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X年後…

 その日、いつもなら玄関で待ち構えている妻の姿が無かった。

 仮に少々出遅れても、使用人達から「まだ誰も言っておりませんから転ばないように来てくださいね」と微笑ましく応援されながら駆けてくるのに。今日に限っては、待てども待てどもあの鮮やかな緋色が一向に見えてこない。

 結局、屋敷に戻ったリーンハルトを出迎えたのは、妻の専属メイドの一人であるアンヌだった。彼女は申し訳なさそうな表情で「…お帰りなさいませ。旦那様」とお辞儀をした。


「オリヴィアは出掛けているのか?」


 リーンハルトが父親から家督を譲られ、名実共に伯爵夫人となったオリヴィアは、なかなか多忙な日々を送っている。しかし今日は帰りが遅くなるような用事はなかったはずだ。それとも何か急用ができたのだろうか。リーンハルトの問いかけに、アンヌは首を横に振るのだった。


「いえ…お部屋でお休みになっておられるのですが、」

「具合が悪いのか!?」


 アンヌが話し切る前に言葉を被せてきたリーンハルトの焦りは当然なのかもしれない。間もなく夕食という時間帯に食いしん坊が眠りこけているとは変……失敬。「誰よりも早く『おかえりなさい』って言う」との言葉をこれまで律儀に守ってきたオリヴィアが、大した理由もなくすっぽかすなんて有り得ない。派手に口喧嘩した翌日でも、膨れっ面で出迎えに現れたのが良い例だ。昨夜は快眠な様子だったし、寝不足という線は限りなく薄い。だから休んでいる理由が体調不良くらいしか思いつかなかった。健康が服を着て歩いているみたいなオリヴィアが体調不良?と、リーンハルトの思考がどんどん悪い方へと沈んでいく。


「あんまりにもぐっすり眠っていらっしゃって、揺すっても揺すってもお目覚めにならないんです」

「なんだそれは…」


 リーンハルトは一気に脱力した。だが珍しいことに変わりはない。寝付きも寝起きも良好なオリヴィアが、メイドの呼びかけに気付かないとは。彼女はひとたび眠ると雷鳴が轟こうと起きないのだが、不思議なことに人間の声には反応するのだ。不思議と言えば、目が開いている時はあんなに騒がしいオリヴィアなのに、寝言は一切言わない。あれはいったいどういう原理で……話が逸れた。


「お元気そうに見えても、連日のお出掛けで疲れておられたのかもしれません」

「そうかもな。そのまま寝かせておけばいい。腹が空いたら自然と起きてくるだろう」

「かしこまりました」


 案の定、夕食が整う前にきっちり目覚めたオリヴィアは、階下にいるリーンハルトにまで聞こえる声量で悲鳴をあげていたのだった。


「なんで起こしてくれなかったの!?」

「起こしたのですが…力不足な私をどうか存分にお叱りください!!」

「良い笑顔で言ってる場合!?」


 伯爵夫人になったからといって、オリヴィアにお淑やかさが身についた訳ではなく。

 吊り上がった眉と、への字に曲がった唇については改善の兆しすらなかった。


「お帰りなさい!!リーンハルト!!寝過ごしちゃってごめんなさい!!」


 地声も年々大きくなっている気がしてならないが、直向きな性分も健在である。

 しかしリーンハルトの方はロス家当主の自覚がついてきたのか、以前のような子供じみた嫌味を吐くことも…


「さすがお前の腹時計は正確だ」


 そう簡単に無くなる訳がなかった。


「出迎えられなかったのは悪かったけれど『ただいま』くらい返したらどうなの!?」

「"只今"帰ったわけじゃないからなぁ」


 むしろ嫌味に磨きがかかっている。


「うぐっ……明日からは気をつけるわ」

「…具合が悪くないならいい。無理はするな」


 とはいえ、嫌味と優しさの緩急の付け方もまた巧みになっていた。惜しみなく向けられる柔らかな微笑みのおかげで、オリヴィアはいつまで経っても初心に頬を染めるのだ。


「疲れているから皿の数を増やすよう、厨房に伝えて来ようか?」

「余計なお世話よ!!もう!!」


 くつくつ笑う夫に、飽きもせず食ってかかる妻。賑やかな夫妻を、にこやかに眺める前当主夫妻と使用人達。これが現在のロス家である。




 リーンハルトの帰宅にも気付かず眠りこけていたのに、その日のオリヴィアはおやすみ三秒だった。

 振り返ってみると、これが最初の異変であった。




 いの一番に出迎えられるのを楽しみにしているのは、リーンハルトだけではない。オリヴィアだって妙な使命感に燃えて、彼の帰りを心待ちにしている。わざとでなかったにしろ、それをすっぽかしてしまったのは、オリヴィアにとって思いの外ショックだったらしい。以前にも増して気合い充分に、扉の前で待機するようになり、同じ失敗は繰り返さなかった。

 リーンハルトは妻の頑張りを可愛らしく思うものの、疲れているならゆっくり休んでほしいとも思っていた。だがアンヌも言っていた通り、オリヴィアは元気の塊で、疲れている素振りも見せない。だからまあ大丈夫だろうと、たかを括っていたのである。


「今夜はお兄様達も出席するそうよ。久しぶりにお会いできるかしら」

「…正直俺は気が進まない」

「まだ仲違いしてるの?何をしたらお兄様を怒らせることができるのよ」

「さあな」


 サンディとは顔を合わせれば未だに棘のある言葉をぶつけられる。妹を溺愛するのは結構だが彼方も結婚したのだし、そろそろ落ち着いてくれと願わんばかりだ。遠い目になるリーンハルトを見て、オリヴィアは怪訝そうに首を傾げたのだった。


「夜会は一か月ぶりか」

「お互いに用事が重なって、あまり顔を出せていなかったわね」

「そういえばお前。そのドレス、いつの間に仕立てたんだ?」

「これはお義父様がくださったのよ。充分すぎるほど頂いてますって言ったのだけれど…」

「母上に続き父上も際限なくなってきたな…」


 家督を息子に譲り、隠居の身となったアルベールとユージェニーであるが、別邸を建てて同じ敷地内で暮らしている。そのため別居している感覚は殆ど無い。食事は同じテーブルを囲んでいるし、二人は義娘を構いにしょっちゅう本邸に足を運ぶ。もはや入り浸っていると言っても過言ではない。そして何かにつけて義娘を喜ばせようと贈り物をするので、リーンハルトはやっぱり妻からおねだりされる事がないのである。


「に、似合ってる?」

「ああ。可愛い。悔しいが父上の見る目は確かだと言わざるを得ない」

「…っ!!」


 オリヴィアが可愛いの一言に滅法弱いのは、リーンハルトだけが知っている事だ。面と向かって可愛いと告げるのは面映いが、真っ赤になって声も出ない妻を見るのは、恥ずかしさも吹き飛ぶほど楽しい。


「おっ、おおお世辞なんて…嬉しくな…っ」

「俺はお前にお世辞は言わない。本当に可愛いと思っている」

「〜〜〜っっ!!もう、もういいですっ!!ありがとうございます!!」

「なんで敬語に戻ってるんだ」


 喚く妻を愉しげにあしらいながら、二人は夜会へ出掛けて行くのだった。


 会場となるお屋敷までは、馬車で一時間弱かかる。座席に並んで座る夫婦は、道中なんやかんやと言い合いながら進むのが常であった。今宵もそうやって、他愛もないことを喋りつつ馬車に揺られていた。ところが十分もしないうちに、オリヴィアの口数がみるみる減っていった。薄暗い車内であったが、彼女の明らかな異変に気が付いたリーンハルトは「どうした?」と横から顔を覗き込む。やや遅れて、弱々しい返事があった。


「なんだか…酔ってしまったみたい…気持ちが悪いの…」


 口元を押さえて背中を丸めるオリヴィアを見て、リーンハルトはすぐさま御者に指示を飛ばす。


「馬車を止めろ!オリヴィア、吐きそうなら外に出よう」


 話すのも億劫なほど辛いのか、オリヴィアは小さく首を横に振るだけだった。

 これまで一度たりとも、それこそ路面が荒れて乗り心地が最悪な時でも平然として酔ったりしなかったオリヴィアが、どうして急に。ゆっくり長く息をするよう、ひたすら集中している彼女の背を摩りながら、リーンハルトは内心でひどく焦っていた。彼はオリヴィアの涙にいっとう弱いが、彼女が黙りこくってしまう状態も滅法苦手なのだ。

 少し休むと吐き気のピークは過ぎたらしい。オリヴィアが出発を促してきた。しかしその顔は、月明かりを言い訳にできないくらい青白い。


「いや、帰るぞ。もう少しの辛抱だ」

「そんな…」

「無理を押して行く必要も義理もない。頼むから休んでくれ」


 律儀なオリヴィアのことだ。出席の返事を出しておいて、急遽取りやめるのは相手に失礼だとでも考えているのだろう。だが夜会へ参加するためには、まだ三十分以上も馬車に揺られなければならない。酷い顔色のオリヴィアに無理を強いれば、最悪意識を失う可能性だってある。そんな事態をリーンハルトは到底、許容できない。

 語気を強めれば、オリヴィアは力無く頷いていた。反論する元気も戻ってないくせに、よく行けると思ったものだ。天晴れな根性だが限度があるだろう。


 つい先刻、賑やかに出て行ったオリヴィアが、リーンハルトに抱えられて舞い戻ったので、屋敷は大混乱に陥った。仰天し、心配のあまり血相を変えたレティ達であるが、汗を飛ばしつつもてきぱき寝台を整えたのだった。さすが、仕事だけはできると定評のあるメイドだ。オリヴィアが寝室に向かったのを確認してから、リーンハルトはレティ達に後を任せ、自身は馬に跨った。夜会の主催者に不参加の旨を伝えに行くためだ。

 リーンハルトが戻る頃には、オリヴィアはすやすやと眠っていた。顔色が随分良くなっているのを見て、彼は胸を撫で下ろすのだった。


 次の日、目が覚めるとオリヴィアはいつもの調子に戻っていた。昨夜の弱った姿が嘘のように快調である。しかし体調は元通りなのだが、リーンハルトに迷惑をかけてしまったと気落ちしている。彼がホッとした反動で少し嫌味を言っても反応が芳しくなかったことから、だいぶ責任を感じているようだ。


「ごめんなさい…」

「謝ることじゃないだろう。それより、昨日はいったいどうしたんだ。出掛ける前から、体調が悪かったのか?」

「いえ、体調は普通だったわ。でも馬車が動きだした途端に、くらっとして…だんだん目眩が酷くなっていったの。乗り物酔いって、あんなに苦しいのね」

「しばらく馬車に乗るのはやめておけ。それを理由に茶会も辞退したらどうだ。嫌いなんだろ」

「好きじゃないけど、嘘をついてまで断ることはしたくないわ」


 苦い思い出ばかりだった茶会は今でも苦手意識がある。しかし以前のような苦痛は感じなくなった。克服するきっかけとなったのは、リーンハルトが告げた一言だ。笑い話にでもなればとオリヴィアが過去の顛末を語った際、虫や紅茶の話を聞いていた彼は「オリヴィアは悪くないだろう」と疑いの余地なく言い切った。オリヴィアは何だかその一言で、肩の荷が軽くなった気がしたのだ。それ以来、ウルバノの助言を得ながらとはいえ、オリヴィアが主催になって小さな茶会を開く事ができるまでに成長した。


「…たまには二人でのんびりしてもいいと思うが」


 リーンハルトが拗ねたような声音を出す時は、寂しがっている証拠である。オリヴィアは一つ瞬いてから、そっと唇の端を緩めた。


「そうね。わたしも、そうしたい」


 苛烈な見た目とは裏腹にオリヴィアは、素直になれない寂しがり屋を甘やかすのが上手であった。




 乗り物酔いの一件はすぐに忘れ去られたものの、しばらくするとまた、皆の表情を曇らせる出来事が続いた。オリヴィアの居眠りが酷いのである。睡眠時間はたっぷり取っているのに、日中うつらうつらする頻度が異常に増えた。趣味の絵を描いていても、読書をしていても、レティが様子を見に行くたびに寝息を立ている始末だった。

 それに加えて、馬車にも全く乗れなくなってしまった。乗ればものの五分で酔ってしまい、座っていることもできなくなるのだ。


「オリヴィアさん。お医者様に診ていただきましょう」

「…はい。お義母様」


 昨日、刺繍をしている最中に舟を漕ぎ出した義娘を見て、ユージェニーは何か思うことがあったらしい。有無を言わせぬ口調で診察を勧めた。


 診察にはリーンハルトも付き添った。不調が続くオリヴィアが心配で、彼も気が気ではなかったのである。傍目にはわからないが、患者よりも平静を失っていた。

 医師は口頭での問診やら、脈をみたりやら、淡々と診察をおこなった。リーンハルトは妻の手を握りながら、医師の言葉を待つ。


「御懐妊ですね。おめでとう御座います」


 ごかいにん。その単語に、リーンハルトとオリヴィアは顔を見合わせた。そして次の瞬間、二人揃って「御懐妊!?」と奇声を発するのだった。

 オリヴィアの手が無意識に腹の上へ置かれる。ここに、我が子を授かったというのか。


「悪阻の症状が見られますので、妊娠から二ヶ月といったところでしょう。今は大事にする時期ですから、無理は禁物ですよ」

「つ、悪阻って…わたし、吐き戻してないけれど…」

「ああ。もりもり食べてたな…普段通り」


 薄い腹を撫でても我が子がいるという実感が湧かず、二人は再び目配せし合う。


「乗り物酔いが酷いと仰っていましたでしょう?」

「えっ…まさかそれが…?」

「症状は人それぞれです。奥様の場合、お食事は平気なようですが、馬車の揺れに敏感になっていらっしゃるのだと思いますよ。何にせよ、一ヶ月ほどで治まるものですから、不安にならずとも大丈夫です」


 医師が帰った後、ロス家の屋敷はお祭り騒ぎになった。大半が泣きながら狂喜乱舞し、厨房ではお祝いだと言っていつも以上に大量の料理が作られ、屋敷の外にいた護衛達まで諸手を挙げて喜ぶ大騒ぎである。

 妊娠が分かったオリヴィア本人はというと、どこか夢心地にほんのり頬を染めていた。


「…リーンハルト」


 なんとなく呼びたくなって、ぽつりと彼の名を紡ぐ。彼の顔も少し赤かった。

 そうして視線が交われば、自然に相手へ吸い寄せられる。一寸の隙間も無くすように、二人はぎゅうと抱きしめ合う。


「…幸せね。わたし達」

「ああ…幸せだ。ありがとう…オリヴィア」


 オリヴィアの目尻から、透き通る雫が一粒転がった。




 オリヴィアの悪阻は馬車に乗った時だけ現れるものだったので、普段の食事は平時と変わらず。一般的より多めの料理をぺろりと平げていた。妊娠中は情緒が不安定になりがちで苛々しやすいと言うが、オリヴィアが身籠ってからリーンハルトの嫌味はすっかりなりを潜めた。おかげで脊髄反射の応酬も出る幕がない。そればかりか彼が甲斐甲斐しく世話を焼こうとするため、むしろ妊娠前より口論が減ったくらいである。

 いわゆる安定期と呼ばれる時期に入っても、リーンハルトの過保護っぷりは止まらなかった。オリヴィア独りでは階段の昇降もさせてもらえないのだ。彼が楽しみにしている見送りと出迎えさえ、出産するまでしなくていいと当主命令が下る始末であった。


「多少は動いた方がいいって、先生に言われているのよ。無駄なことで当主命令なんて使わないで!」

「無駄って何だ!お前はすぐに駆け出すから信用ならないだけだ!」

「わたしだって、大きいお腹で走ったりしないわよ!」


 言い争いが減ったとはいえ、無くなる訳ではない。しかしその内容はほのぼのとしたものに様変わりした。


「まあまあ、そのあたりにしてください。奥様のことは私とレティさんでお世話しますから」

「奥様が転んだとしても、私が必ず下敷きになるので心配は無用です!」

「…こいつの台詞が頼もしく思える日が来るとは思わなかった」

「…同意できてしまうのが悔しいわ」


 そういえば少し気になったのですが。そう前置きしたアンヌによると、どうやら彼女の姉が妊娠していた時に比べて、オリヴィアのお腹はひと回りほど大きく見えるそうだ。


「個人差があるものですから、何とも言えませんが…」

「成長が早いってことかしら?次回の診察の折にでも、先生に訊いてみるわね」


 この会話の後で受けた診察では、特に何か指摘されることはなかった。確かに目立つようになった腹は、時期と照らし合わせればやや大きいらしいが、個人差で片付けられるとの診断であった。


 ところが、その次の定期検診にて診断が覆る。オリヴィアのお腹にいるのは双子ではないかと、告げられたのだ。

 診察を終えた医師は屋敷を出た後で、リーンハルトに向き直った。強張った面持ちの医師、妻のいない場所、という二点から否が応でも察するものがあった。


「…どんなお産も命懸けであることに変わりはありません。しかしながら初産は特に負担が大きく、それが双子となれば危険度は跳ね上がります。大変申し上げにくいのですが…母子ともに無事である確率はとても低いです」

「………」

「私どもも最善を尽くしますが、旦那様も万が一を覚悟していてください」

「…万が一、とは」


 口の中が乾いて、声が引き攣る。できることなら耳を塞いでしまいたい。

 リーンハルトは爪が食い込むのも気付かずに、拳を握り締めていた。


「…奥様かお子か。どちらかを選ぶ覚悟です」


 こんな決断を迫られるくらいなら、きっと死刑宣告の方がまだ易しい。

 リーンハルトは門の前で立ち尽くし、しばらくそこから動けなかった。力の抜けた手の平からは、赤い血が滴っていたのだった。




 人ひとりの命を宿すだけでも大仕事だというのに、それが二人分となると母体にかかる負担も倍になる。いつも元気なオリヴィアでさえ、どんどん重みを増す腹に難儀を強いられていた。まっすぐ立つのも疲れるし、かと言って横になるのも姿勢を間違えれば気分が悪くなる。足のむくみもあり、ここのところ胃が圧迫されるせいで食欲も減退した。それでも彼女は弱音の一つも吐かずに、気丈に振る舞っていた。


「お母様のことも、ユージェニー様のことも尊敬していたけれど、お二人の偉大さが身に染みてわかったわ。自分が母親になってみてみないと理解できないものね」

「…そうだな」

「名前は男の子と女の子で二つずつ考えるべきよね。そうしたら、どちらが産まれてきても大丈夫だわ。最低でも候補は四つに絞っておかないと…リーンハルトはもう考えてる?」

「いやまだ…考えあぐねている」


 一方で、リーンハルトは一日一日を煩悶としながら過ごしている。愛おしそうに腹を撫でる妻の隣で、気を抜けば翳ってしまう己の顔を平常に保つので精一杯だった。一番大変な思いをしているのはオリヴィアだ。その横で夫が不安そうにしていてはいけない。そうやって繰り返し言い聞かせるものの、脳裏に最悪の未来が過ぎるとリーンハルトの忍耐は呆気なく瓦解する。


「失礼いたします。奥様、足の按摩に参りましたが、本日のお加減はいかがですか?」

「ありがとう、アンヌ。だいぶ気にならなくなったわ。強いて言うなら、左足が少し痛むかしら」


 アンヌと入れ替わるようにして、リーンハルトは席を立った。オリヴィアに気遣う言葉をかけてから退室する。泣けるものなら、恥も外聞も捨てて慟哭したかった。オリヴィアに縋ってしまいたかった。しかしそれだけはできない。してはいけない。夫である自分がオリヴィアを支え、励まさなければならないのに、逆に助けてもらっては立つ瀬が無くなる。


「…リーンハルト。少しこちらへ来なさい」

「母上…」


 行く宛もなく、ふらふら廊下を歩いていた彼を呼び止めたのはユージェニーだった。


 ユージェニーは息子を別邸へ引き入れた。その場にはアルベールも居たが、特に驚いた様子もなかった。二人は何も言わずとも息子と向かい合う形で長椅子に腰掛ける。そして口火を切ったのも、やはりユージェニーであった。


「貴方が何に苦悩しているか、解っているつもりです」

「………」

「貴方はよくやっていますよ。あまり自分を責めぬように」


 母の落ち着いた声が、張り詰めていた緊張に綻びを生じさせる。


「………俺は…っ、オリヴィアの意思を尊重できそうにありません」


 リーンハルトは俯きながら、震える声で絞り出した。


「きっとオリヴィアは迷うことなく子を選ぶ。でも俺は…俺にはどうしてもできないっ。オリヴィアしか選べない…!」


 どれだけオリヴィアにお腹の子を救ってほしいと嘆願されても、リーンハルトは首を縦に振ることができないだろう。うまく誤魔化すこともできまい。医師の話を聞いた時すでに、彼の心は決まっていたのだ。


「子を見捨てる俺には、父親になる資格がありません…」

「子を身篭った時点で貴方はもう親です。資格など関係ありません。貴方達は夫婦なのですから、二人で乗り越えていくのです。独りだけで耐え忍ぶのはやめなさい」


 ユージェニーは項垂れる息子に、淡々と言い渡す。しかし彼女の言葉の端々には、息子を思い遣る確かな優しさが込められていた。


「リーンハルト。言葉を尽くしなさい。貴方が案じている事を、オリヴィアさんにちゃんと伝えなさい。それからオリヴィアさんの言葉も受け止めてあげるのですよ」

「二人で話し合って決着がつかなかったら、私達のところへ来るといい。家族みんなで、腰を据えて話そう」


 話の締めくくりは、静観していたアルベールがおこなった。両親の優しい顔を目の当たりにしたリーンハルトは、じんわりと胸が熱くなるのだった。




 まだオリヴィアは寝室にいるかと思ったのだが、そこはもぬけの殻になっていた。彼女のよく通る声を頼りに探せば、その後ろ姿が玄関先にあった。まさか外出するもりじゃないだろうなと一瞬肝を冷やしたが、どうやら彼女の父メルヴィンが立ち寄っていたらしい。二人で話し込んでいるのが見えた。地声の大きい父娘の会話は、多少離れていてもばっちり聞こえてくる。


「子供が健やかである事、これに勝るものはない。お前にもそのうち分かるだろう。不器用だろうと、失敗ばかりだろうとな。元気でいてくれるのが一番なんだ。その点、お前は素晴らしく親孝行な娘だった」

「…ありがとうございます。お父様」

「案ずることはない。お前に似て、親孝行な子が産まれるはずだ。身体を大事にな」

「はい。お父様ももう良い歳なのですから、お体には気をつけてください」

「私はまだまだ現役だ。ほら、迎えが来たぞ。部屋へ戻りなさい」


 リーンハルトの姿を見つけたメルヴィンが、娘の背中を押す。素直に聞き分けたオリヴィアは、とことこ近付いて来た。彼女を迎えながら、リーンハルトはもう一人の父親に会釈する。


「もう行かれるのですか?」

「ああ。用事の途中で立ち寄ったのでな」

「では次の時はゆっくりなさってください」

「そうさせてもらおう」


 メルヴィンは婿の肩をぽんぽんと軽く叩いた後で踵を返したのだった。


「オリヴィア」

「どうしたの?」

「…名前、考えようか」


 それから二人は、ああでもないこうでもないと子供達の名前を考えた。候補は四つに絞ると言っていたのに、どんなに話し合っても倍の八つまでしか妥協できなかった。とっぷり日が暮れても膠着する意見に、リーンハルトがお手上げの溜息をつく。


「はあ…業突く張りだな、俺達は」

「子供を八人産めば問題無いわ」

「大有りだ。この馬鹿」


 あっけらかんと言い放ったオリヴィアは、何の憂いもなさそうであった。そんなはずないのに、リーンハルトの目にはそう映ったのだ。彼はぐっと奥歯を噛み締めた。


「……お産は命懸けだと」

「ええ。そうね」


 オリヴィアはお腹に手をやるのが癖になっていた。その華奢な手に、リーンハルトは自分の手を重ねる。彼女の顔は見れなかった。


「…双子はより危険になると聞いた」

「ええ。知ってるわ」

「…………医者から、どちらかを選ぶ覚悟をしろと…言われた。お前は…お腹の子を選ぶのだろう」

「ええ。もちろんよ」


 オリヴィアの答えは淀みなく、リーンハルトの答えは滞っていた。


「…すまない」

「…なにが?」

「俺は…お前の頼みをきけない」


 オリヴィアを失いなくないんだ。そう告げる声は宵闇に溶け、やがて跡形も無く消えていく。


「……わかったわ」


 項垂れる頭の上に落ちてきた、静かな声音。リーンハルトは弾かれたように面を上げた。そこには、ささやかに笑う妻の顔があった。


「でもわたしの意識が保つ限り、わたしはお腹の子を守るわ。それができなくなった時は、あなたに命を預ける」

「ッ…オリヴィア…!」

「リーンハルトには悪いけど、わたし、嬉しいのよ。あなたにこんなにも大切にしてもらえて」


 堪らなくなってオリヴィアの肩口に額を擦り付ければ、彼女は優しく夫の頭を抱え込んだのだった。肌を伝って感じる微かな心音に、どうしようもなく安堵する。


「あなたが辛い選択をしなくて済むよう、頑張るわ。全員無事に産んでみせるから」




 陣痛の兆候が表れたのは、真夜中のことだった。

 双子は早産になりやすい傾向にあると言われているが、オリヴィアも十月十日を待たずに産気づいた。飛び起きたリーンハルトが屋敷中の人間を叩き起こし、医師を呼びに行かせ、それから朝陽がのぼり、昼を過ぎても、産まれる気配はなかった。

 初産は往々にして時間がかかるものであるが、リーンハルトはその間ずっと平静を失い、仕事は一つも手付かずになっていた。見るに見兼ねて隠居の身であるアルベールが、当主代行を買って出たので、リーンハルトは執務室を飛び出した。そこへ報せを受けたパチル家の面々も到着し、赤子の誕生を今か今かと待ち侘びるのだった。

 オリヴィアのいきむ声が、次第に大きくなる。間隔も短くなってきた。声だけでわかる壮絶な苦しみ様に、リーンハルトは猛烈な歯痒さを感じていた。男は、扉一枚隔てた場所で、無事を祈ることしかできない。


───もう少しです!頑張ってください!

───奥様!しっかり!


 レティ達の必死の励ましが、絶叫の合間に聞こえる。


───今です!!いきんでください!!


 切羽詰まった指示が飛んだかと思えば───ややあって、扉を突き破らんばかりの産声が上がった。


───産まれましたよ、奥様!お嬢様です!

───もうひと頑張りです!


 リーンハルトの体感にして、およそ十分後。二度目の産声がけたたましく上がるのであった。

 部屋の外にいた人間は、軒並み放心状態から抜け出せないでいた。体の強張りが解かれたのは、顔をぐしゃぐしゃにしたアンヌが扉を勢いよく開け放ったからだ。


「ご報告いたします!元気なお嬢様と若様が、お産まれになりました!!」


 その言葉を聞くやいなや、リーンハルトは夢中で床を蹴っていた。アンヌの横を走り抜けて、寝台に横たわる妻のもとへ駆け寄る。


「オリヴィアッ!!」

「…リーンハルト」


 オリヴィアは玉のような汗をびっしり浮かべた顔を、のろのろと声の方へ動かす。疲労の滲む赤い頬は、リーンハルトの硬い両手に包まれた。彼はそこから二の句が継げない様子だった。代わりにオリヴィアが口を開く。


「言ったでしょう?全員無事に産んでみせるって」


 彼女はニッと歯を見せて笑った。なんとも不敵な笑みだった。頬を包む手の震えに気が付いていたものの、体力を使い果たしたオリヴィアにできたのは、汗ばむ掌をただ添えることであった。


「あなたの心配は、ぜんぶ杞憂だったのよ」


 彼女の声にいつもの張りは無い。息も切れ切れだ。当然だろう。途方もない大仕事を終えた直後なのだから。それでもなおオリヴィアは嬉しさを伝えようと、弾む音色を奏でていた。

 限界まで見開かれたリーンハルトの双眼が揺らめく。そして、くしゃりと表情が崩れた拍子に、大粒の涙が溢れ出たのだった。


「…っ、…ああ…本当だ…っ、本当に…よく頑張ってくれた。ありがとう…ありがとうっ、オリヴィア」


 屋敷を揺らさんばかりの声量で泣く双子の傍らでは、無事に親となった二人が一緒になって温かい雨を降らせていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 印象は良くはなったんですけど、やっぱり少しモヤモヤしますねぇ。 出会いからの一連の流れがもっとマイルドになるか、早めに旦那の内心が分かればまた違ったのかも知れませんが……
[良い点] おめでとーーーー!! ……と、最初はひたすらめでたい気持ちだったのですが、やはり命がけの行為なのですね。 >「子供を八人産めば問題無いわ」 豪気w さすがオリヴィア様。 良かった。 …
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