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後日談的なお話、その二です。
【Side:リーンハルト】
ロス伯爵家の次期当主であるリーンハルトの朝は、一風変わった始まり方をする。夫婦の寝室は同じなのだが、扉を一枚隔てて隣接する部屋は妻専用の支度部屋。彼は毎朝、そこから妻が支度を終えて出てくるのを待つのだ。厳密に言えば妻の支度は完了していないからである。仕上げとして妻が手に持っている装飾品を首に巻く事、それがリーンハルトの役目だった。
「もう平気になったわ」
「俺がやりたいんだ。文句言うな馬鹿」
リーンハルトがわざとらしく白い頸をかすめるように触れると、オリヴィアは眉を吊り上げて睨んできた。
「どうしてすぐに馬鹿って言うのよ!」
「鏡も見ない奴は馬鹿って言わないのか?」
「鏡…?」
「これじゃ、痕が隠れないぞ」
首を指差せばご立腹な顔がわかりやすく火照る。その直後に「レティッ!!」と絶叫に近い怒鳴り声を飛ばしたのだった。どうやら赤い痕が隠れないのに気付いていながら、彼女のメイドは指摘しなかったらしい。
「そうですっ、犯人は私です!」
「潔いのも大概にしなさい!ちょっとくらい反省の色を見せたらどうなの!?」
「ああっ!久しぶりのお声…っ、興奮が抑えきれません!」
「なんでそうなるのよ!!」
一人は肩を怒らせて、もう一人は恍惚と。しかし二人とも赤面している光景を、リーンハルトは面白おかしそうに眺めていた。
さて、今日は一日いっぱいを使って予定が詰まっている。リーンハルトの父はもう若くないためか、最近は商談や晩餐会の名代を息子に任せることが増えてきた。リーンハルトもいずれすべき事だと割り切っているが、それでも家族と同じ食卓につけないのは寂しい。結婚するまでは両親との食事に何の感慨も抱いていなかったのに、実に現金なものである。我ながら単純な男だと思いつつ、開き直るのも早かった。オリヴィアがいるだけでその場の雰囲気が全然違うのだから仕方がない。無論、良い意味で、だ。特に会話で盛り上げるということはしていないし、むしろ彼女の物言いは尖っている。しかしながらあの緋色は、見ている者の心を温かくするのだ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
リーンハルトが微笑みかけても、妻は相変わらず無愛想だった。けれど、このご機嫌斜めな顔が見たくて毎度毎度、駆け足で帰って来る彼は妻に首っ丈なのである。
門の前に用意された馬車のそばで、護衛とメイドが和気藹々と話していた。こういう場面を見つけるたび、変わったなとリーンハルトはしみじみ感じる。自分も、この家も。オリヴィアと出会う前の彼なら、仕事中の私語を咎めただろうし、そもそも使用人は誰一人として無駄口を叩かなかった。だが、オリヴィアと彼女の二人のメイドが仲良く交流する姿を見てからというもの、ロス家の使用人達も少しずつ彼女らの真似を始めた。その影響力は伯爵夫妻やリーンハルトにまで及んだのである。彼らは口を揃えて言う。「オリヴィア様がいらっしゃってから、皆様の雰囲気が柔らかくなった」と。今やあのユージェニーにさえ、積極的に声をかけにいくメイドがいるので驚きだ。主従の垣根は確実に低くなっている。それは良くないと主張する人間も少なからずいるだろう。でもリーンハルトはそうは思わなかった。居心地が良いと皆が感じているのに、何を責めることが有ろうか。
「二人は顔見知りだったのか?」
リーンハルトが近付くと、二人は会話を止めて一礼した。先程までの雰囲気にふとした疑問を抱いた彼は上記のように尋ねたのだが、何故か二人は目を見合わせた後に小さく噴き出すのだった。
「以前に一度だけですが」
「居合わせたオリヴィア様も、まったく同じことをお聞きになったので」
リーンハルトの護衛を務めてもうすぐ七年になる青年と、メイドのアンヌはそう答えた。
「…そろそろ出るぞ」
「かしこまりました」
何となくむず痒くなったリーンハルトは、早々に話を切り上げて馬車に乗るのであった。
護衛は御者の横へ、アンヌは車内へ移動する。まだ経験の少ない彼女は勉強も兼ねて、リーンハルトの用事に付き添う事がある。今日がまさにその日だった。
「そういえば、もう一人の方はやけに大人しくしてるが大丈夫なのか」
「レティさんですか?」
少し前まではパチル家の門をくぐれば、大抵お嬢様とメイドの破茶滅茶なやりとりが聴こえてきた。しかしロス家に移って来てから、あの騒々しさをほとんど耳にしていない。今朝のあれだって、久方ぶりに聞いた気がする。とはいえリーンハルトが屋敷を留守にしている間は変わらずにやっているのかもしれないが、少し気になったのだ。ちなみに彼はアンヌを"普通のほう"、レティを"危ないほう"と認識している。
「きっとメルヴィン様から『働く場所が変わるのだから、振る舞いも変えなければいけない事はわかるね?これを機に見直してみたらどうだ。何をとは言わんが…』と諭されたのが効いているのではないかと思います」
「ああ…なるほど…」
「でも大丈夫ですよ!レティさん、今は耳元で囁いてもらうことに興奮するんだそうです。『いけない子ね、お仕置きが必要かしら』って囁かれたら腰が砕けたって話していました!」
「……そうか」
「将来的にはオリヴィア様がレティさんに怒っていなくても、自分が叱られていると脳内で変換できるように特訓中だそうです」
「………」
どこにいても毎日楽しそうだなという薄っぺらな感想しか浮かばなかった。
心地よいぬるま湯のような空気に馴染んでいたからだろうか。赤の他人とする会食が苦痛でならない。
己がリーンハルト・ロスである限り、"稀代の美青年"を演じるのは当然の事だった。それを苦と思う隙さえ作らぬようにしてきたが、かけがえのない安らぎを一度手に入れてしまうと仮面を被ることに、以前は無かった疲労を覚えるようになった。しかし早く帰ってオリヴィアに会いたいがため、仕事を迅速に終わらせる技量が身に付きつつあるのも事実だった。『戦士にも休息は必要』だと語っていたウルバノに、全力で同意したい。
「ささ、リーンハルト様もどうぞ。今日のために一級品のワインを取り寄せました」
「それは有り難く頂戴しなければいけませんね」
「何の何の。高貴な方の口に入るものですから。選りすぐりの品でおもてなしするのが常識でしょう」
人好きのする笑みを浮かべながらリーンハルトが思っていたのは「強くないんだから酒を勧めるな面倒くさい」である。
「リーンハルト様のお好きな食べ物は何でしょう?次の機会には是非ともご用意させていただきたい」
「お気遣いは嬉しいのですが、これといって無いのです」
質問してきた男だけでなく、他の客も何故か興味津々であった。好物を並べておけば心象が良くなるとでも思っているのか。誰かさんみたいに食いしん坊でもあるまいし、そんな単純な手に引っ掛かっては片腹痛い。それに残念ながら当のリーンハルトは食物に興味が無いのだ。いや、無かったと表現するのが正しいか。
「ああでも…今は妻と食べる料理が格別に好きですね」
そう言って、嫌味なほど綺麗に笑ってやった。ここに集うのは全員男なので馬鹿馬鹿しい真似なのは承知だが、意趣返しくらいしないと鬱憤が晴れない。こちとら、何の実にもならない話を聞くために"格別に好き"な時間を犠牲にして来ているのだ。何なら妻の好物でも語ってやろうか。彼女はかぼちゃを使った料理が好きらしい。嫌いな食べ物は特に無いそうだが、強いて言うならレモンの丸齧りが苦手と言っていた。「顔中がきゅっとなる」というのは分からないでもないが、レモンに齧り付く侯爵令嬢なんて聞いたことが無い。どうしてそんな事になったんだ。…ああ、やはり語るのは止めだ。お馬鹿で愛らしい妻が減る。
僅かに気分を良くしたリーンハルトに対し、客人達は突然の惚気に唖然としていた。なんせ皆、彼が誰と結婚したかを知っている。社交界の問題児と噂の人物だ。ある一家を没落に追いやった事件について、それはもう様々な情報が飛び交っていた。ステラに関しての誤解は解けたのだが、噂話の終着点が「"稀代の美青年"はオリヴィア嬢に熱を上げている」に行き着くのが皆、俄には信じられないでいる。社交界に浸透したオリヴィアの悪い噂はかなり根深く、完全に払拭するには至っていないのだ。
「さ、左様でしたか。リーンハルト様は新婚でいらしたから」
「違いありませんな。私どもも新婚の折は似たようなものでした」
「おや。貴殿は奥方の散財癖が治らないと苦情を申していたではありませんか」
「それを言うなら貴殿こそ…」
貴様らの家庭事情なんぞ、ものすごくどうでもいい。リーンハルトは内心で毒を吐きながら、注がれたワインを口に含んだ。
「いやはや、女とは強欲ですよ。次から次にドレスや飾り物を強請ってくるのですから。同じような衣装が何着あれば気が済むのやら」
「しかし、そう指摘すると痛い目を見る」
「はっはっは!その通りですな」
欲しいものはあるかと伺っても「別に無いわ」しか返ってこないリーンハルトから言わせてもらうと逆に羨ましい。彼女曰く、祖父から大量に贈られた品々があるのでこれ以上は要らないそうだ。リーンハルトも中身が溢れんばかりの宝石箱を見せてもらったので、彼女の言い分は尤もだと思う。だがしかしだ。妻と違って素直に言葉で言い表せない夫は、自分の想いを物品に託して贈りたいのである。常日頃、彼女を馬鹿と笑う己こそ真の馬鹿野郎だという自覚はあった。
「まあ金はいくらでも都合はつきますが、家族関係だけはどうにも儘ならん」
「母親からは嫁の愚痴を聞き、嫁からは姑の愚痴を聞く、我々の身にもなってほしいものです」
「黙って聞くのもしんどいですよ。長いのなんの…喋り出したら止まりません」
これに関してはリーンハルトも、我が家は極めて稀なのだろうなと薄々感じていた。
つい先日の事だ。ユージェニーは若かりし頃に仕立てた服の処分について迷っていた。棄てるにしては新品同様で勿体ないし、使用人に与えるにしては高級すぎる。かと言って型は時代遅れであり、色味も年増の女には合わない。どうしたものかと悩んでいた時、ふと窓の外に目を向ければ、庭でスケッチをしている緋色の頭が見えた。ユージェニーは思いつく。仕立て直して義娘に譲ろう、と。良い思い付きだと浮かれ、いざオリヴィアに渡すという日になるまで「姑のお下がりなんて嫌ではないかしら」という事を失念していた。心優しい義娘は渡せば着るに決まっているが、無理をしていたら可哀想だ。無表情のまま焦りまくるユージェニーであったが、オリヴィアは無理をするどころか、歓声を上げていたらしい。
…以上、「お義母様とお揃いになれるんですね!」と飛び跳ねんばかりの義娘を、ユージェニーが無言で抱きしめている場面に遭遇したリーンハルトが、一部始終を見守っていた使用人に教えてもらった話である。
「そうやって私を都合の良い小間使いみたいな扱いをするわりに、移り気には異様に厳しい」
「おやおや、貴殿もですか。嫉妬の範疇ならまだ可愛い気がありますが、束縛は勘弁願いたいですなぁ」
「はははっ!老けた女に嫉妬されても煩わしいだけというのに!」
嫉妬と言えば、嫉妬深いのはリーンハルトの方だ。最近になって自覚したはいいが、己の執着心の強さにびっくりした。片やオリヴィアはというと、目の前で夫がダンスに誘われていてもけろりとしていた。女性達が夫に群がり、色目を使っていても然り。不満があればすぐ顔に出て、何なら言葉にも出して、場合によっては手も出るオリヴィアが平然としているのはつまり、そういう意味だ。
もっとこう…何か言う事があるだろう!?と、むしゃくしゃしたリーンハルトが「お前は食欲ばかりで、独占欲は無いのか?」なんて嫌味たっぷりに問うたことがあった。その際、オリヴィアは怪訝そうな顔をして「多少は…?」と答えていた。多少でもあることを喜ぶべきか、あるいはなぜ疑問系なんだと問い詰めるべきか。考えあぐねる夫の袖が引かれたのは唐突だった。彼女は嫌味に隠された真意に気付いていたのかもしれない。「あなたが他人行儀をしている限り、さして不安は感じないわ。それに…もう一瞬たりとも疑いたくないの」と言葉を重ねたからだ。酒に酔っている今だから白状できるが、あれは心臓のど真ん中を貫かれた。
「結局、新婚のうちが華ですな」
「リーンハルト様も今、楽しんでおかねば」
「貴殿は我々と同じ轍を踏まずに済むと良いのですが」
同情めいた視線を向けられたリーンハルトは、非の打ち所がない微笑を剥がさずに口を開く。
「為になるお話に感謝します。御三方の状況は、我が家には全く当てはまらなかったので安心しました。まったく、素晴らしい女性が妻になってくれたものです」
酒が入り、少々赤らんだ美青年の顔は絶妙な色気があったという。幸せに満ち足りる姿を見せつけられた人生の先輩方は、なんともいえない敗北感を味わい、酔いがさめてしまったそうな。
次の日から「"稀代の美青年"はとんでもない愛妻家である」との噂が広まったのは言うまでもない。
【Side:オリヴィア】
夫が出掛けるのを見送ったオリヴィアは、踵を返して支度部屋まで戻る。支度部屋というのは名ばかりで、実家の私室と大差ない。立派な一室に加えて、リーンハルトが直々に命じて用意させた画室まで貰っており、至れり尽くせりとはまさにこの事だろう。
いそいそとオリヴィアが準備している刺繍道具だった。義母であるユージェニーと一緒に縫い物をする約束をしているのだ。本人が話していた通り、実母との思い出が少ないオリヴィアにとって、義理とはいえ母親と過ごせる時間は貴重なものと考えていた。とりわけユージェニーが慈愛に溢れる内面を持つ女性だったため、オリヴィアが慕うのも道理であった。ごく初めの頃は、聞いていた話と違うなと感じたりもしたが、実の息子でさえ「俺もほんの少し前に知ったばかりだ」と目を細めていたので、心境の変化でもあったのかもしれない。オリヴィアはそう思うことにして、あまり気にしていなかった。
「また息子のハンカチに刺繍なさっているのですか?」
「はい。頼まれたものですから」
「…負担になっていませんか?」
「このくらい、何てことありませんわ」
「それなら良いのですが…そう言えばこの間も青葡萄を縫っていましたね。お得意なのですか?」
不意に手元を見られたオリヴィアは頬を染め上げる。全く不機嫌ではないのに唇を尖らせてしまうのは彼女の癖だ。
「他の模様も縫えるのですけど、これがお気に入りだそうなので…」
「あの子が青葡萄好きだったとは、あたくしも知らなかったですわ。ではオリヴィアさんのハンカチには、あたくしが赤葡萄を縫いましょう」
「えっ!?そんな、お手間をとらせる訳にはっ!」
「あたくしとてこのくらい、何てことありませんよ」
「あっ…ありがとうございます…!ご迷惑でなければ、わたしもお義母様のハンカチに刺繍したいです!何が良いですかっ?」
「折角ですからお言葉に甘えましょうか。赤い薔薇が良いのですが、お願いできますか?」
「はい!赤い薔薇ですね!お任せください!」
「この糸なんてどうでしょう」と差し出された赤い糸を見て、元気いっぱいに「良いと思います!」と受け取るオリヴィアは、その糸が自分の髪色と全く同じであったことにまるで気付いていなかった。
お互いに贈るハンカチは、出来上がるまでのお楽しみということになり、オリヴィアは青葡萄の刺繍を再開させた。至極真剣な顔付きで針を進めているので、横にいるユージェニーも静かに手を動かす。会話は少ないが、二人を包む空気はとても穏やかである。
ひと段落ついたところで、お茶が運ばれてきた。
リーンハルトからしょっちゅう食いしん坊と揶揄われるオリヴィアだが、意外にも茶菓子は少ししか食べない。甘い物を食べ始めると止まらなくなり後の食事に響くから、そうやって馬鹿正直に口を滑らせてしまったが最後、大笑いされたのは消したい記憶だ。
あまり食べないとはいっても、クッキーを一枚だけ焼くことはできないので、必然的に厨房で作られた菓子類はほぼ余ってしまう。なのでパチル家では、使用人達がそれらを自由に食べて良いことになっていた。厨房の食材は侯爵家の所有物であるため、使用人が勝手に使えば盗みと同義になる。しかしオリヴィアのために作った残り物なら、手をつけても問題は無いのである。甘い物に目がない使用人の中には、自分が食べたい物をお嬢様にリクエストする猛者までいた。
という話を聞いたユージェニーが「我が家もそうしましょう」と言い出したので全員が慌てたものだ。しかし最終的にはパチル家の方式がロス家にも取り入れられた。当初は困惑し恐縮していた使用人達も、レティとアンヌが嬉々としてオリヴィアから菓子を貰う様子を見て、張り詰めていた気が緩んだらしい。現在では菓子の取り合いが度々勃発している。
「美味しそうな香りだ。私も混ぜてもらえないかな」
紅茶の香りに釣られてやって来たのは、この屋敷の主人アルベールだった。ユージェニーとは対照的に、いつも朗らかな笑顔をオリヴィアに向けてくれる。歳は離れ、似ているところも少ない夫婦だが、根っこの優しさはそっくりなのだ。
「どうぞ」
「もちろんです!」
「ありがとう。どれ、一つ頂こう…うむ。料理人達はまた腕を上げたのではないか?いやぁ、つい食べ過ぎてしまっていかんな。皆の分が無くなってしまう」
アルベールが陽気な笑い声を立てれば、周りにいたメイド達までくすくすと笑った。非常に分かりにくいが、オリヴィアとユージェニーも表情を崩している…ように見える。
「おおそうだ。今日はウルバノ様がお立ち寄りになるから、オリヴィア嬢も私と一緒においで」
「はい。ご一緒させていただきます!」
「昨日、新作の絵が届いたから先に見せてあげよう。可愛い義娘にだけ特別だ」
「ありがとうございます!楽しみです!」
お茶を飲み終えたオリヴィアは、アルベールに続いて席を立とうとした。しかし、それより先にユージェニーの声に引き留められたのだった。
「オリヴィアさん」
「はい?」
「あたくしも夫も…あの子を甘やかしてあげられませんでした。きっと限界が来るまで、自分から甘えるという事ができないと思います。厄介な性格でしょうけど、あの子をどうか見捨てないでやってください」
その言葉に、オリヴィアははっとなる。
「俺はオリヴィアの特別になりたい」そう言って声を掠れさせていたリーンハルト。大抵は意地悪で、でも時折優しい、そんな彼の中心にあるのは幼な子のように無垢な想いであった。
彼の想いに、オリヴィアは応えたいと強く思った。それは今まで抱いてきたどんな感情や願望より熱烈で、とどまることを知らない。
「はい。もうわたしから離れることはしません!むしろ粗相ばかりの私の方が、見捨てられないよう努力が必要だと思います!」
「ふふ…頑張ってくださいと、言っておきましょうか」
ユージェニー様が笑った!?というのが、その場にいた人間の総意である。
ロス家を訪れたウルバノは、挨拶の次に「より綺麗になられましたわね、オリヴィア様」と述べた。
「やはり殿方に愛されると、女は変わるのですね」
「愛っ…!?」
「彼の方がどのように愛を囁かれるのか、興味がありますわ」
「っ…、っ!」
出会い頭に絶句させられたオリヴィアは、真っ赤になって俯くしかなかった。そんな事をしてもウルバノは笑みを深めるだけだ。
「ふふっ。ごめんなさいね。近頃、オリヴィア様がはやくお帰りになってしまうものですから、元凶である方を困らせて差し上げようかと思ったのですが…お留守のようですね。その代わりという訳ではありませんが、後で少しお話しませんこと?」
艶やかに微笑まれたオリヴィアは、頭から湯気でも出しそうになりながら頷くのだった。
美術品好きが集い、ひとしきり盛り上がった後、オリヴィアはウルバノに捕まった。なんて言い方をすると語弊を招きかねないが、オリヴィアも満更ではないのだ。初めての友人とお喋りできるのは純粋に嬉しい。ただ内容が自分と夫の話になると、返答に困るというだけで。しかし何故かウルバノはその手の話を好むので、オリヴィアは大概慌てふためくだけに終わる。今日も今日とてそんな感じであった。
「漸くはっきりとした好きというお言葉が聞けて、わたくしも一安心ですわ」
「うっ…それは…」
「何でしょう?」
「今まで恋だと疑わなかった気持ちが、実は違ったのではと思えて…混乱していたのです」
「あら…どういう事ですか?」
「初めて恋した人と、リーン…夫とでは、湧き上がる感情が全然違っていたので、自分が新しい恋をしているなんて気が付きませんでした」
「…そうだったのですか」
「とてもありがたい事に、わたしには大好きな方がたくさんできましたわ。それぞれ大切に思っているのですが、あの人だけは特別なんです。特別の中の一番…と言えば良いのでしょうか。適切な言葉が見つかりませんが、とにかくこんな気持ちは初めてでしたの。もしかしたら、わたしは今やっと恋を知ったのかもしれませんわ」
「ふふっ。きっと恋という括りには、収まりきらなかったのでしょうね」
「え?」
「単なる独り言と聞き流してくださいませ。それにしても素敵ですこと。貴女って方は本当に素敵ですわ」
「えっ!?」
ウルバノは蕩けてしまいそうな笑顔を浮かべており、同性にも関わらず、オリヴィアはどぎまぎさせられたのだった。
オリヴィアの一日は、こうして暮れていく。
父と娘の怒号から朝が始まるパチル家とは大違いだ。義理の両親はオリヴィア達が戯れのような喧嘩をしていても、微笑ましく見守るだけで諫めはしない。この屋敷の人達は皆親切だが、実家に勤めていた使用人達のような図太さは持ち合わせていない。いや、それは無い方が良いのだろうか。なんだか幸せすぎて、逆に怖くなる。
(…あっ!?馬車が着いてるじゃない!)
ぼんやりしていたら、夫が帰って来たようだ。オリヴィアは急いで玄関に向かった。目的は一つ。彼に「おかえりなさい」を言うためである。冗談半分だったかもしれないが、楽しみにしていると言ってくれたのだ。彼の楽しみをオリヴィアが奪う訳にはいかない。ドレスの裾を持ち上げて廊下を疾走する彼女を見たら、きっと実父は「淑やかに!!」と叫んだだろう。でもロス家の人達は温かく声援を送るだけなので、調子に乗って突き進む。ちょっと髪は乱れたものの、どうにか出迎えに間に合ったオリヴィアは大きく深呼吸して、扉が開いた瞬間に声を張った。
「おかえりなさ…っ!?」
…のだが、言い終わる前に不自然な形で大声が途切れた。リーンハルトがえらく上機嫌に抱き着いてきたからだった。背後からレティ達の視線をひしひし感じていたので、恥ずかしがったオリヴィアが抵抗するも、余計にぎゅうぎゅう抱き締められてしまう。
「苦しっ…あなた、どれだけ飲んだの!?お酒臭いわ!」
「いま帰ったぞ、俺の可愛いオリヴィア」
「っ!?かわっ…い!?!?」
その瞬間、オリヴィアの思考と心臓が爆発した。
「…っ、そういうことは、お酒の力を借りずに言いなさいよっ!!!」
そしてリーンハルトの頬には、完璧な右ストレートが決まる。盛大すぎる照れ隠しだ。
「っ!?嫌だわ体が勝手に…!ごめんなさい!リーンハルト、大丈夫…じゃないわ!?大変っ!白眼をむいて失神してる!!」
「!!オリヴィア様!私にもぜひ一発!後生ですからっ!」
「ひれ伏してお願いしてる場合じゃないですよレティさん!」
「きゃあ!?鼻血まで出てきたわ!どうしましょう!?」
「鼻から血を出させていただけるなんて…私だってそんなご褒美を貰ったことがないのにっ!」
「レティさんっ!落ち着いて!涎を拭いてください!」
「いったい何の騒ぎかね。ん?おやおや…」
「まあ…"稀代の美青年"もオリヴィアさんの前では形無しですわね。ふふ…おかしい」
(ユージェニー様が笑っていらっしゃる!?)
「死なないで!!リーンハルト!!」
「………ハッ!?なんか血の味が…って、勝手に殺すな!!この馬鹿っ!!」
オリヴィアと彼女の周りは、どこまでいってもドタバタなのであった。




