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事態が二転三転した夜会にて、未だステラは血眼になり、髪を振り乱しながら無実を言い張っていた。極めて見苦しい姿ゆえ、彼女に恋慕していた令息達でさえ胡乱な目を向ける始末。埒があかない状況を打破してみせたのは、鷹揚と登場したウルバノであった。
「ステラ・バートンを拘束した後、裁きの場へ引き渡しなさい」
「!?離して!!私は何も悪いことなんてしてない!!」
「いいえ。貴女は窃盗、殺人未遂、著しい人権の損害という罪を犯したのです」
「証拠なんて無いくせにっ!」
「証人ならいますわ。貴女が雇った方々はもれなく全員、罪の告白をなさいましたよ?」
「嘘…嘘よ!そんなはずないわ!!この私を裏切るなんてありえないもの!!」
「残念ですこと。人を見る目が皆無でしたのね」
どんな状況下でも艶やかに微笑み続けるウルバノとは対照的に、ステラの顔が醜く歪む。
「決闘にはルールがあるのをご存知かしら。社交界は決闘場、なれど闘い方があるのです。貴女がしたことは立派なルール違反にあたります。退場は免れませんよ」
「うるさいうるさいうるさい!!ルールなんて知らない!!これは私と王子様の物語よ!!邪魔しないで!!」
「お話足りないご様子ですが、続きは裁きの場で存分にどうぞ」
憲兵に引き摺られ、会場から遠ざけられても、ステラの罵り声は聞こえ続けた。狂気の沙汰をまざまざと見せつけられた衆人は、顔色を悪くして黙り込むのであった。
種明かしをすればウルバノは前々から、ステラの本性に気付いていた。それこそオリヴィアに口を割らせるよりも早く、新星の令嬢に目を光らせていたのである。ステラが暗躍を始めてからは、気取られぬよう証拠を集めていたのだが、相手もそれなりに周到だった。しかしフローレス夫人との共闘の末、決定打を掴むことに成功した。捕らえた不届き者を尋問した後、ウルバノは後手に回るのを止め、乱れた秩序を正すべく動き出したのである。
その頃合いにダイアー公爵家の門を叩いたのがリーンハルトだった。彼は一通の手紙を握りしめ、憔悴しきった顔でやって来た。皺くちゃになった手紙は、サンディがリーンハルトに宛てたものだった。サンディは自ら追い出した妹の婚約者に、園遊会で起こった事件の真相を書いて送っていたのである。彼の個人的な不平もつらつら書いてあったが、最後は「まだ婚約は解消されていないのだから責任をもって護り抜け」と発破をかける言葉で締め括られていた。
手紙を読み終えたリーンハルトは、深い後悔に苛まれた。首飾りを"つけられなかった"理由を知り、激しい怒りと遣る瀬なさで目の前が真っ暗になった。何の躊躇いもなく犯人を殺せると思える程度には憤っていたし、それと同時に己が許せなかった。苦しんでいるオリヴィアを激情のままに責めてしまい、どれほど傷付けたのか。そのくらい恐怖で戦慄く彼女の常にない様子を見ればわかる事だったのに、冷静さを欠いたリーンハルトは気が付けなかった。ならばせめて大切な婚約者を苦しめた連中を完膚なきまでに断罪してやると誓い、協力を仰ぐためにダイアー邸へ足を運んだ次第であった。
『…婚約を解消したいと願われても、文句は言えないな』
それはリーンハルトの意思とは無関係に転がり出た嘆きだったが、ウルバノはしっかりと聞いていたのである。
『婚約破棄なさったのですか?オリヴィア様が?』
さしものウルバノも二人の婚約の行方については知らず、意外そうな声を出していた。億劫そうに首肯するリーンハルト見て、彼女は「少々妬ましいですわ」と宣った。
『今の話のどこに妬まれる要素がありましたか』
『だってとても愛されていらっしゃるのですもの』
くすくすと笑う麗人に、リーンハルトは思い切り怪訝そうな顔を向ける。
こちとら一方的に婚約破棄を突きつけられているのだ。どこに愛されている要素があるというのか。
『オリヴィア様は真面目な方ですわ。たとえお相手が誰であってもご実家のため、婚約を受け入れたことでしょう。お相手が偶々リーンハルト様だったというだけの話で、最優先すべきは侯爵令嬢としての責務とお答えになるような方。その方がですよ?今になって婚約破棄を申し出たのです。その意味が、お分かりになりませんか?』
地に落ちたオリヴィアの評判を、彼女自身の力で取り戻すのは不可能に近かった。だとすれば、他人の威光に縋るのが一番手っ取り早い。"稀代の美青年"なんて最適な人間が身近にいるのだから、利用したら良かったのだ。だがオリヴィアは、それを良しとはしなかった。リーンハルトでさえ自身の都合に合わせてふるう権威を、誰もが己の利益に変えようとする影響力を、オリヴィアは求めなかったのである。逃れ道を断つことで護れるのは彼女自身ではない。
リーンハルトは息を呑むと同時に、口元を手で覆った。
『オリヴィア様はご実家の体裁ではなく、貴方の名誉を守る事を優先させたのですよ』
『………あの馬鹿が…』
『ふふっ。たしかに馬鹿がつくほど、健気で可愛らしいお方ですわね。リーンハルト様もそういうところに惹かれたのでしょう?』
『…全てお見通しならば、何卒お力添えをお願いしたい』
『条件を提示しても?』
『払える代償なら幾らでも』
『あらあら心外ですこと。旧知の仲ですのに、常識外れな報酬を求めるとお思いで?』
『それは失礼しました。して、条件とは何でしょうか』
『諸々が済みましたら、オリヴィア様を貸してくださいまし。このところ、ゆっくりお茶もできていませんの。構いませんわね?』
『承知致しました』
深く考えずに頷いてしまった事について、リーンハルトは後から悔やむ事になるのだが、それはさておき。
『交渉成立ですわね。では、後始末は全てわたくしが引き受けましょうか。貴方はオリヴィア様のことだけを考えていてくださいな』
暗に戦力外通告をされた気がしたのは、思い過ごしだろうか。
そうして迎えた夜会当日。
ロス家にも招待状は届いていたが、そんなものは封も開けずに無視して向かう。
ステラが整えた舞台の裏でリーンハルトは息を潜めていた。少し離れた場所でも、オリヴィアのよく通る声ははっきり聞こえてきた。
───わたしの潔白は、わたし自身が知っているわ!!それで充分よ!!
充分な訳あるか。リーンハルトは心の中で言葉を返していた。けれども捨て身の覚悟で叫ばせた責任の一端は己にあると、彼は唇を噛んだ。本当はすぐにでも飛び出していって、オリヴィアを侮辱した奴等に拳を見舞ってやりたかった。怒りの気持ちを抑えるのが、これほど大変だったことはない。
─── あなた達に『信じてほしい』と請うたりしないわ!!
リーンハルトは請われたいと願った。離れていかないでほしかった。黙りこくるのは彼女に似合わない。文句でも嫌味でも何でも構わないから、オリヴィアの言葉が欲しかった。
一日千秋の想いを胸に、リーンハルトは孤独に闘う彼女の元へと一歩を踏み出したのだった。
"稀代の美青年"と"最上の麗人"が手を組めば敵無しである。万事予定通りに済み、オリヴィアの潔白は認められ、罪人は正しく裁かれた。一部始終を大勢に目撃させたのも計画のうちだった。大々的な演出により、オリヴィアの不名誉な噂はじきに風化するだろう。
だがしかし強力な二人をもってしても、箍が外れたように流れるオリヴィアの涙を止めるには至らなかった。ウルバノなどは早々に静観の姿勢をとっている。後を託されたリーンハルトは、拭っても拭っても溢れてくる雫を目の前にして困り果てていた。
「ごめ、なさい…っ」
「何を謝ることがある」
「大切にしたかったのに…壊してしまって…っ」
「馬鹿。替えがきく物なんかのために、お前が傷ついてどうするんだ」
「わたしにはっ、いっとう特別なものだったんです!」
「…っ、いくらでも贈ってやるから、もう気にするな」
「そんなに沢山はいりません…」
「お前な…忖度って知ってるか?」
「それにっ」
「まだあるのか!?」
「『信じる』と言ってくれたあなたをっ、一瞬でも疑ってしまいました…!」
大切な首飾りを奪われ、壊されてしまって悲しかった。
婚約を解消するしかないと思って、とても辛かった。
でも、何よりも苦しかったのは、リーンハルトを信じるのが怖いと思ってしまった事。いっそ呼吸を止めてしまえたら、どんなに楽だったか。
「ごめんなさい、リーンハルト様。ごめんなさい…っ」
謝るたびに、転がり落ちる雫も増えていく。すっかり涙の虜になってしまったオリヴィアには、どんな慰めの言葉も意味を成さない。
男は女の涙に弱いと言うが、リーンハルトはそれが顕著であった。何故なら彼は女性を泣かせた事などなかったからだ。とどのつまり、リーンハルトは泣いている女性を相手にするのがすこぶる不得手なのである。
「おい。どれだけ泣く気だ。どんどん不細工になるぞ」
「泣いてなくても、どうせわたしは不細工ですわよ…っ」
天邪鬼な彼らしいと言えばそれまでだが、言葉選びが最悪だ。ウルバノとしては意外な一面を見れて面白い部分もあるが、オリヴィアが憐れだという気持ちのほうが勝っていた。オリヴィアのためにもそろそろ助太刀すべきかと思考した時だった。
「ああくそっ!どうせなら怒ってくれ!」
「…んぅ!?」
痺れを切らしたリーンハルトが、オリヴィアの顎を掴んで唇を奪った。まさかの口付けに、会場内にいた女性達から黄色い歓声が上がる。
───パァンッ!!!
直後、乾いた音が盛大に鳴り響いた。またしても女性の声が上がるが、今度は悲鳴であった。オリヴィアがリーンハルトの頬を平手で引っ叩いたのである。
怒っていいとは言ったが殴れとまでは言ってない。目を剥きながら、リーンハルトは抗議した。
「痛った!?なにも叩くことないだろ!?」
「こっ…こん、こんな!公衆の面前でっ!!せっ、接吻するからでしょう!?わたし…初めてだったのに…っ」
オリヴィアの顔は首筋にかけてまで、熟れた林檎よりも赤く色付いていた。しかし口で文句を言いつつも、手は叩いてしまったリーンハルトの頬を労るように添えている。言ってる事とやってる事が滅茶苦茶だ。彼女がいかに動揺しているかが窺えよう。実際、オリヴィアは体内で沸騰する熱によって目を回しかけていた。
「………ふはっ」
真っ赤になって慌てふためくオリヴィアを、じっと見つめていたリーンハルトが唐突に破顔する。我慢できないといった風に噴き出した様は、あどけない子供のようで…またしてもオリヴィアの手が彼の顔面を捉えたのだった。
手の平を顔全体に押し付けられたリーンハルトは、自分の鼻が物理的に曲がったのを感じていた。細い手首ごと引き剥がしてから、オリヴィアに向かって苛立ちを露わにする。
「何もしてないだろうが!!」
「い、今のはわたしが悪かったですわよ!でもっ、でも…」
「なんだよ!」
「その、お顔は…他の人に見せたくないと、思ってしまって…つい」
皺くちゃになるほど固く瞑られた瞼と下向きに曲がった唇が、この時ほど愛らしく見えたことはない、とは一連の出来事を思い返したリーンハルトが語った台詞である。
「…それはお前もだ。この馬鹿」
勘弁してくれとばかりに、リーンハルトはオリヴィアの頭を自分の肩口に押し付けた。彼もまた、林檎顔負けの赤面になっていたのだった。
遠巻きに眺めていた人々には、二人の会話までは明瞭に聞こえなかったらしい。だが双方が照れながら抱き合う姿はばっちり目撃していた。固唾を飲んでからの大団円だったためか、観客はやがて拍手を送り始める。めでたいと祝うその口で、オリヴィアを非難していたというのに、調子が良いったらない。しかしながら、温かい祝福に包まれる二人は憤慨する余裕すら失っていた。居た堪れなさが最高潮に達していたのだ。
会場の真ん中から動けなくなった二人を救ったのは、やはりウルバノであった。
「後のことはわたくしが致しますから、ここは退いていただいて構いませんよ」
「えっ!?」
「…かたじけなく存じます。帰ろう、オリヴィア」
「えっ!?」
「ふふっ、オリヴィア様はご心配なさらずとも大丈夫ですわ。お隣の方から御礼をはずんで頂きますので」
夜会に招かれ、騒ぐだけ騒いでさっさと帰るなんて恥の上塗りではないのか。オリヴィアは赤みが抜けない顔のまま、二人の間で視線を交互に彷徨わせる。だが結局、ウルバノに言い含められてしまい、あれよあれよという間に来た道へと戻されていたのだった。
乗り込んだ馬車は違えど、同じタイミングで会場を後にしたはずなのに、何故かリーンハルトの乗った馬車が先にパチル邸に到着している。オリヴィアが降りる頃には、彼の方から父と兄への報告が終わっていた。
「おかえり。オリヴィア」
「本当によく頑張った」
サンディは見送った時と変わらない優しい笑顔で出迎え、メルヴィンは若干声を震わせつつ娘を褒めた。その後で「婚約の解消はしなくて良いな?」とやんわり尋ねられた。勿論、オリヴィアの答えは決まっている。
「はい。申し訳ありませんでした…伯爵夫妻にも、お詫びに伺いたいと思います」
「今夜は私が行こう。お前は日を改めて行けばいい。疲れただろうから先に休んでいなさい」
「そういう訳にはいきません!」
オリヴィアの都合でロス家を振り回してしまったのだ。詫びに参上せねば礼を欠く。
意地でもついて来ようとする娘に、メルヴィンは言った。リーンハルトの肩に手を置きながら。
「男と男の話し合いがあるのだ。そうだろう?リーンハルト殿」
「…謹んでお受けします」
「??」
「だから、今日のところは休みなさい」
「…わかりましたわ」
渋々引き下がったオリヴィアに代わり、今度はサンディが前に出て、父親が手を置いているのとは反対の肩を掴む。そこからみしみしと嫌な音が鳴っていたが、リーンハルトは我慢した。
「お手並み拝見させてもらうよ」
「………」
二度は無いぞと脅される気分を味わったリーンハルトは、頬を引き攣らせる。サンディは一見おっとりしているようで、実は食えない男だったのだ。とことん似てない兄妹である。
(拝見も何も、はなから認める気が無さそうだが…)
未来の義兄に加えて、義父からも説教を食らわなければならないリーンハルトは、どうしたって鬱屈としてしまう。まあ、婚約者の気持ちも考えず一方的に嫉妬をぶつけた罪は、それだけ重いということだ。少なくともパチル家の父兄にはそう思われているし、リーンハルトも自責の念に駆られている。
「……リーンハルト様!」
けれども、最大の被害者であるはずの彼女が歩み寄ってきて、声を大にするのであった。
「本当にっ、ありがとうございました!いただいた指輪、今度こそ絶対に手放しませんから!約束しますわ!!」
ひたすら真っ直ぐ紡がれる言葉達に、笑みを溢さずにはいられない。
リーンハルトは「やっぱりオリヴィアは、うるさくないとな」と軽口を叩いてから、人形のように整った顔をくしゃっと崩したのだった。




