氏綱派壊滅
東畿内での定頼の影響の大きさよ。
1547年 10月 観音寺城
今月6日、丹波より再び京を制圧しようと入ってきた細川国慶を晴元は迎撃し激戦の末に打ち勝ち、国慶を討ち取ることに成功したようだ。
氏綱派に取って一度は、京を制圧し地元民を家臣として加えていた国慶の討死は大きな痛手となるだろう。加えて、遊佐、畠山両氏が晴元勢に降伏した今、ある程度の勢力を持った別働隊を失ったことは戦略上の選択肢を大きく狭めるだろうな。
勝ち目が無いと判断したのか国慶討死の報を聞いた氏綱は逃亡し、行方不明となった。これにより約6年間反晴元勢力の活動を行い晴元を苦しめた氏綱勢は没落した。しかし、肝心の氏綱を討ち取ることが出来なかった。再び反晴元の旗頭として彼は立ち上がるだろう。
晴元から祖父定頼に目を向けると、2月から今月まで天文5年に起きた法華一揆で壊滅した日蓮宗の洛中還住に関して、山門との間に調停に入っている。日蓮宗側に今後は、秩序を乱さないように言いつけ、延暦寺側にもこれ以降の迫害を慎むように強く命じたのである。
両者は今や幕府一の実力者には逆らえず、両者の和は成ったのである。この京の安否を左右する和睦には幕府・将軍は一切絡んではいない。祖父定頼の一存で決着したのだ。最大の実力者が誰なのかは誰の目にも明白である。
1548年 正月 観音寺城
今月25日坂本にいる義晴・義輝親子に鷹狩のついでに立ち寄り、年始の挨拶を行った細川晴元が京へと帰って行った。年始の挨拶では両者緊迫した雰囲気の中行われたようだ。
将軍と晴元の雪解けにはまだまだ時間が掛かるだろうが、氏綱が没落した今、晴元と仲良くするという選択肢しか将軍側には残されていない。
坂本
今月は誠に疲れる出来事が多かった。中でも将軍様と晴元殿の年始の挨拶は緊迫しながらも恙無く終えることが出来たのは、奇跡と言って良いだろう。それほどの緊張感が漂っておったのだ。
内容を覗いて見ると、まだまだ未熟な将軍様と細川京兆家の内乱を生き抜き見事当主の座を掴んだ晴元殿の力量の差が現れておった。誠に失礼だが役者が違いすぎたのだ。
氏綱が没落した今、我ら幕府には佐々木近江守殿の娘婿である晴元殿と手を組むしか選択肢がないのである。年始の挨拶が終わった後、大殿が私を召し出してもう一度機会があるなら、打倒晴元の兵を再び挙げたいと仰られた。
我らは歴代の将軍を本拠地である朽木谷に匿い、お守りしてきておる。もし再び将軍様が晴元打倒の兵を挙げるなら、この朽木晴綱、将軍様を支えるために一族郎党を挙げて加勢する思いである。
1548年2月 坂本
坂本にいる祖父から父義賢宛に手紙がやってきた。4月いっぱいまでは近江に帰って来ないので、自分が不在の間の領国の差配は義賢に任せるとの事だった。父が頭を抱えたのは語るに及ばないだろう。
祖父から不在の間の代理を任された父は政務を粛々とこなしている。その中でも頭を悩ませているのは伊賀南部の北畠方の国衆達が雪崩を打ってこちらに帰順を申し立てている事だ。
伊賀仁木氏の領地を接収し、六角氏の直轄領となった所を起点に伊賀北部、中部において耕地整理と新たな農業機器の導入による農作業の省人化、空いた時間での内職の推奨を行った。それにより、地の国衆達は南部の国衆達と比べて何倍も豊かになったのだ。それを間近で見ている国衆達は、搾取してくるばかりの北畠氏を見限り、六角氏への帰順を求めてきたのだ。
本来であれば伊勢国北部を領している我ら六角氏と、北畠氏は利害が対立しているので国衆達が服属してくることは嬉しいことなのだ。しかし、今は当主である祖父が不在なのだ。いざ戦となってしまえば大変なこととなる。
一応の方針として、帰順は認めつつ北畠氏をなるべく刺激しないようにするというどっちつかずの中途半端なものとなってしまった。
1548年4月 奈良
儂は今息子義賢に本国近江の差配を任せ、11日に将軍様の元を辞し、大和国へ妻と共に来ておる。妻には奥の取り仕切り、孫達の世話という大きな仕事まで任せていた故、その償いではないが大和の春日社などを巡る予定じゃ。
1,500の兵を率いて大和へ到着すると、まずは宇治の蛍を鑑賞し、その後に春日社を参詣した。それと同時並行で遊佐長教と細川晴元との和睦に関する交渉を行った。
そうすると、大和各地から儂の元へ様々な争い事が持ち込まれてきたわい。中でも儂が頭を悩ませたのが大和四座の席次争いじゃ。この争論は金春座と金剛座の席次はどちらが上かで揉めておるのだ。
現在は儂が金春太夫を召し抱えており、彼が坂本にいるので興福寺寺内での松下の能に名代を出したところ、金剛側が上座に着くことになった。この序列を、正員の席次としようとしたのだ。これに対し、儂は金春座贔屓なので将軍に働きかけを行い、金春座を上座とする決定を幕府から出させる事とした。
一通り争い事を裁き終わると同じくらいに遊佐方との交渉もある程度纏まりを見せたのでここらで近江へ帰ることにした。欲を言えばもう少し、妻と大和を回りたかったが、伊賀を巡り北畠との争いが起こるかもしれぬという書状が届いた。幾ら全権を委任しているとはいえ、他家との折衝には儂の許可が必要と効果的な対策を打てないでいると聞く。
帰国の準備を整えると、同時に伊賀、北伊勢の前線に兵糧を送るようにとの書状を持たせた使者を観音寺城に送る。
反晴元勢力も没落した故、一度北畠には北伊勢と伊賀の勢力を張っているのは六角であることを教えるちょうど良い機会であろう。
次からやっとまともな戦が始まると思います。
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