25
男と男の話し合いにおいていったい何が語られたのか。最後までオリヴィアには教えてもらえなかったが、婚約は解消されず挙式も当初予定していた日取りのまま。つまるところ、あれだけ大騒ぎした割に何も変わっていないという事だ。
元通りと言えば、現在進行形でリーンハルトと二人で揺られる馬車の中も同じであった。初めの頃みたく居心地の悪い沈黙が落ちている。ただし前と今では、原因が全く違う。熱に浮かされ、煮えていた頭が平静を取り戻すにつれ、オリヴィアは羞恥心に殺されるかと思った。盗られた首飾りをとり返し、言いたいことを言って終わりだとばかり思っていた夜会が、断罪の場と化したのだ。声を張り上げるのは想定内だったが、泣きまくった挙句にファーストキスを奪われ、パニックになった勢いで暴力を振るったのは想定の範疇を遥かに越えていた。冷静になればなるほど、人前でとんでもないことをしでかしたと地面に埋まりたくなった。
そして極め付けは、否が応でも視界に入る自分の手。正確には左手の薬指に嵌る真紅の宝石である。これがずっと目の端にチラつくせいで、オリヴィアの不整脈がいつまでも治らない。彼女も本当は不整脈などではない事にもう気付いているが、だからこそ余計に心臓が暴れるというか。こんな状態でリーンハルトと二人きりにされても、甚だ困るのだ。こういう時こそリーンハルトが嫌味の一つでも呟いてくれれば、オリヴィアも反射的に言い返せるのに、彼は黙って窓の外を眺めているだけだった。
ところで、二人が馬車に乗って向かっている先はダイアー公爵家である。ロス家への謝罪は既に済ませてあった。リーンハルトの両親は平謝りするオリヴィアを、再び受け入れてくれた。拍子抜けするくらい丁重に迎えられたので、オリヴィアは目が点になったくらいだ。兎にも角にも次は、与り知らぬ間に大変お世話になったウルバノへ感謝を伝えに…となった折、リーンハルトが同行を申し出たのである。それは良いが、夜会の日を境にまともな会話ができていなかった二人は、喋り方を忘れてしまったらしい。しかし一言も発していないにも関わらず、顔はじわじわと熱を帯びてくるのだから手に負えなかった。
自分の気持ちを持て余し、途方に暮れているうちに目的地へ着いた。異様に長い馬車旅に感じたのはオリヴィアだけだろうか。双方無言だが、手だけは取り合ってやって来た訪問客を、ウルバノは微笑みながら出迎える。
「楽になさってくださいな」
長椅子に座って、勧められるままに紅茶を口に含むが、今のオリヴィアには熱いという事しかわからない。
「先日の計らいに、心より感謝申し上げます」
未だにぎこちないオリヴィアを置いて、リーンハルトが早速猫を被り出した。"稀代の美青年"は、切り替えの速さも随一なのだ。慌ててオリヴィアも頭を下げる。
「わたくしが自ら買って出たことですもの。お気になさらず」
「そうは仰っても、わたしの気がおさまりません。このご恩は必ずお返ししたい所存です!」
オリヴィアは早口になって食い下がったものの、向かい合った麗人は艶やかに笑うばかりだった。
「では一つだけ、お聞かせくださいますか?オリヴィア様にとってわたくしは、どのような存在でしょうか」
「えっ…と?大恩ある方、です」
「恩人ですか…」
ウルバノがあからさまに眉を下げたのを見て、オリヴィアは大層焦った。気に障る言い方だっただろうか。何が駄目だったのかわからないが、誤解があってはいけないため、オリヴィアはすぐさま言葉を続けた。
「とても尊敬しています!あと、憧れでもあります!烏滸がましいとは思うのですが!それから、それからっ」
「ふふっ。嬉しいのですがわたくしは『友人』と、答えていただきたかっただけなのです。わたくしが友ではお嫌ですか?」
その言い方は卑怯だろうと、リーンハルトは呆れたが声にはしなかった。案の定、オリヴィアは首が千切れんばかりに否定している。
「とんでもない!!光栄すぎます!!むしろ本当に宜しいのですか!?わたしが、ゆ…友人だなんて…」
リーンハルトがオリヴィアを盗み見れば、耳まで紅潮させていた。たとえ眉が吊り上がっていても喜色は誤魔化せない。恐縮してはいるのだろうが、やや前のめりになった姿勢から、よほど嬉しい事がひしひしと伝わってくる。
「わたくしからお願いしたいくらいですのよ」
「!!不束者ですが、今後ともよろしくお願いいたしますっ!」
「ありがとうございます。ですがその台詞はお隣で百面相なさっている方に、とっておかれたほうが良いと思いますわ」
「??」
「んんっ…そろそろ仔細をお聞かせ願いたいのですが」
女性相手にみっともなく嫉妬している姿をこれ以上晒す訳にいかず、リーンハルトは咳払い共に話題を転換した。
「そうでしたわね。ご報告いたします。ステラ・バートンの身柄は修道院に送られることが決まりました。ご実家の爵位を返還してでも、牢獄暮らしは避けたかった模様です。安心してくださいね、オリヴィア様と二度とまみえる事はございませんゆえ」
「オリヴィアに暴行を加えた男はどうなった?」
それに関しては依然として激しい怒りが収まらないようで、リーンハルトの語調が荒れる。
「既に裁きを受け、冷たい鉄格子の向こう側にいます。日の下に出てくるとすれば、皆から忘れ去られた頃でしょう。さて、気分の悪くなるお話はここまですわ」
ウルバノはぱんっと手を叩く。それが合図だったようで、リーンハルトはダイアー家の使用人に両腕を掴まれた。
「…は?」
「リーンハルト様がお帰りになります。お見送りして差し上げるように」
「はあ!?」
「オリヴィア様はまだゆっくりしていってくださいな。宜しければ昼食もご一緒にいかがでしょう?」
「なんで俺だけ…!!」
「あら。条件をお忘れですか?リーンハルト様。諸々は済みましたから、オリヴィア様はお借りしますわよ」
もがくリーンハルトに向かって、優雅に手を振るウルバノ。あっという間の出来事に、オリヴィアはぽかんとすることしかできなかった。
我に返ったオリヴィアは、強引に退室させられてしまった婚約者を追いかけようとしたものの、ウルバノが相手では敵うはずもなく。気付いたら昼食と三時のティータイムまでご一緒していた。嬉しいし、楽しかったのだが、終始世話になりっぱなしである。これでは何の為に公爵邸にやって来たのかわからない。しかしウルバノが至極満足げに微笑むので、いつもと同じく最後には絆されていた。
それでもやはり解せない。今まで生きてきて友達になってほしいだなんて、言われた試しがないオリヴィアには、ウルバノが物好きな人間に思えたのだ。小難しい面持ちから懐疑心でも滲み出ていたのか、ウルバノは見計ったように教えてくれた。
「一度だけですが、シャロム画伯とお話する機会がございましたの。わたくしはそこで『赤い馬』のモチーフがオリヴィア様であることを聞きました。その時からですわ。ずっとお会いしたいと思っておりましたの」
思いがけない繋がりを知ったオリヴィアが、間抜け面を披露していた頃。
公爵邸から締め出されたリーンハルトはとっくに自分の屋敷に送り届けられており、分かりやすくむくれていた。まだ全然、本当にまったくオリヴィアと話せていないのに、早々と彼女をとられてしまい、鬱憤が溜まる一方だった。あんな条件のまなければよかったと後悔する。
彼はオリヴィアに話したい事があったのだ。ただ、その内容からして軽々しく伝えたくはなかったため、慎重になっていたらウルバノに掻っ攫われてしまった。これでは本末転倒である。
「…そういえば聞かず終いでしたが、父上がパチル侯爵家を選んだ決め手は何だったのですか?」
「おや。教えてなかったか」
不貞腐れていたリーンハルトがようやく声を発したのは、珍しくもお茶の席であった。ロス家において他愛のない会話という概念は無いに等しく、あるのは事務連絡だけだ。ここにオリヴィアが同席していたなら、微笑ましい風景に様変わりしただろうが、残念ながら彼女はウルバノのところから戻って来ていない。
彼が口にした疑問は、前から気になってはいたものの、訊くタイミングが掴めなかったものだ。普段は両親とお茶をする時間など設けやしないのだが、何の因果か今日は同じ席についている。丁度いい機会かと、ふと思った。
自惚れる訳ではないが、ロス家には相当数の釣書が届いていたはずだ。その中から選ばれたパチル家は、申し訳ないが家柄以外に特筆するところがない。それゆえアルベールがオリヴィアを見初めた理由にまったく見当がつかなかったのだ。くじ引きで選んだ訳はあるまいし、何かしらの理由はあるのだろうとは思うが…
「ユージェニーがオリヴィア嬢をそれは気に入っておってな。申し込みがあったと知ったが最後、是非と言って聞かぬものだったから」
「は……母上が!?」
リーンハルトが持っていたフォークを取り落とし、つい立ち上がってしまったのも無理はない。
彼の母であるユージェニーはいつも冷淡で、家族に興味があるのかないのかも定かではない、そんな女性だ。今だって表情一つ変えずに「行儀が悪いですよ、リーンハルト」と嗜めている。そのユージェニーがオリヴィアを気に入るとは、天変地異の前触れか?だいたい母とオリヴィアに接点があったのか?いやいやオリヴィアの態度を見るにその線は薄い。知り合いという雰囲気ではなかった。考えれば考えるほど、余計に混乱してくる。
「お茶の途中です。座りなさい」
仰天するあまり二の句が告げない息子に対し、ユージェニーはどこまでも冷ややかだ。しかし説明する気はあったようで、淡々と語り始めるのだった。
「…三年ほど前でしたか。夫の名代として絵画の展覧会へ行った折に、彼女の人となりを知ったのです。とはいえ、オリヴィアさんはご存知ないと思いますが」
ユージェニーが館長に挨拶していた時だったそうだ。隣の部屋から大きな声が響いてきたらしい。そこは商談に使う一画で、たまたま近くにいたユージェニーには話し声がよく聞こえたが、会場にまでは届いていなかっただろう。
『贋作を堂々と展示するなんて、画家の風上にも置けませんわね!』
『小娘に何が分かるというのだ!でたらめを言うな!!』
経緯は不明だが、どうやら展示品の一つに贋作の疑いがかけられているようだった。指摘したのは「小娘」と軽んじられている少女に違いない。憤っているのは作品を持ち込んだ画家か。
『偉大な先人の模倣は大いに結構ですわ!あなたが描いた絵なのに、それを偽るのが悪い事だと言っているんです!』
『だったら贋作だという証拠を出してみろ!!できない癖に大人を侮辱するな!!』
大人だというのならば、それ相応の態度を取るべきだ。年端もいかぬ少女と思しき相手に声を張り合って、そちらの方が余程恥ずかしい。ユージェニーは聞き耳を立てながら静かに憤慨していた。
『…絵の作者はヤソン画伯だと仰いましたね?彼には二人の息子と娘が四人おり、それぞれに愛情を傾けていましたわ』
『だからこの絵にも彼の子供達が描いてあるのだろう!』
『ええ。だからこそ、この絵はおかしいのです。三女だけは左利きだったんですよ。子を愛する父親が、愛娘の利き手を間違えて描くなんてあり得ない』
『!!』
『もう一つ。額縁の彫刻ですが、これは晩年の作品に多い彫り方ですわ。描かれている子供達の年齢から計算すると時期が合いません。過去の情景を描いたというなら、キャンバスの裏側を確認すればわかるでしょう。ヤソン画伯は友人の署名と併せて、完成した日付けも入れるようにしていましたから』
『………』
実際に作品を見てはいないが、少女の主張は理に叶っているように思えた。一緒にやりとりを聞いていた館長も、ユージェニーと同じ結論に至ったらしい。席を外すと言ってから、隣の部屋に入っていった。
しばらくして、画家の男の泣き言が聞こえてきた。金が底をつき、断腸の思いで贋作を描いた、との事だった。もう画材どころか明日のパンを買う金もないという悲痛な叫びは哀愁を誘うが、だからといって人を騙して良い事にはならない。可哀想だが、もはや画家の道は諦めて他の仕事を探すしかないだろう。しかし事態は、ユージェニーの思わぬ方へと展開していく。
『…あなたの描いた絵は、わたしが買います』
『……は…?』
『贋作をいつまでも展示しておく訳にはいきません』
『や、しかし、本来は値段のつけられるものでは…館長として私が責任を持って片付けますので…』
『わたしが買ったと言えば、急に作品が無くなっても怪しまれないでしょう』
次に聞こえてきたのは、硬貨が擦れる無機質な音。結構な重量を感じる音であった。恐らく贋作に払うにしては多かったはずだ。画家から「こ、こんなに…!?」という驚きの声が上がっていたからである。
『今日のことはわたしの胸に秘めておきます。でも、もしまた同じことをしたら、この絵は贋作だと公表しますわよ。それが嫌なら、真面目に頑張ることですわね!』
少女の言い草は、まるで捨て台詞のようだった。けれども彼女のした事は、画家として再出発するための気遣いに富んでいた。一度押された贋作師の烙印は永久に消える事はない。だから買い取りという形で画家の名誉を守り、軍資金まで差し出したのだ。ユージェニーには少女が「わたしはあなたの可能性に投資する」と言っているようにしか聞こえなかった。
泣きじゃくる男の声、誰かが踵を踏み鳴らして出て行く音、隣の部屋はいっそう騒がしくなっていた。戻って来た館長に、ユージェニーは逸る気持ちで尋ねるのだった。よく通る声を持つ少女の名を───
「それがオリヴィアだった、と…」
「そうです」
「ちなみにその時の画家が、今や大人気のシャロム画伯だよ。いやぁ、オリヴィア嬢の目利きは素晴らしい」
シャロム画伯の絵ならリーンハルトも知っている。青空の下で力強く躍動する赤い馬を描く画家だ。奇抜な発想と卓越した画力で人気を博している。母の話を聞いた今、額縁から飛び出してきそうな赤い馬がオリヴィアに見えて仕方がない。
「…ちょっと待ってください。三年も前からオリヴィアを見つけていたのに、何故教えてくださらなかったのですか」
三年前ならオリヴィアは十五歳だ。婚約を結んでいてもおかしくない年頃である。ユージェニーの考えがやはり分からず、リーンハルトは怪訝そうに眉根を寄せた。
「貴方は我慢ばかりでしたから、己の伴侶くらいは自分で選びたいのではと思い、猶予を設けていたのです」
今日は驚愕させられっぱなしだ。こんなに喋る母親は初めてだったし、そして何より、息子の心を慮っていたなんて…ちっとも知らなかった。
「ですが一向に良い相手を見つける気配がありませんでしたので、パチル家から申し込みが来た時点で打ち切りました。オリヴィアさんのような実直で心優しい方と一緒なら、貴方も肩肘を張らずにいられると思ったのですよ」
「私としてはウルバノ嬢がお似合いだと思ったのだがなぁ」
「かのご令嬢ではリーンハルトには荷が重いでしょう」
「うぅむ。そうか。しかし子供のことは母親が一番わかっているものだ。ユージェニーが認めたのがオリヴィア嬢なら、文句などあるまい」
リーンハルトの眼前には、仲睦まじく我が子について語る両親。それは彼にとって目を疑う光景であった。
父は、妻を甘やかに見つめるような人だったのか。
母は、家族を慈しむ人であったのか。
俺は、この人達に温かく見守られていたのか。心から、愛されていたのか。
(……知らなかった…)
両親は義務感しか持たない冷血漢だと思っていた。
他人行儀な距離を隔てることが、互いの最善だと考えていた。
それがリーンハルトの独りよがりだと気が付けたのは、ひとえに燃え盛る緋色のおかげだ。鮮やかな色彩との出会いで、目が冴えたからに他ならない。
(オリヴィアが…繋いでくれたんだな)
見つけられないまま、自らの手で消してしまいそうだった家族の絆を。探し求めていた拠り所はすぐ傍にある事を、オリヴィアが教えてくれた。きっと彼女でなくては、知り得なかっただろう。
不覚にもリーンハルトの目頭が熱くなったのだった。




