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後日談的なお話です。
生を受けてからずっと共に在った家名をオリヴィアが手放したのは、ひと月前のことである。結婚式はおおよそ無事に終わった。恙無くとは言えない理由は、新郎がリーンハルトで新婦がオリヴィアだからの一言に尽きる。
入場する直前に父メルヴィンが「くれぐれも…」と言い出したので、オリヴィアはいつもの如く「淑やかに」へ続くのだろうと思った。でも、娘として小言をもらうのも今日で最後になるのだから、心して聞くつもりでいたのだ。ところが父の掛けた言葉はこうだった。「くれぐれも、大きな怪我や病気はしてくれるな」。予期せぬ言葉にオリヴィアは鼻の奥がつんとなった。
これから挙式という時に危うく号泣してしまいそうになるのを必死に我慢して、オリヴィアは新郎の待つ祭壇まで歩いた。問題が起きたのは誓いのキスの瞬間である。父の優しい言葉と、永遠を誓う新郎の凛々しい声に心が震え、オリヴィアの涙腺は決壊寸前だった。だがしかし、ヴェールをめくった新郎が小声で「…不細工になるのが早すぎないか」などと呟いたものだから、感動の涙は跡形もなく引っ込んだ。他に幾らでも言葉はあるだろう。なにも此処で嫌味を吐かなくても良いではないか。涙は涙でも、怒りの血涙が流れそうだった。瞬く間に頭に血が上ったオリヴィアは、裾の長いドレスに隠しながらリーンハルトの足を思い切り踏ん付けてやった。多分、ヒールが刺さったと思う。何やら小さな呻き声が聞こえた気がするが無視した。だけど、憎まれ口を叩くくせに彼からの口付けはびっくりするくらい優しくて、オリヴィアは踏むならつま先でやれば良かったと少しだけ後悔した。
その後も、投げたブーケをレティが顔面で受けにいったり。サンディが「妹を頼むよ」と言いながら義弟の手を粉砕する勢いで握手したり。給仕の手違いで強いお酒を飲まされた新郎が、素面のような顔で甘い口説き文句をしきりに囁き。逆に全く酔わなかった新婦の方が、酔っ払いみたいに顔を赤らめていたり。
色々あった結婚式だが、なんだかんだで思い出深いものになっただろう。
かくして始まった新婚生活は、傍目から見ればなかなか順調と言えた。
生家を出て嫁ぐオリヴィアには不安もあったに違いない。しかし彼女は身一つで嫁いだ訳ではなかった。メイドのレティとアンヌが、共にパチル家を離れる道を選んでくれたのである。レティについては本人の強い希望であったが、アンヌは違う。オリヴィアの方から話を持ちかけたのだ。まだ新人の域を出ないアンヌは当然、困惑した。だがレティと歳も近く、若さゆえに新たな環境にも順応がはやいであろう事。それとロス家の屋敷なら、住み込みではなくアンヌの実家から働きに出て来られる事。オリヴィアの気遣いを知ったアンヌは、すぐさま「お供させてください」と涙ながらに飛びついた。
若い二人のメイドはよく気が付き、よく働く。おかげで義理の両親と同じ屋敷で暮らしているにも関わらず、オリヴィアは毎日生き生きしている。いや、もしかするとその功績はリーンハルトの両親にあるのかもしれない。
どちらのおかげにせよ、その事が一人の青年を悩ませていた。
ある日、リーンハルトが出先から戻ると新妻の姿が無かった。聞けば母と一緒に出掛けているという。仕立て屋で服を見繕うのだとか。何が悲しくて新婚なのに父と二人で食卓を囲まなければならないのか嘆きたいところだったが、女性同士ならではの楽しみもあるだろう。リーンハルトはため息を一つ吐くだけに留めた。
また別の日。想定より早く用事が済んだため、午後は妻とデートにでも行こうかと上機嫌で帰ったのに、屋敷には誰も居なかった。両親が妻を連れて、個展を見に行ったらしい。ご丁寧にも、夕食は外で摂ってくるとの言付けが残されていた。仲間外れにされた気分である。どうして俺は独りで皿をつついているのだと、リーンハルトは遣る瀬無い怒りを覚えた。
またまた別の日。朝一番に妻の予定を確認すれば、特に無いと言われた。今日こそはと思い、超特急で用事を終わらせて来たリーンハルトを出迎える者は、やはり誰も居なかった。どういう事だと苛つきながら屋敷を歩き回ったところ、妻はちゃんと居た。隣にはリーンハルトの母も居る。ちなみに父は不在だった。
『…ごめんなさいね』
『えっ!?何がですか!?』
『あたくしは娘も欲しかったものですから、ついつい舞い上がって一緒に刺繍でもとお誘いしましたが…退屈だったでしょう?あたくしは口が達者ではありませんし、オリヴィアさんも無理して付き合うことはないのですよ』
『とんでもない!わたしこそ手元に集中しすぎて口元が疎かになっていましたわ!申し訳ありません!誘ってくださった事に感謝しています!』
『それなら良いのですが…』
『わたし、母と一緒に何かをした記憶があまり無いんです。だからこうして、お義母様と並んで刺繍ができることが、すごく嬉しいです。ちっとも無理なんてしていませんわ』
『オリヴィアさん…どうもありがとう』
織りなされる美しい会話に、どうして男が無粋に割り込めようか。リーンハルトはすごすご退散するしかなかった。
こうなったら休日に約束を取り付けてやると息巻き、妻をデートに誘うも「明日はウルバノ様と歌劇を観に行く約束が…」と断られる始末であった。
流石に夜まで一人寝を強いられる事はなかったが、オリヴィアは寝付きが素晴らしく良い。特に日中、義母やウルバノに連れ回された日の晩はおやすみ三秒である。熟睡する妻を叩き起こしてまで房事に及ぶ気にはなれないし、寝込みを襲うなど外道のする事だった。
しかしそうなると、オリヴィアと過ごす時間が全くと言っていいほど持てなかった。結婚したばかりなのに、夫と過ごす時間が最も少ないとは何事だ。おはようとおやすみの挨拶しかしていない新婚生活なんてあんまりである。これは抗議の声を上げねばなるまい…とは思っていてもリーンハルトは行動に移すことができないでいた。だって恥ずかしいだろう。オリヴィアに「寂しいから構え」と乞うのも、両親に「妻をとらないでください」と頭を下げるのも、男としての矜持が崩壊する。
(あいつもあいつだ!多少なりとも、なんかこう…思う所はないのか!?)
悶々としているのが片方だけなのは釈然としない。というか、頭にくる。オリヴィアが日々楽しそうなのがまたいけないのだ。少しでも迷惑そうな素振りを見せれば、それを口実に引っ張ってこれるのに、周りに構われるたび彼女が大変喜ぶものだから、邪魔ができないリーンハルトの鬱憤だけが溜まっていく。
さて、夜の帳が下りた頃。寝台に寝転がったリーンハルトは、まだ机に向かっている妻に恨めしい視線を送っているがさっぱり気付いてもらえない。
(手紙なんぞ昼間でも読めるだろっ!)
苛々しても仕方ないことは分かっている。新たな環境にいち早くとけ込んでくれて感謝しているし、友人と出掛けるなとも言わない。ただもうちょっとくらい、夫にも楽しそうな顔を向けてくれまいか。ここ最近は健やかな寝顔しか見れていないのだが、それは新婚の夫婦として如何なものか。
「リーンハルト様」
「…なんだ」
手紙を読み終えたオリヴィアが、ようやく顔を上げる。返事の声が低くなってしまったのは勘弁してもらいたい。リーンハルトはもう充分すぎるほど待った。
「フレッドに姪ができたそうです。わたし達も見にこないかって…きゃあ!?」
「うるさい」
普段のリーンハルトなら聞き流せたかもしれない。だが、今の精神状態において、その名前は禁句に等しかった。寝ていたはずの彼は風のような速さでオリヴィアとの距離を詰め、寝巻着姿の彼女を横抱きにする。上がった悲鳴を一言で黙らせ、細身を寝台に転がした。そのまま覆い被されば、彼女は大きく見開いた瞳を白黒させていたのだった。
自分にしては万事が上手く運んでいる、オリヴィアはそう感じていた。
実の父親には叱られてばかりだったから、きっとロス家でも迷惑をかけてしまうと思っていた。粗相をしないように気を張っていても、それが四六時中となれば難しい。どうしたって地声は大きいし、小馬鹿にされれば脊髄反射で言い返してしまう。だが何としても被害は最小限で食い止めねばと、オリヴィアは並々ならぬ気合いを入れていた。
ところが、リーンハルトとの応酬を伯爵夫妻に目撃されてしまったのは、はやくも結婚式の翌日だった。でもあれは正直、彼が悪いとオリヴィアは思うのだ。だってリーンハルトが「そんなに大声を出したいなら、ベッドの中で聞くが?」なんて意地悪な顔で言うから…初夜が明けてすぐだったため、オリヴィアは怒りと共に猛烈な羞恥に襲われ、人目も憚らずに朝っぱらからいきり立った。それはもう、屋敷中を突き抜けるほどの声量で怒鳴り倒した。当然、アルベールやユージェニーにも丸聞こえだった訳で、オリヴィアが我に返った時には既に手遅れであった。同居生活一日目からやらかしてしまった。オリヴィアは興奮で赤くなっていた顔を、たちまち真っ青に変える。かくなる上は平身低頭で詫びるしかない。昨日、嫁に出したばかりの娘が帰ってきたら、父親は泡を吹いて倒れてしまうだろう。そんな親不孝はできない。
泣きそうなオリヴィアを諭してくれたのは、無に近い表情なのに柔らかな声色を奏でるユージェニーだった。
『意見を率直に言い合える相手というのは、とても貴重です。あたくしは貴女のよく通る声を好ましく思っていますから、どうぞ畏まらずに』
ユージェニー曰く"自分の夫とは十も歳が離れているために殆ど喧嘩をしてこなかった、故にあなた達が羨ましい"そうだ。以降、義母が折に触れて見せる奥底の優しさに、オリヴィアはすっかり気を許すこととなった。
アルベールと話すのも楽しかった。絵画という同じ趣味を持ち、実父より歳上であるのも相まって、オリヴィアを猫可愛がりしてくれた祖父との語らいを想起させたのだ。
ロス家が召し抱える使用人も、パチル家に負けず劣らず良い人達ばかりであった。とりわけ料理人達がオリヴィアに好意的だ。好き嫌いなく、何でも綺麗に平らげるオリヴィアは腕の鳴る相手なのだろう。彼女の気持ちの良い食べっぷりを見に、わざわざ厨房を抜け出す料理人が後をたたなかった。
そんなこんなで熱烈な歓迎を受けていたオリヴィアは、ついうっかり一人の青年のことを疎かにしてしまったのだ。
勿論、放ったらかしにしているつもりはなかった。義理の両親や友人から声をかけられるまま、充実した日々を送っていたらこうなっただけである。夫に対して良からぬ事をしたという自覚がないまま、にべもなく「うるさい」と責められては彼女だって泡も食う。
「リーンハルト様…?」
「………」
寝台に押し倒してきた相手は、どこか苦々しい表情を浮かべている。それは怒っているようにも、耐えているようにも見えて、オリヴィアはいっそう困惑した。
固まるオリヴィアに構うことなく、リーンハルトは彼女の喉元に顔を寄せ、唇を這わせる。かと思えば、了承も得ないまま柔肌を吸い上げてきた。
「ぅあ…っ!?見える場所は嫌だって言…」
「…ここに痕がつくの、好きなくせに」
「なっ!?そ、それは…その…っ」
とん、と首元を指差されたオリヴィアは、顔に熱が集まってくるのを感じた。確かに、そこが食まれるたび、おぞましい記憶が上書きされるような気がして安堵を覚えるのだ。だから彼の指摘は図星なのだけれど、言葉に出した覚えはないし、まだ数えるほどしか情交を結んでいないのにどうして筒抜けなのか。恥ずかしさで人は死ねるとオリヴィアは本気で思った。
「俺は存外お前をよく見ている」
「…?」
お前と違ってな。そう言外に恨み言をぶつけられた気がする。
「なんで、怒っているんですか」
「怒ってない」
顰めっ面のオリヴィアに瞳を覗き込まれたリーンハルトは、彼女の視線を躱す。そして、不貞腐れた様子のまま彼女の素肌に触れんとした、その時。オリヴィアはカッと目を見開いて「だめですっ!」と叫んでいた。ついでに伸ばしかけていた彼の手も払いのけ、寝室にぺちんと間抜けな音が響いたのだった。
その後、形容しがたい静寂が流れる。
「……そんなに嫌がらなくてもいいだろ…」
「えっ」
しょぼしょぼと力の無い声が降ってきたことにより、オリヴィアの体から冷や汗が噴き出た。
結婚する前、オリヴィアはパチル家に呼ばれた指南役から、夜の床について教えを受けていた。赤裸々な内容に何度も顔を覆いたくなったが、大切なことだからと必死に言い聞かせて頭に叩き込んだものだ。「自分の身体は大事にすべきだが、妻たるもの基本的に夫からの誘いを断ってはいけない。断る時は言葉を慎重に選ぶように」そう口酸っぱく注意された事を、今まさに夫の気落ちした声を聞いて思い出した。
オリヴィアは慌てて口を開く。慌てすぎて、たどたどしい言い方になってしまった。
「違っ…あなたに触れられるのが嫌という訳ではっ、決して!!」
「………」
胡乱な彼の瞳に焦りが募る。先ほどの態度はやはりまずかったようだ。ときに男の矜持は乙女心より繊細になる、とは指南役の弁である。
「あと四日ほど待ってください!今は、えっと…月の障りが…あの、申し訳ありません…」
尻すぼみになる語気を、リーンハルトは虚を突かれたように聞いていたが、終いに長い長い溜息を吐いた。
呆れられてしまっただろうか。オリヴィアが顔色を悪くしていると、彼は上から退き、寝具を優しく掛けて共に寝転ぶのであった。
「もっと早く言え馬鹿」
ああ、いつものリーンハルトだと、オリヴィアはほっと息をつく。
「辛くないか?」
「大丈夫ですわ」
「温めると良いと聞くが、どうなんだ」
どう答えるべきか。
正味の話、オリヴィアの症状はとても軽い。なのでこれといって手助けは必要ないのだ。
(でも…そのまま伝えるのは、なんだか良くない予感がするわ)
要らないと突っぱねれば、再び傷付けてしまうような気がしてならなかった。
彼女は知る由もないがそれは英断であった。
「…そんなに痛くはないんですけど、温めてほしいです」
「そうか」
じゃあ横を向いてくれと言われ、オリヴィアは素直に応じる。するとすぐに後ろから優しく抱き竦められた。自分より大きな手の平が腹に添えられ、彼の温もりに身体を委ねれば、自然と安心しきった声が溢れる。
「ありがとうございます。リーンハルト様」
「…呼び方」
「はい?」
「…なんで幼馴染は呼び捨てで、俺は敬称なんだ」
フレッドの呼び方は、礼儀知らずの子供だった名残りである。変えるタイミングを見失ったため、それで通してきただけだ。
「なんでと言われても…」
「…俺はオリヴィアの特別になりたいんだが」
旋毛のあたりに甘ったるい吐息がかかる。彼の顔を見ることは叶わないけれど、きっと切ない表情を浮かべているに違いない。何故なら掠れた声だけで、こんなにもオリヴィアの胸を熱く焦がすのだから。
リーンハルトが頑なに明言を避けるので時間はかかってしまったが、オリヴィアにもようやく伝わった。普段は天邪鬼な彼が駄々をこねている様子から察するに、相当寂しい思いをさせてしまったらしい。申し訳ないやら、少し嬉しいやら、むずむずするやら、次々に色んな気持ちが芽生える忙しなさで、身体が芯から痺れてしまいそうだった。
「…リーンハルト?」
「…ん」
リーンハルトの返事はくぐもって聴こえた。多分、オリヴィアの髪に口元を埋めているのだろう。抱きしめられているのはオリヴィアなのに、どうしてか小さな子供を腕に抱いている心地になる。
「これでいいのかしら」
「…ここへ戻ったら、お前の『おかえり』がききたい」
「わかったわ。今までできなくて、ごめんなさい」
「いや…もういい」
「これからは誰よりも早く『おかえりなさい』って言うわ」
「そうか。楽しみにしてる…」
リーンハルトから笑っている気配がした。オリヴィアもつられて小さく笑った。
次の日。オリヴィアは朝から屋敷中の人間に「わたしが一番にリーンハルトを出迎えるから!」と話して回った。護衛やメイドにも役目を譲る訳にはいかなかったのだ。そして日が暮れ、彼が乗った馬車が走ってくるのを見つけるなり、脇目も振らず玄関へ一直線だった。
「おかえりなさい!!リーンハルト!!」
どこまでも響き渡りそうな大声が、への字に曲がった唇から勢いよく飛び出す。聞く人によっては刺々しい音に聴こえるかもしれない。だけど此処には、彼女のご機嫌斜めな顔立ちを誤解する者はいなかった。夜空に瞬く星よりもきらきら輝く碧眼が、全てを雄弁に語っているからである。
「ああ、ただいま。オリヴィア」
騒がしい出迎えを受けたリーンハルトは、繕った仮面を脱ぎ捨てて顔を綻ばせた。
燃えるような緋色を自身の腕の中へ引き寄せ、心からの安らぎを滲ませる青年に、人形じみていると言わしめた面影は最早どこにも見当たらない。




