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六角氏軍記~戦国乱世を生き抜きたい~  作者: タスマニア


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伊賀騒乱

内心を書くの難しいな。

1547年正月 観音寺城

 儀式が終了し、ひと段落した頃京の公家や寺社から細川玄蕃頭家の押領停止を幕府へ訴えて来たようだ。聞く所によると、細川国慶は地子銭を徴収し、領主と地下人の両方から礼銭を引き出すという、特殊詐欺のような銭の徴収を行っているらしい。


 今月の10日には、関白一条房通の使者が山科言継の元に訪れ、「我々は国慶の押領に対し武力で抵抗する。物忩になった時は助太刀をお願いしたい」との助力をお願いしているとの情報が入ってきた。この翌日には山科家から11人が武装して一条房通に合流し、他にも多くの公家や奉公衆が集まり合計で200人程になったという。更に上京の地下人が参加する予定であったらしい。


 この時は寺社の仲介により双方の衝突は免れた様だ。しかし、国慶勢と京の人々との対立が戦に発展するのは時間の問題との事だ。


 13日、幕府は国慶を御敵として成敗する旨を京に触れた。幕府としてもこれ以上の治安悪化を放っておけないからだろう。


 14日、国慶は幕府に弁明したものの聞き入れられることはなく、高雄へと出奔したようだ。


 25日、将軍就任拝賀のため足利義輝が上洛した。祖父、父は上洛せず家臣の多賀、高野瀬以下三千人が警護として供奉し、辻固は進藤貞治が務めた。


 儀式を恙無く終え、将軍が近江から上洛したのでやっと家中に余裕が戻ってきた。そして、非常に忙しかった祖父、父と久しぶりの団欒である。


 「お爺様、従四位上に叙されたことおめでとうございます。父上も従五位上伊賀守への叙位任官おめでとうございます。」


 「孫に祝われる事が最も嬉しいわい。しかし、義賢が伊賀守に任官されるとは。これで六角も2国の太守。誠に目出度いことよ。」


 「父上も、従四位上と六角氏始まって以来の栄誉であり、空前の壮挙ではありませんか。」


 父、祖父共に互い叙位任官について褒めあっており、家族の仲はとても良い。弟達ともこのように一族仲良くしていきたい。


 1547年2月 観音寺城

 伊賀の国衆が仁木氏館を襲撃し、仁木氏を族滅するという事件が起きたとの報告が入ってきた。


 伊賀は北部、中部は六角氏が服属させたが建前上伊賀は伊賀仁木氏が収めていることになっていた。しかし、父上が伊賀守に任官されたことにより、伊賀支配の正当性が無くなった仁木氏は伊賀に確実な勢力を築くために、国衆達の所領を押領し始めた。他にも重税をかけるなど横暴を働いた様だ。


 中部の国衆は何度か税の減免を嘆願したが聞き入れられず、逆に人質まで要求されてしまった。そして、自分達が少しづつ豊かになりつつある今、再び貧しい生活には戻れないと仁木氏排除の計画を立てた。


 実行にあたっては、北部の国衆からも援助を要請し、真夜中に仁木氏の屋敷を襲撃、一族郎党をことごとく殺し、伊賀仁木氏は族滅してしまった。


 これに驚愕したのは伊賀守になった父上である。何せ仁木氏は将軍家譜代の被官である。そして、近衛家の荘園の代官職をになってもいた。せっかく幕府との距離が縮まったのに、それがご破算になる可能性が出てきたのだ。


 伊賀の混乱を収めるため、父上は5000程の兵を率いて伊賀に入国した。滅んだ仁木氏の所領を確保し、服部氏の館に陣を張り周囲の国衆との連絡を取り混乱を少しづつ収めていく。


 祖父定頼は、幕府に伊賀国衆赦免の働きかけを行っている。国衆からの横暴の証拠などを将軍に差し出し沙汰を待っているようだ。


 1547年2月 京

 将軍を退き大殿となった足利義晴は伊賀仁木氏の問題に頭を抱えていた。


 (仁木氏は我らの譜代の被官。されど六角は昨年、義輝の加冠役を務めさせた間柄。ここで、六角を非難すれば幕府の根幹が揺らぎかねん。)


 仁木氏は同族が打たれたことに抗議し、伊賀国衆を御敵として、打つべしと騒ぎ立てているが、六角定頼は将軍に判断を委ねるとしながら国衆達がどのように悪政に苦しめられていたのかを書状で書き送ってきた。


 内談衆もこの件について三つに割れていおる。佐々木一族の朽木稙綱、佐々木源氏の細川高久らは仁木氏の統治に問題があり国衆を赦免すべきという立場であり、大舘常興その息子の大舘晴光は反対の立場である。他の摂津元造、海老名高助、荒川氏隆は中立である。

 

 悩みに悩み抜いて出した結論は、六角氏の訴えを認め、さらに仁木氏の名跡を六角定頼の孫に継がせる事ととした。


 (仁木氏には申し訳ないが今は幕府一の実力者となった六角定頼の機嫌を損ねるわけにはいかん。それに六角に有利な裁定をしておけば細川晴元から乗換える時役に立つであろう。)


 観音寺城

 伊賀の混乱を収めた父は伊賀の国衆達から人質をとり、勝手な行動を起こさないようにするための起請文を起こし国衆の統制に成功した。


 将軍からの書状が届き国衆の赦免と仁木氏の名跡を定頼の孫に継がせることを許す書状が届いた。


 定頼は顎を撫でながら書状を読む。時折顔を顰めたりしながら考えを巡らせる。


 (これ程、譜代の被官の訴えを無視して儂に譲歩するというのは将軍は細川晴元との手切を真剣に考えておるのだろう。)


 定頼は将軍と晴元との関係悪化がどうしようも無い所まで行っているのを肌で感じ取りどうしたものかと考えを巡らせる。


 (儂の政権構想は将軍を細川晴元が管領として支える体制を維持すること。しかし、将軍は儂に加冠役にして、氏綱との連携を計りたいのだろう。)


 世の中は乱れに乱れ、道理が引こみ無法が蔓延っている。誠に嘆かわしいとボヤく。



 定頼は齢53、義賢に権力移譲をさらに進めないといけない齢(年)である。残された時間を、息子や孫に少しでも楽ができるような環境を残すために、幕府権力の再建を進めるために日々策を練るのであった。

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