さらなる一手 3
ゆっくりと更新していきます。
1548年 6月 観音寺城
北畠との交渉が一段落した6月中旬、将軍義輝の帰洛に祖父定頼が供奉し、上洛する事となった。7月頃まで在京するとのことだった。この上洛は祖父定頼が各地での交渉・根回しを約1年かけて行う事で実現がなされたものなのだ。
我らが観音寺城に目を移すと、政治に関しても大きな権力を移譲されつつある父義賢が精力的に活動している。長野氏から獲得した領地に子飼いの家臣を封じ、検地を行い統治を進めていく。
俺も秋に始まる稲刈りの為の道具を新たに制作している。検地を受け入れた村々に除草機、はねくり備中などの農機具がある程度行き渡ったので職人達に余裕が出来たからだ。
まず、試作したのが人力刈り取り機だ。この器具は棒の先端にソリが装置されており、その先端がハサミを開いた形のようになっている。そして、立ったまま稲を刈り取ることが出来るのだ。借りとった稲が倒れないように紐を引くと腕が刈り取った稲を抱き抱える固定することが出来るようになっている。この器具は一度に4株から5株を刈り取ることが出来る。
使用方法としては刈り取り口を稲の根元に固定し、強く押し出すことにより稲を刈り取り紐を引くとで稲の根元を固定し移動させることができる。
この器具は中腰で行われる稲刈りを立ったままの楽な姿勢で行うことが出来るようになることが利点である。
次に試作したのが、短床犂である。戦国時代では九州北部や畿内など一部地域では畜力による耕作用農具である長床犂や無床犂というと言う唐犂が普及していた。
長床犂は安定した深さで耕せ操作しやすい反面、犂が地面と接する犂床が長大であり深耕をすると牛馬への負担が大きいという利点欠点がある。
対する無床犂は牛馬への負担が小さく深耕しやすい反面、不安定で操作に熟練と体力が必要であった。
短床犂はこれらの長所を合わせた犂床を小さくした改良型であり、明治33年に北肥後の骨董商、大津末次郎、ほぼ同時期に長野県小県郡の松山原野よって発明されたのだ。これによって女子供でも畜力による深耕が可能になったという優れものなのである。
昭和初め頃に改良によって短床犂の前方に小型の副犂を取り付けた二段耕犂が発明された。これは、礫土の反転作用を良好にししかも礫土が細かく破砕される効果が期待されたが、前犂の調整が難しく、普及したのは調整が容易になる改良型が発明された終戦後になってからであったというように拡張性も備えているのである。
この2つを導入するために乾田化を進めて行きたい。乾田とは、今の私たちがよく見る水を張っている時、抜いている時があるような灌漑を止めると水が抜け乾いて畑になるような田んぼである。
対する湿田は、完全に水を抜くことが出来ず1年を通して、水を貼っているまたは、土が湿っている田んぼのことである。
乾田化する利点は、土壌中の有害物の除去,地温の上昇,二毛作の拡大,田畑輪換を可能にするなど土地生産性の上昇をもたらすことだ。他にもに田んぼを秋に乾かし、春(深く耕すことで土が細かく練り上げられ、地力を向上させて収量を増やすことも行える。
乾田化するためには排水、給水を行える水路の整備を行わなければならない。この事業は、俺の後の代まで続く大事業となるだろうな。
1548年 7月 観音寺城
そうこう試作しているあいだに時間は過ぎ、7月となっていた。7月21日室町殿において能が催され観世大夫が舞ったようだ。これに祖父と晴元が招待されている。それと同時に、入京への尽力を褒めたたえ、両者に太刀と具足が与えられたようだ。
8月 観音寺城
祖父が帰ってきて、伊勢への仕置きが終わった後、朝廷からの使者として近衛稙家が観音寺城を訪れてきた。
要件としては帝のおられる御所の修理、改築の為の費用をどうにかして工面してもらえないかとの事であった。
我々の支援によって少しの余裕ができた帝、公家達が少しづつ銭を出し合って修理・改築費用を賄おうとしているが、どうしても足りないので支援を要請しに来たようだ。
その額がなんと1万なのだ。祖父は流石に額が、額なので直ぐに答えは出せないと稙家殿に申し上げ、大いに歓待しお土産を持たせて京に返すこととなった。
戦で大軍を動かしたり、恩賞として大量の銭を消費したとあって、祖父・父共に反対という雰囲気であった。しかし、ここで献金することによって幕府を介さない朝廷との繋がりを強化しておきたい。
無論、幕府を介しての朝廷への献金も行い、幕府を立てることも怠らない。未だ、幕府の権威・権力は侮れないものがあるからな。
六角定頼
公家達の支援は止まることを知らぬ。誠に厄介なことよ。されど娘婿の細川晴元は氏綱を没落させ、我ら六角は伊勢の中部、伊賀の南部を手に入れることに成功しておる。喜ばしいことよ。
畿内の情勢は回復しつつありそれと同時に将軍様の権威も回復していくであろう。六角はこのまま細川家と共に幕府の重鎮として権勢を得ることが出来るであろう。
儂も何時の間にか齢54。本格的に家督移譲について考えねばならん。息子の義賢は儂が留守にしている時もよく家中を切り盛りしており、今家督を譲っても十分にやって行けるであろう。
今最も心配なのは、孫の亀寿丸である。あやつは中々賢いが、将来当主になった時に賢さだけでは人は着いてこん。人と密に接し、機微を理解せねばならぬ。あやつは人々を豊かにすれば無条件で慕われると思っておる。それにいささか人と感性がズレておる所がある。このままでは将来取り返しのつかん過ちを犯すであろう。
その為に、儂があやつに残してやれるのは、他人との交わり方くらいであろう。
蒸し暑いすぎて大変ですね。
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