細川国慶京を制圧 将軍再び近江へ
内容が細川玄蕃頭家の解説になっちまった。
1546年7月 観音寺城
伊賀、甲賀の国衆の統治を祖父定頼に命じられた父義賢と連携し、金策の為の新たな養命酒の作り方等を教えていった。洞窟や深い穴を掘らせ、椎茸の栽培を行わせる。何度か失敗がありながらも、説明書の改訂、配布の徹底により大量の収穫に成功している。
農地の改革も行っている。少しづつ検地を進めていき、所有者、地権者等を整理していき共通の枡を使い正確に石高を測っていく。そして、田畑の形を四角形に改良していき、除草機の導入などの農業にかかる手間を小さくし、余分な生産力を金策の為の作業に従事させていくことができる。これらの改革も少しづつ六角氏の直轄領で進めて行く予定だ。
少しづつ新たに服属してきた国衆達は裕福になりつつある。やはり、隣人が裕福になるとどうしも自分と比べてしまい、自分も裕福になりたいと考えるだろう。
こちらの改革案を思ったよりもすんなりと受け入れて貰うことが出来た。何時かは彼らの成功を足がかりに近江の国衆達の改革も進めて行きたい所だ。
1546年8月 観音寺城
畿内各地へ派遣した伊賀、甲賀の透破達からの報告、交流のある公家達からの手紙を元にいま畿内でどのような事が起こっているのかを噛み砕いてみた。
再三に渡る挙兵に失敗している細川氏綱が挙兵を行い、京へ攻め入いる構えを見せた。しかし、今回の挙兵は今までの失敗した挙兵の時と背景事情が異なるのだ。今までは、最大の後援者である畠山家が幕府との関係を重視しているので氏綱には協力を行わなかった。
今の畠山家は当主であった畠山稙長が死んだあと、幕府と畠山家家中の有力者遊佐長教が別々の人物を押している。これにより、家督問題において自分の意思を通すため遊佐長教は、氏綱と協力するために挙兵する決断を下したようである。
1546年9月 観音寺城
先月の20日に氏綱、遊佐の挙兵に対抗するために三好長慶を派遣し、三好長慶は堺に布陣をした。しかし、陣所を包囲された長慶は堺の町人に仲裁を依頼し、包囲を解かせた隙に四国から援軍を呼び込んだ。そこから、摂津、河内で戦闘が始まった。
互角の攻防が繰り広げられる中、新たな人物が挙兵をした。その名も細川国慶という。彼は自らの手勢を率いて挙兵すると、細川氏綱の援軍に向かうと思いきや、真っ直ぐに京へ前進した。
そして9月に入ると摂津国人の三宅国村、池田信正両名が氏綱と内通しているとの報が入ってきた。先の木沢長政の乱で反晴元であった三宅国村は置いておいても、晴元陣営の中心人物である三好政長の縁者である池田信正の内通は晴元に大きな衝撃を与えただろう。
それと同時期に国慶は西岡国人の物集女慶照、大山崎の惣中と連絡をとり、大山崎付近の水名瀬神宮に禁制を発給しながら京目前まで迫りつつあった。
9月12日将軍義晴が戦火を避けるため慈照寺を経由して近江へと逃れてきたのだ。晴元も2日後の14日、嵯峨へ逃れると国慶方の追撃をうけ丹波へ逃亡したのである。
細川国慶は8月29日に堺を出発してから、僅か2週間で京を制圧してしまったのである。
何故ここまで早く京を制圧できたのかと言うと、細川国慶を含む玄蕃頭家が京周辺の勢力を家臣へ登用している事が多いからと思われる。これは今現在、寺社や町に所領安堵や禁制発給を実施しているが、その中に出てくる国慶側近の名前を見てみるとよく分かる。
名前をあげると津田経長、今村慶満、小泉秀清といった人物が出てくる。彼らは京の流通に関わっている人物達だ。例として津田経長は、京伏見を中心に、金融業を営んでいる津田氏の出身である。伏見は万葉集で、巨椋池と関連して歌に出てくるように、宇治川や巨椋池と面しており琵琶湖や淀川と繋がる港の役割を果たしている。
津田氏は国慶の祖父細川元治へ仕えており、このことから16世紀初頭の段階から伏見の津田氏を家臣としていた事が分かる。
今村慶満を含む今村氏は現在の京都駅のすぐ東辺の、柳原にいた百姓の頭目であり、後に香西元長の配下となり勢力を拡大した。そして、山科と洛中を繋ぐ汁谷口の流通にも関わっている。今村慶満は細川晴国の挙兵段階から従っており、早い段階から国慶の側近として名前が見える。
京都七口の丹波口付近にある西院城の国人小泉氏も流通に関わっている領主であり、細川国慶の有力家臣でもある。
このように細川国慶は百姓の頭目、商人、国人と普通の武家ではありえない家臣を抱えていることが分かる。何故このような編成になっているかと言うと、国慶の玄蕃頭家が新興勢力であるからだ。
玄蕃頭家の本流は鎌倉時代細川宗家より分かれた細川遠州家であり土佐の守護代を務める家であった。そして更に遠州家から別れた家が玄蕃頭家となる。玄蕃頭初代細川元治は応仁の乱終結直後から細川政元に仕えており、横領を働いたり、被官を誅殺しようとして返り討ちにあっていたようだ。
だが、細川高国擁立の立役者であり、政元暗殺後の混乱する家中の人々を説得して高国擁立で家中を纏めた生粋の高国派が元治である。このように細川京兆家を纏めあげるなどの大きな力を持っていたのだ。
何故このような出自が家臣団編成に繋がるかというと、新興勢力の彼らには基盤となるような所領、家臣団がないのである。そこで京に基盤を作る為に京の商人や、国人を取り込み家臣にすることで基盤を作るためである。実施、今の京支配には取り込んだ今京出身の家臣たちが、大いに役立っていることが報告によって分かる。
こうも気軽に近江へ逃げ込まれると祖父の心情は分からないが俺としては非常に迷惑である。山城1国も御せない将軍に愛想が尽きるばかりである。
畿内は勢力が入り乱れすぎて蠱毒となっております。早く来てほしい三好。いや来ないでくれ。
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