40.むかしむかし
それは天帝の時代よりもさらに遡る、むかしむかしのお話。
真都揶には、巨大な力を持つ龍がいた。
その龍は人間に、大天霊尊大鈴瑠璃媛命と呼ばれていた。
龍の力は強大で、人も魔も、誰も逆らえないほどであった。
が、その龍が何かをするわけではなかった。
ふっかけられた喧嘩は買うし、遊び半分で山を消し飛ばしたこともある。
それでも基本的には何もせずにのんびりと暮らしていることがほとんどだった。
瑠璃媛命は人間の尺度で言えば、大層適当なやつであった。
このお話は、そんな適当な龍のお話。
***
その日も瑠璃媛命は湖底で寝ていた。
地上に面白そうなことはないし、そういう時は寝ているに限るからだ。
そんな湖底に、声が届いた。
それは人間の声で、魂から絞り出すような、悲痛な叫びだった。
「大天霊尊様!! 大天霊尊様!! どうか我が願いを聞き届けてください!!」
内容など眼中になく、ただやかましいからというだけで瑠璃媛命は湖底から姿を現した。
湖が不気味に盛り上がり、巨大な龍が湖面に首を出した。
『なんじゃ……やかましい……』
瑠璃媛命は寝起きで、機嫌はあまり良くなかった。
湖の縁にいた声の主は、女であった。
「ああ!! 大天霊尊様!! どうかこの子をお救いください!!」
瑠璃媛命の見たところ、女が掲げているのは人間の幼児であるようだった。
なるほど、よくわからんが、死にかけた我が子を救って欲しいといったところか。
瑠璃媛命にはわけないことであったが、自分を起こした人間をタダで助けるのはなんだか癪であった。
『容易いことじゃ、ただし、それには条件がある』
「なんでございましょう? 我が命でもなんでも差し出します!!」
女は涙を流し、喉が裂けんばかりに叫び、なりふり構わぬ様子であった。
『その子が我が眷属となるならば助けられよう。それで構わぬか?』
「もちろんでございます!! 我が子を大天霊尊様の眷属にしてもらえるなど、それ以上の喜びはございません!!」
普通に嘘だった。
そんなことをせずとも、瑠璃媛命にはその幼子は助けられる。
条件を出したのは、眠りを妨げられたことに対する子供っぽい仕返し以外のなんでもなかった。
眷属になる、ということはその後の人生を棒に振ることになるはずなのだが、逆に有難がられ瑠璃媛命は内心で困惑していた。
「ありがとうございます!! ありがとうございます!!」
女は泣きながら何度も頭を下げ、幼子を置いて去っていった。
湖の縁には、小さな人間の子供だけが取りのこされている。
子供は動きもせず、霊力の気配も今にも絶えそうに見えた。
瑠璃媛命は、力を分けてやることにした。
さすがにこれを見殺しは気分が悪い。
どこが悪いかよく分からぬが、自分の力を僅かにでも分けてやれば回復するだろうと、幼子の体が弾けてしまわないように気をつけて力を分けた。
気をつける、といってもあまり精密なものではなく、まあ弾けてしまったらそれはそれ、と人の心がない適当さで霊力を分けた。
子供の霊脈が活性化するのが見て取れた。
どうやら成功したようだ。
瑠璃媛命は龍のあくびをひとつ。
ここ何百年かは、瑠璃媛命はまともに活動せずに、夢と神界を繋げて過ごすのが常だった。
瑠璃媛命そのまま湖底に潜り、寝直した。
信じられぬことに、幼子を湖の縁に放置したまま。
***
龍の眠りは長い。
次に瑠璃媛命が目覚めたのは、四年が過ぎてからだった。
気分転換に空の散歩でもするかと湖面から顔を出した時だった。
「おはようございます! 大天霊尊様!」
少年がいた。
人間の歳はよくわからないが、大人でないのはわかる。
龍の目から見ても整った顔をしていて、瑠璃媛命を見て恐れるどころか目をキラキラとさせている。
『なんじゃ、主は』
「大天霊尊様に助けていただいた人間でございます!! 大天霊尊様のお目覚めを待っておりました!!」
ああ、あの時の子供か、と瑠璃媛命の中で得心がいった。
『そうか、健やかなようでなによりじゃ』
それだけ伝え、瑠璃媛命は空へと飛び去った。
巨大な龍が、真都揶の空を飛んでいた。
季節はどうやら春らしかった。
上空の風もそれほどは冷たくない。
眼下には阿紫花の森が見え、その一画には桃色に花を咲かせる桜の姿が映った。
たまたま近くにいた鳥が瑠璃媛命の姿を目にして大慌てで逃げていく。
愉快だ。
ひとしきり飛び回り満足した瑠璃媛命は、湖へと戻った。
すると、まださきほどの少年がいたのだ。
すでに日は傾き、夕暮れが近づいている。
湖に入る前に瑠璃媛命はふわりと浮き、湖の中空にぴたりと静止した。
『主はまだおったのか』
「はい! 私は大天霊尊様の眷属ですから!」
完全に忘れていた。そんな適当な事を言った記憶がある。だからこの少年はずっとここにいるのか。
「大天霊尊様! 私は何をすればいいでしょうか!?」
やかましい人間だと思った。
帰れと命令してもいいが、ここで瑠璃媛命のいたずら心が働いた。
『そうじゃな、湖の周りで何かないか見張っておれ』
「わかりました!!」
そう言って瑠璃媛命は湖底へと身を隠し、再び眠り始めた。
瑠璃媛命が姿を現さないのがわかれば、人間などすぐにいなくなるだろう。




