戦地にいる忍び達からの報告によると今月細川晴元は4月26日、塩川国光の居城一庫城に入り、清和源氏の基礎を築いたとされる、源満仲・源義家らを祀っている多田院に戦勝祈願をしていたようだ。
そして同月28日、武庫郡に出兵して西宮一帯に放火するなど、三好長慶の兵站路を脅かすゲリラ的な作戦を実行している。
1549年 5月
1日に晴元勢は、富松城に攻撃を仕掛けた。この富松城は三好長慶の本拠地である越水城と中嶋城の中間地点に存在し、長慶勢の兵站路を確保する上で非常に重要な地点なのである。
晴元はここを占拠することで長慶勢の分断を謀り、榎並城にいる三好政勝への援護をしようとしたのだろう。
それとほぼ同時期の2日、三宅城の守将である香西元成に、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城をの攻略を命じた。
この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点であり、城主の芥川孫十郎が長慶方に組していたため、政長と晴元は迂回しながら行軍するしかなかったのである。
しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原で三好長逸の軍勢に阻止されてしまった。
そこで、5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城し、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を援護する体制をとった。
これにより、戦況は互いに睨み合いが続く膠着した状況が続くことになる。
中嶋城 三好長逸
「兄上、彼我の戦力差は明白、早く晴元、政長両名の籠る三宅城を落としまおうぞ。」
長慶様の弟君であられる十河一存が怒気を含んだ声で長慶様に決断を迫っておられる。
「しかし、一存、ここで三宅城を攻め、下手をすると謀反を起こしたとはいえ、主君であった晴元殿に詰め腹を切らせることとなる。これは如何なものか。」
「兄上、この期に及んでそのような生温いことを仰っておられると、木沢長政の二の舞になりますぞ。」
決断を迫る十河様に対し長慶様は、元の主君である晴元に刃を向けることに大きな抵抗があるのだろう。それも仕方あるまい。この謀反はそもそも、三好政長を排除するためのものである。しかし、晴元は政長の奴の肩を持ち、結果として晴元への謀反となってしまった。
それ故に長慶様は今多いに悩んでおられるのであろう。このまま、政長が晴元と一緒に三宅城に籠っているのなら我らに打つ手はない。
何とか、政長のやつが晴元と離れてくれれば一気呵成に攻め滅ぼせるものを。誠に口惜しい限りである。
6月 観音寺城
膠着した戦況に大きな変化が現れた、6月11日に政長が三宅城を出て江口城に入ったのである。
この城は、北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点である。そして、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地に建てられている。
恐らく政長の目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図る。そして、三宅城と榎並城の通路を確保し、近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と雌雄を決するつもりなのだろう。
一件完璧に見えるこの作戦には大きな不安要素がある。それは、江口城の利点でもある、淀川と神崎川によって三方を囲まれた地形である。
長慶勢には安宅水軍を率いる安宅冬康がいる。彼の率いる水軍に川を抑えられると忽ち、江口城は孤立してしまうことになるだろう。
この予想は的中してしまった。政長が江口城に入ったことを知った長慶は間髪入れずに、江口城を包囲してその糧道を断ってしまった。
更に、江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させることに成功した。
悪いことは連続してやってくるもので、我が六角の援軍の到着が遅れているのだ。これは、伊賀、伊勢などからも動員をかけた結果5万余の軍勢となり兵糧の確保が追いつかなかったためである。
そして、6月12日ついに戦端が開かれた。近江から来た近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死した。
6月24日昼過ぎ、江口城内で恐らく長慶側に寝返ったであろう山中久俊が殺害されるという内輪もめが発生した。
これと連動するように、長慶は十河一存と東西から江口城を急襲した。既に長陣で疲弊し、内輪もめを起こし混乱していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。
翌日の25日、六角義賢を総大将とする軍勢は、山崎に進山、西岡に三雲・永原、下久我に山崎、上鳥羽に馬淵・蒲生が陣立を終え、総攻撃の指示を待つのみとなっていた。
しかし、時すでに遅く、落ち延びて来た晴元とあとから遅れてきた定頼は会合し、義晴、義輝親子を坂本に避難させることにした。父義賢は殿を務めるため、京に残るようだ。
翌日の27日、京を出発し、北白川の近くで進藤貞治と合流しその夜は慈照寺に宿泊、28日に坂本に到着したようだ。
三好長逸
遂に長慶様の宿敵であった政長を討ち取ることが出来た。これものこのこ、江口城に出てきてくれたが故にのこと。
長慶様はこの戦果に満足したようであり、逸る十河様を抑え、無駄な深追いは無用と晴元を見逃すことになされた。私としては、ここで晴元を討ち取ら無かったことが将来のお家にとって災いとなる気がするのだ。
願わくばこれが杞憂であれば良いのだが。
同月 観音寺城
この戦いをきっかけとして細川晴元は大きく勢力を減退させ、将軍の権威も大きく傷つき、低下の一途を辿ることなる。
しかし、この戦い単体で見ると三好政長が討ち取られただけであり、政治状況は大きく変わっていない。だが確実に晴元、義輝の権威権力に小さくないヒビを入れたのだ。
これからら、周りの勢力がどんどん敵になったりしていくので、六角氏には辛い状況になっていきます。
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