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オリヴィア・パチルは踵から甲高い音を鳴らしながら、烈火のような緋色の髪を颯爽と靡かせる。ここが実家の廊下だろうと、他所の屋敷だろうと関係無いのだ。
これからオリヴィアは、ステラがあつらえた最後の舞台へと上がらねばならない。いつも守ってくれた家族も、レティも居ない。独りぼっちの惨めな夜会になるであろう。全て覚悟の上で、彼女は突き進む。
「お待ちしておりました。中へお入りくださいませ」
ドアボーイが恭しく頭を下げる。断頭台に行く人間は、今のオリヴィアに近い心境を抱くのかもしれない。
かつん、という踵の音がやけに大きく響いた気がした。
「……オリヴィア様…」
フロアの中心にはステラがいた。ステラだけでなく令息達が四人、彼女を囲うように立っている。生憎と彼らについては名前しか知らない。会場に集められた人間は固唾を飲んで見守りつつ、視線にはオリヴィアへの侮蔑を乗せている。大方、ステラがでっちあげた噂を鵜呑みにしているのだろう。そういう人々をわざわざ集めたに違いない。まさに四面楚歌だった。それでもオリヴィアの歩調には迷いがなかった。唇をへの字に曲げたまま、ステラと真っ向から対峙する。
相対するステラは、弱々しい声を出しながら眉を八の字に下げていた。彼女の手の中にある首飾りを見つけたオリヴィアは、眉を吊り上げて闘いの火蓋を切って落とすのだった。
「返しなさい。それはわたしのものよ」
数刻前、オリヴィアがパチル邸を発とうとする直前のこと。
顔の強張りが解けないオリヴィアを、メルヴィンは無言で抱きしめていた。それは言葉なき激励であった。サンディは馬車が出発する間際に妹へ耳打ちをする。
『オリヴィアの心のままに、話せばいいんだよ』
少し前屈みになって耳を貸していたオリヴィアは、瞬きを一つした後「わたしには、それしかできません」と返す。するとサンディは満足げに頷き、優しい兄の顔をして送り出してくれた。
社交界を敵に回しても、ほんの一握りの味方のために闘う。それがオリヴィア・パチルという令嬢であった。
「酷いです…オリヴィア様…これは、バートン家の家宝ですっ」
ステラがわっと顔を覆う。オリヴィアには、この令嬢のことがてんでわからなかった。リーンハルトが好きで婚約者に嫉妬しているのなら話はもっと単純だった。だが、ステラがリーンハルトに執着する理由は、好意とは違う禍々しい何かであり、常人の理解の範疇を超えている事をオリヴィアは感じていた。
もしステラが、リーンハルトを純粋に愛する人間だったなら、オリヴィアとて遠ざけるために対立することはなかった。彼が悲しい顔をしないでいられるのが一番だから。だけど、そうではないのなら、口を噤んでいる訳にはいかない。
リーンハルトがオリヴィアのために選んでくれた贈り物を、奪われたままにはさせない。
たとえ婚約者でなくなっても…大切な想い出くらいは手元に残す事を許してほしいと、誰とはなしに願った。
「いいえ。あなたが、わたしから盗ったのよ」
「違います…私、盗んでなんかいません!」
「あなたの嘘はもう聞きたくないわ。御託はいいから返しなさい」
オリヴィアはつかつかと近寄り、ステラの手からルベライトの首飾りを取り返そうとする。しかし、立ちはだかった令息達によってそれは阻まれてしまう。
「侯爵令嬢ともあろう人間が見苦しい!」
「賤しい盗人め!ステラに触れるな!」
「身持ちの悪い女は、流石にやる事が汚いですね」
「たかだか捻挫ごときでここまで怨むって…狭量すぎると思わないのかな」
掴まれた腕を勢いよく振り払ったオリヴィアは、好き勝手に喋る男達を鋭く睨みつけた。
「わたしは何も盗んでいませんし、移り気な女でもありませんわ。部外者は退いてください。わたしはステラ様と話をしに来たのです」
「ハッ!笑わせてくれる!お前が潔白である証拠は何処にあるんだ?」
「ステラ様は悪くないという証拠だって無いでしょう」
「貴様!よくもぬけぬけと…ここにいる全員がステラの味方だ!お前の味方など居はしない!潔く罪を認めろ!」
すう、とオリヴィアは深く息を吸う。腹の底に力を入れ、両足で床を踏みしめた。振り絞るのは勇気だけでいい。そうすれば大きな声は自ずと出てくれる。
「わたしの潔白は、わたし自身が知っている!!それで充分よ!!あなた達に『信じてほしい』と請うたりしないわ!!」
ワインレッドのドレスに身を包んだオリヴィアは、さながら火柱のようだ。真っ赤なルージュをひいた唇から、熱量の伴った強い言葉が放たれる。
「どれだけ罵られようとも事実は覆らない!!あなた達が作った嘘を、わたしが認めることは絶対にない!!」
ともすれば窓の外まで聞こえるような怒声だった。近くで聞かされたステラ達は鼓膜がびりびり痛み、その声量に気圧された。
「───情けないですね。オリヴィア」
その刹那。殺伐とした空気にそぐわない柔らかな声が背後からかかる。弾かれたようにオリヴィアが振り返れば、完璧な笑顔を浮かべたリーンハルトがこちらへ向かってきていた。
彼にも招待状が届いていたのか?いや、それよりも彼は今なんと言った?孤独な闘いを強いられている姿を"情けない"と馬鹿にしたのか…?
リーンハルトが一直線に歩いて言ったのは、オリヴィアではなくステラの所だった。オリヴィアはそれこそ情けなく目で追う事しかできなかった。
「貴女が持っているものを、見せてもらえませんか?」
「は…はいっ」
にこりと目を細めた"稀代の美青年"を前に、ステラはうっとりしながら首飾りを手渡す。その光景が、オリヴィアにはやけに遠く感じられた。心臓は煩いほど動いているのに、オリヴィアは指の一本も動かすことができず、呼吸も止まっていた。ちゃんと立てているのかさえ、怪しくなってくる。
大層なことを叫んだばかりなのに、彼のひと言でこんなにも掻き乱されて…なんと情けないのか。無様すぎて泣いてしまいたい。
オリヴィアがドレスを握りしめて涙を耐えている一方で、リーンハルトは受け取った首飾りを見下ろしていた。あんなに美しかった首飾りは変わり果てた姿になっている。繊細な金細工はひしゃげ、鎖は千切れて、宝石もいくつか失くなっていた。手荒な扱いを受けたのは明白であった。
彼は微笑みを崩さずに回れ右をすると、今度はオリヴィアの目の前に立つ。そして固く握られている右手を優しくほどき、その上にそっと首飾りを置いたのだった。
「……えっ…?」
オリヴィアはようやく返ってきた首飾りとリーンハルトを交互に見遣る。彼の顔には相変わらず人形じみた笑顔が張り付いていた。でも───
「自分のものを取り返すのに手こずるなんて、情けないですよ」
オリヴィアらしくない。そう続いた声色にだけは悪戯っ子みたいな響きがあり、その証拠に彼の口角がわずかに持ち上がった。それは、いつも彼がオリヴィアを「馬鹿」と言って揶揄う時の、無防備な雰囲気とよく似ていた。
リーンハルトの言葉の意味を飲み込むのに時間がかかったのはステラも同様だった。しかし、彼女の方がオリヴィアよりも一寸早く口を開いていた。
「えっと…リーンハルト様?そのネックレスは、私の…」
「家宝、と言いましたか?」
リーンハルトはオリヴィアの手を握ったまま、体の向きを変える。
「はい!バートン家に代々伝わる大切なものです!でもオリヴィア様に、壊されてしまって…うっ…うぅ…」
啜り泣くステラはいたいけで、同性であっても抱き寄せて慰めたくなる様だった。だが、リーンハルトはそんな彼女を前にしてもただ綺麗に笑っている。
「他家を貶めるのは不本意ですが、硝子玉を家宝と崇めるとはバートン家の格が知れますね」
明け透けな台詞に、その場に集う誰もがぎょっと目を丸くした。無論、オリヴィアもであるが、一番大きく目を見開いていたのはステラだった。
「!?そ、そんな…だってこれは…っ」
「誰かから、価値のあるものだとでも教えてもらったのですか?」
微笑みながら、リーンハルトが確実に追い詰めてくるのを肌で感じたステラは、矛先を彼ではなくオリヴィアに向けた。と言ってもほんの一瞬、視線で射抜いただけだ。『そのネックレスの価値も分からない人は、リーンハルト様に相応しくないわ』と言っていたのはお前だろう、と。
ひと瞬きにも満たない攻撃の瞬間を、リーンハルトは見逃さなかった。
「実に哀れですね」
「なん…で、そんな酷いことを仰るんですかっ?」
ぽろぽろと泣いてしらばっくれるステラを観察していたリーンハルトから、とうとう笑みが消える。"稀代の美青年"の仮面は削ぎ落とされ、代わりに浮かんできたのは、あからさまな憎悪だった。彼の怒りはとっくに頂点へと達していたのだ。
「…俺がこのネックレスを渡した人は、たとえ硝子玉でも嬉しいと言ってくれた」
「え……」
「彼女は大切にするとも約束してくれた」
「………」
「オリヴィアは、自分への贈り物を粗末に扱う人間ではない!」
全員が言葉を失うなか、リーンハルトは牙を剥いて吼える。
「これは俺が、俺の婚約者に贈ったネックレスだ!!酷い嘘吐きはお前だ、ステラ・バートン!!」
時の人であるリーンハルトが高らかに宣言すれば、疑いの目はオリヴィアから外れ、徐々にステラへと向けられていく。ステラの盾代わりだった令息達も、沈黙せざるをえなかった。贈り主が品を見間違えるはずがない、しかも"あの"リーンハルトが、だ。言葉の信憑性が桁違いである。唯一の例外はステラだった。彼女は泣きじゃくりながら、尚も違うと主張していた。
「そんな…きっと何かの間違いです…!」
「俺が選んで贈ったものなのに、見間違えるとでも?」
「だ、誰にでも間違いは…」
「だったら、この宝石が何か言い当ててみろ。産地もだ。家宝ならば知っているはずだろう?」
「っ………」
「こんなお粗末な嘘で大勢を騙したのは大したものだが、詰めが甘すぎる」
「やめてっ!!私の王子様はっ!!そんな酷い事を言わない!!」
周りが作り上げた理想像は、リーンハルトを長らく辟易させていた要因だ。その最たる台詞をステラは吐いたのである。
彼は笑顔の仮面を被り直し、無慈悲に突き放す。ステラの理想なぞ何の利用価値も無い。下らないもののために繕う仮面すら無駄に感じる。
「貴女の王子様なんぞ、俺の知った事ではありませんね」
嫌味ったらしいほどに爽やかな笑みを浮かべたリーンハルトは、もう話すことはないとばかりにステラを視界の外に追いやった。その後は、完全に硬直しているオリヴィアだけを見つめて、遠慮がちに名前を呼ぶ。
気遣わしい声音に反応したオリヴィアは、おずおずと視線を合わせた。
「オリヴィア……もう二度と、血迷ってくれるなよ。お前の婚約者は俺だ」
縋るような双眼に射抜かれて息を呑んでいたら、オリヴィアの左手が持ち上げられた。リーンハルトは至極優しい手付きで、彼女の薬指に指輪を嵌める。シャンデリアの下で真紅に煌めく宝石はレッドスピネル。受けた光の分だけ澄み切った緋色を輝かせる宝石は、まさしくオリヴィアを表しているようだった。
半ば呆然と薬指を凝視しているオリヴィアを、リーンハルトは自身の腕の中に閉じ込めた。それからゆっくりと耳元に口を寄せて囁く。オリヴィアにしか聴こえない声は、痛いほどに胸を締めつける切ないものであった。
「…何も知らずに責めて悪かった。辛い時に助けてやれなくてすまなかった。幻滅しただろうが、どうか離れていかないでくれないか」
オリヴィアは辛うじて「はい」と口を動かしたが、まともな音になったのかわからなかった。喉の奥から突き上げてくる塊を、押し戻すので精一杯だったのだ。だから何度も何度も頷いて彼に応えようとする。
「……なんで…なんでなの…っ?」
呪詛の如く呟かれる独り言にリーンハルトが振り向けば、瞳を濁らせたステラがふらりと進み出ていた。彼は狂気に取り憑かれた人間を婚約者に近付けさせまいと、腕に力を込める。
「なんで悪役が、王子様の腕の中にいるの…?」
ステラは目の前の現実が到底受け入れられなかった。だって絵本のお話と違う。こんな結末は全然違う。王子様に守ってもらうのは主人公。貴重な首飾りも、永遠を意味する指輪も、身に付けるべきなのは可愛くて優しい私のはず。その醜女じゃないのに。
「私の王子様なのに、なんで信じてくれないの?」
呆然と投げかけられた問いに対し、リーンハルトは間髪を入れずに断言した。
「俺はオリヴィアを信じる」
凛と告げられた言葉が、この上なく甘美な音色となってオリヴィアの心を打つ。周囲へ見せつけるかのように抱擁されていた彼女は、リーンハルトの腕の中で滂沱と涙を流すのだった。




