22
醜聞が広まったためか、オリヴィア宛に届く手紙は激減した。招待状の類を寄越してくれるなとは思っていたが、こういう形で減ることになるとは。ただただ苦々しい気持ちでいっぱいだった。すっかり小さくなった手紙の束を整理していたオリヴィアは、慣れ親しんだ名前を見つけて瞬いた。
「フレッド…?」
新婚真っ只中であるはずの幼馴染が、いったい何の用だろうか。近況報告という名目の惚気だったら、申し訳ないが返事を返す気になれない。そんなことを考えつつオリヴィアは封を切った。
「お嬢様。紅茶をお持ちしました」
茶器を持って厨房から戻ってきたレティは、黙々と手紙を読む背中に声をかける。手際良く準備しながら、レティはお礼の言葉が返ってこない事を怪訝に思い、もう一度「お嬢様?」と呼びかけた。
「…ああ、紅茶ね。ありがとう」
ゆっくりと振り向いたオリヴィアは、変哲もない顰めっ面をしていた。しかし、何故かレティは胸騒ぎがしたのである。毎日のように見てきた面持ちなのだが…色が失われているというか。オリヴィアが何を思っているのかが、まるで見えてこないのだ。こんな事は今まで無かった。
「レティ。あなた、何か願い事はある?」
「えっ?ね、願い事ですか?」
「レティにはたくさん助けてもらったわ。あなたが居なかったら、どうなっていたかわからない。だからお礼がしたいの。何でもあなたが望むことを叶えるわ」
傾けていたティーカップから視線を上げたオリヴィアの眉間に、常在している皺は無かった。だからといって微笑んでいる訳でもないが、心をどこかに置いてきたような表情をしていた。それがまた、レティの妙な不安を煽る。
「えっと…本当に何でもいいんですか?」
「ええ」
「必ず叶えてくださいますか?」
「二言は無いわ」
レティのことだから、これ幸いとばかりに被虐欲求を満たすかと思われた。というより、それしか無いのではと誰もが考えるだろう。ところが、彼女が口にしたのは全く違う願いだった。
「これからもずっと、何があっても、お側においてください」
しばし呆気に取られた後で、オリヴィアはそんなことでいいのかと確認をとる。その質問に対するレティの答えは、屈託のない「はい!」というものだった。
「それが私の、一番の願いです!」
「…ありがとう」
「欲張っていいのなら、願い事はまだありますけど」
「この際だから洗いざらい言いなさいよ」
「本当ですか!?じゃあ言います!二番目はお嬢様とご家族皆様の幸せです。三番目がお嬢様に踏み付けられて『汚物に触ってしまったわ。舐めて綺麗にしなさいよ』と塵を見る目で言われる事です!」
「あなたはいつも最後で台無しにするのね」
オリヴィアの顔は顰めっ面に戻ってしまったが、今度はきちんと感情が浮かんでいて、レティはやっと胸を撫で下ろすことができた。
だがしかし、安堵するのは時期尚早だった。その訳は、お父様に話があるからと言い、部屋を出ていったオリヴィアが執務室にて「修道女になるための手続きをしてほしい」などと爆弾発言をかますからである。
「修道女!?」
「つきましては、リーンハルト様との婚約も解消という運びに…」
「待て待てオリヴィア。お前には絶対に向いてないぞ。早まるんじゃない」
いきなり世を捨てると言い出した娘に、メルヴィンは大混乱もいいところだ。椅子から転げ落ちなかったのは奇跡かもしれない。
「思い詰めた顔で何を言うかと思えば…いったいどうしたのだ」
「…丸く収めるには、それが一番だと考えました」
腹のあたりで握りこんだ両手は、彼女の肩までも震わせていた。
事実無根であっても、社交界には"オリヴィアが不貞を働いた"という噂が広まってしまった。フレッドからの手紙には、その厳しい実情が書かれていたのだ。このまま何もしなければパチル家にも、婚約しているロス家にも損害を与えるのは避けられない。だがオリヴィアが神に身を捧げることでリーンハルトとの繋がりは断たれ、娘を勘当したとなればパチル家への批判も多少は緩まるだろう。
「迷惑をかけてごめんなさい。みっともない娘でごめんなさい」
泣き濡れてはいなかったものの、オリヴィアの声は可哀想なくらい頼りなかった。堪らずメルヴィンは娘に駆け寄ると、愛しい子の頭を抱き寄せる。
「悲しいことを言うんじゃない。心配しなくていい。お前を迷惑などと感じた事は一度としてない。大丈夫だ」
「でも…」
「子は親に苦労をかけるものだ。かけてもらわねば困る。このくらいが丁度良いんだ」
慈しむように頭を撫でる大きな手が、オリヴィアの涙腺を弱め、視界がぐにゃりと曲がった。
「ありがとうございます…っ、修道女は諦めます」
「わかってくれたか」
「でもっ、婚約は解消していただけませんか!」
がばっと顔を上げたオリヴィアは、限界まで眉根を寄せていた。けれど怒っているようには見えない。ひたすらに苦しそうであった。
メルヴィンは娘の肩に手を置き、静かに問うた。
「お前は彼が嫌いか?」
一瞬、オリヴィアの喉が引き攣った。少しの沈黙が下りた後に、薄く開いた唇から零れたのは囁きのような音だった。
「…っ、そうではないから、離れたいのです…」
切なくなる答えに、メルヴィンは「そうか」とだけ言い、もう一度娘の頭を撫でた。
オリヴィアが自分の部屋に戻るとレティは居なくなっていた。多分、休憩に行ったのだろう。茶器は片付けられているが、机の上はそのままだった。広げられた手紙が嫌でも目に入り、オリヴィアは顔を背けてしまいたくなる。しかし他人に片付けさせる訳にもいかない。彼女は僅かに逡巡してから、指先で摘んだ手紙を丸め、おもむろに屑入れへと投げた。フレッドの手紙を捨てたのは初めてだった。
手紙には現在の社交界の様子と、オリヴィアを咎めるような言葉が書いてあった。フレッドにそんなつもりは無かったのかもしれない。だが手紙を読んだオリヴィアは、ひどくショックを受けたのだ。
『君のことだから何か誤解があったのだと思うけど、婚約者を不安にさせるような事をしてはいけないよ』
彼は幼馴染を案じて書いたのだろうか。事情を知らないのだから仕方がないと言えばそれまでだが、しかしこれではオリヴィアが悪いみたいな言い方だ。
(あなたは今まで、わたしの何を見てきたの?わたしが簡単に浮気をするような人間だと思うの?)
面と向かって問い正してやりたい気持ちが込み上げてきた。それと同時に涙が溢れそうだった。気心の知れた幼馴染なら「悪意ある憶測など気にするな」くらい言ってほしかった。逆の立場だったとしたら、オリヴィアは噂なんてくだらないと一蹴したはずだ。ジリアンを一途に想っていた彼をよく知っているから、赤の他人より幼馴染を信じるに決まっている。オリヴィアはほんの一握りの味方から、裏切られたような心地になった。
だが裏を返せば、親しい間柄の人間にそう言わせてしまうほど、現実は酷い有り様だという事。もしかしたらリーンハルトも…それに思い至ったオリヴィアは、一気に血の気を失った。心臓が冷たい手で握り潰された錯覚まであった。『信じる』と言ってくれた唯一の人から疑いの眼差しを向けられたら、もう立っていられない気がした。だからオリヴィアは婚約破棄に逃げたのだ。彼の名誉を守るという大義名分を隠れ蓑にして、オリヴィアが守ろうとしたのは自分の心の均衡なのかもしれない。後始末を丸投げすることになってしまい、父には本当に申し訳ないと思う。故に世俗を捨て、悩みの種は消えようと思ったのだが、あんなにも愛情深く引き留められると我を通すのが難しかった。弱い自分がほとほと嫌になるが、同時に素晴らしい家族に囲まれたと実感し、ひび割れそうな心が救われた気がした。
自身の婚約がどうなったか、オリヴィアは父に尋ねることはしなかった。進展があれば父から話があるだろうし、詳細を聞く勇気が出なかったというのもある。
(一緒に出かけることも、お話することも、もうなくなるのね)
そう考えるとオリヴィアはちょっとだけ可笑しくなった。だって、言い合ってばかりだった日々を懐かしく思う時が来るなんて考えもしなかった。些細なことですぐ口論になり、揶揄われたらむきになって騒いで…他愛もない出来事達が、胸を締め付ける。「馬鹿」と言われるのは腹が立ったけれど、ふと垣間見せる無防備な表情は嫌いじゃなかった。いや、むしろ好ましく思っていたのだと、今さらながら知った。
(なんだか…息がしにくいわ…)
罪悪感に押し潰される感じとは少し違う。初恋が散った時の痛みとも違う。鉛みたいに重たいものが胸のあたりに沈澱して、オリヴィアの心臓を圧迫している。この物思いはいったい何だろうか。
やがて鉛は胸から全身に回ったのか、翌日になるとオリヴィアはこめかみを押さえていた。心の状態でこんなにも体調が左右されるとは、病は気からという格言は間違いではないらしい。しかし、気を抜けばぼんやりしてしまう頭が、強制的に揺さぶられることとなる。
オリヴィアに会いに、リーンハルトがやって来たのだ。使用人達では殺気立った青年を止める事ができなかった。
「どういう事だ」
彼は挨拶も無しにオリヴィアに詰め寄った。壁際に追い込まれたオリヴィアは、怯えたように彼を見上げていた。リーンハルトはじれったそうに舌打ちをする。短くも鋭い音により、あの日の恐怖がまざまざと呼び起こされた。何も無いはずの首元が苦しくて、オリヴィアは無意識のうちに喉へ手を伸ばし、そこを守る動作をしていた。引き結んだ唇の内側で歯がかちかちと鳴り続ける。
「どうしていきなり婚約破棄などと…!疚しい事でもしたのか!?」
よくよく考えてみれば、不貞を働いたとの噂が立った直後に婚約を解消したら、噂は本当ですと認めているようなものであろう。リーンハルトのためを思って、とは伝わりにくいかもしれない。色んな事が重なりすぎて、オリヴィアも冷静ではなかったのは認める。
だとしても。
そうだとしてもだ。
リーンハルトにだけは、彼の口からだけは。オリヴィアを疑うような台詞は聞きたくなかった。身勝手な願いなのは重々承知だが、『信じる』と言ってくれた言葉を覆してほしくなかったのだ。
(でも…あなたは、わたしが『疚しい事』をしたと思ったのね…っ)
彼から発せられる隠そうともしない怒気に、オリヴィアは愕然とした。
長い時間を過ごした幼馴染も、生涯の約束をしていた相手も、オリヴィアではなくステラの流した嘘に傾いたのだ。その現実に打ちのめされて、崩折れてしまいそうだった。
「くそっ…!黙るなっ!!」
ひときわ尖った怒声が、オリヴィアを刺し通す。黙っていられる性分ではないくせに、この時ばかりは全然舌がまわらなかった。唇は意味もなく戦慄くだけで、ちゃんと話したいと思えど、首元を縛る恐怖が喉を詰まらせる。
今は、男のひとの大きな声が恐い。怒りの滲む表情が怖い。目の前にいるのがあなたと分かっていても、こわい。
あなたをしんじたいのに、こわいとおもってしまう。
「おい!!オリヴィア…ッ」
「そこまでにしてくれないかな。君は以前に婚約を破棄したいと言ったことがあるだろう?なら、今度は妹がその気になってもいいじゃないか」
何も言えずに震えるオリヴィアを背に庇ったのは、サンディであった。いつのまにか駆けつけ、二人の間に割って入った彼は、リーンハルトの腕を掴んで妹から引き剥がす。話は済んでいないため、リーンハルトは抵抗しようとした。しかし、捩じ切られそうな力で掴まれた腕はびくともせず、退室せざるを得なかった。入れ替わるようにして、青褪めたレティが部屋に駆け込むのを見た時、リーンハルトの荒んでいた感情はほんの少しだけ落ち着いた。だがそれは、後の祭りであった。
パチル侯爵の長子であるサンディは、妹が騒ぎを起こしてもにこにこしながら宥める穏やかな男だ。彼の落ち着きっぷりはいささか心配になるほどで、果たして彼は一度でも怒った事があるのだろうかと、使用人達の間では囁かれたりしていた。そんな男が今現在、静かに激怒しているのである。運悪くその場面に遭遇してしまった使用人は冷や汗が止まらない。
「私は君に期待していたんだ。リーンハルト殿の威光にかかれば、オリヴィアに纏わりつく噂ごと払拭してくれるとね」
リーンハルトを屋敷の外まで引っ張り出したサンディは、口振りこそいつも通りに話し始める。だが彼の言葉には、オリヴィアとは比べ物にならないほどの鋭利な棘が含まれていた。
「だから婚約に二の足を踏んでいた父を後押ししたんだよ。しかし、それをとても後悔している」
サンディはすうっと目を細める。
「私の見込み違いで妹を傷つけてしまった。猛省しなければならない。今後、オリヴィアが良いと言うまで、君に我が屋敷の門は叩かせない。手紙も即刻破り捨てる。私はいつだって可愛い妹の味方だ。君の味方じゃない。無駄に整ったその面を見ていたくないから、さっさとお帰り願うよ」
一方的に押し切られたリーンハルトは、満足に言い返せないまま帰りの馬車に詰め込まれていたのだった。
パチル家から追い出され、すっかり力が抜けてしまったリーンハルトは、背もたれに体を預けた姿勢のまま動くことができなかった。
パチル家当主からの手紙を見せられた時、最初は何が書いてあるのか理解することを脳が拒んだ。やや遅れて、婚約を解消したい旨が書かれているとわかり、頭を殴られたような衝撃を受けた。
リーンハルトも、オリヴィアに関する不愉快な噂について耳にはしていた。仮に浮気相手があの幼馴染だったなら、馬鹿みたいに狼狽えたに違いない。だが聞くところによると相手は一介の守衛だというではないか。リーンハルトの知っているオリヴィアは、道理から外れた行いなどしない。義理堅い女性なのだ。そうやって鼻で笑った矢先の事だった。婚約の解消を願い出る書簡が届き、リーンハルトは情けないほど大きく揺らいでしまった。
何故、婚約破棄を望むのか。このタイミングで。嘘だろう。嘘だと言ってくれ。
リーンハルトは父親のアルベールに質問を畳み掛けた。けれど、父も困惑しているようであった。考え直してもらえるよう説得にかかるとは言っていたが、家柄としてはパチル家が上だ。あちらが強気の態度に出たら、リーンハルト達は頷くよりほかに術がない。長引けば、押し負けるのが目に見えていた。
動揺が収まらず、焦燥に駆られるまま、リーンハルトはオリヴィアのもとへ足を向けた。ただひと言だけ、否定してくれれば良かった。いつもみたいに唇をへの字に曲げて、ご機嫌斜めに「あり得ませんわ!」とでも返事をしてくれれば、それだけで安心できたのに。
─── わたし、嘘は言いませんから。
その約束通り、彼女の言葉にはいつでも裏が無かった。リーンハルトが知る誰よりも、正直者だった。不満があればすぐ顔に出るし、嫌な事は嫌と言う。嬉しい事も素直に嬉しいと口にできる人間だった。だから彼女が噂は真っ赤な嘘だと言うなら、それが真実なのだ。
なのに、オリヴィアが選んだのは沈黙だった。
大切にすると言ってくれた首飾りも、外されていた。
それが答えなのか。最早ただのひと言さえ、リーンハルトには与えてくれないのか。
(どうして。どうしてなんだ…っ)
オリヴィアを何人にも奪われたくない。リーンハルトの胸中にあったのは、その一心だった。
目覚まし代わりの大声が響かないため、パチル侯爵家の使用人達は揃いも揃って、調子を狂わせていた。加えて、元気が取り柄のお嬢様の食が少し細くなっているので、気が気でないのである。首まわりに触れるものに対しての恐怖心は悪化したようだし、レティはひどく気を揉んでいた。
労りの声をかけられても、オリヴィアは曖昧な返事しか返せなかった。日がな一日、肩を落とす彼女は己の感情が軋む音を聴き続けている。耳を塞いだところで内側から生じる音には効果が無い。軋むままにしていたら、そのうち真っ二つに割れてしまいそうだった。
(おかしいわね。涙も出ないなんて。本当は悲しくないのかしら)
悲しいからといって必ずしも泣ける訳ではない。悲しみが大きすぎると、心が処理しきれずに麻痺してしまう事もある。内心で自嘲するオリヴィアは、その事を知らずにいた。
(なんで…なんで立ち直れないのかしら)
初恋が終わりを告げた時は、一晩で事足りた。ふた粒の涙を流して終わりにできた。
どうして今、同じようにできないのだろう。涙は流れていないのに、何日経っても胸の疼きが治る気がしない。不安定な情緒のせいで、考えを巡らせるのもままならなかった。
部屋に閉じこもってばかりでは、気分が塞がる一方だった。かと言って外に出るのも憚られ、オリヴィアは適当な理由をつけて、屋敷内と庭を歩き回ることにした。廊下でメイドとすれ違えば明るい話題を振ってくれたし、厨房の近くを通りかかれば料理人達が味見との名目であれこれ食べさせてくれた。庭師から貰った花は両手でも抱えきれず、散歩に付き合っていたレティが半分請け負った。
「こうも多いと飾る場所に悩むわね」
「でしたら湯殿に浮かべてみてはいかがですか?」
「そんな贅沢をしてもいいのかしら」
「贅沢ってお嬢様は侯爵家の…」
「夜会だと!?正気で言っているのか!サンディ!!」
執務室の前を通り過ぎようとした二人であったが、メルヴィンの怒鳴り声に思わず足が止まった。ぎょっとしながら目配せし合う。
「お言葉ですが父上、釈明の場を設けなければオリヴィアの立場は悪いままです」
「だからあの子が傷付くのを黙って見ていろと!?お前はオリヴィアが泣きを見ても、心が痛まんのか!」
「もうとっくに痛んでますよ。ですが、私の妹は虐げられて終わる人間ではありません」
話が見えないものの、オリヴィアのことで意見が対立している事だけは確かだった。聞き耳を立てるだけだったオリヴィアは意を決して執務室の扉を叩いた。
「…お父様、お兄様」
「オリヴィア!?」
「父上の声が大きいからですよ」
「地声だっ!」
「あの、わたしに夜会のお誘いが来ているのですか?」
「……うむ」
オリヴィアの質問に対し、メルヴィンの返事はどうにも煮え切らない。
「わたしにだけ…ですか?」
「…そうなのだ」
それは明らかに変だった。パチル家が婚約破棄を願い出たことはまだ両家の、しかも当事者しか知らないはずである。実際、社交界では噂にもなっていない。もし情報が漏洩していたら、突風よりも速く駆け巡っていただろう。相手が相手だからだ。
だが先刻届いた夜会の招待状には、「婚約者様とご一緒に」といった文言が一切書かれていなかった。本来なら招待客の付き人のために、対となる招待状が同封されているものだがそれも無い。つまり意図的にオリヴィアだけを誘っているのだ。舞踏が含まれる夜会に、婚約者がいると知りながら片方しか招かないのは無作法であるにも関わらず。
「主催は何方が?」
「王家の遠戚にあたる貴族だ」
それほど高貴な人間が無礼千万の招待状を寄越すなんて、悪巧みを仄めかすどころの話ではない。罠ですよと教えているのと同義である。
オリヴィアの脳裏にステラが呟いた脅し文句が蘇る。
(月夜ばかりと思うな…ね)
十中八九、ステラが裏で糸を引いているのだろう。だとしたら彼女の影響力には舌を巻く。自分の言葉を信じてもらうのが非常に難しいオリヴィアからすれば、誰が相手でも味方につけてしまうステラの能力には純粋に感服する。けれど、ステラへぶつけた発言は撤回しない。彼に相応しいと認める気は更々無い。
「…出席のお返事を出してください」
「オリヴィア!行く必要はない!!こんなもの無視すれば良いのだ!」
父親に行くなと制止されても、オリヴィアは首を横に振るだけだった。
「言われっぱなしは癪ですもの。お兄様の仰る通り、正々堂々と釈明してきます」
「しかしだな…」
「九十九人に無視されたって、一人は聞いてくれるかもしれない。言わなければ、届く声も届かない───昔、レティにそう豪語したんです。ここで黙りこくっていたら、わたしは嘘吐きになってしまいますわ」
娘の静かな声音に、メルヴィンは押し黙る。
(ああ…この子は強いな。幼少の頃から肩身が狭かったろうに、決して腐ったりしなかった)
オリヴィアは大口を開けて怒ることはしても、笑うことはしない。
「このお屋敷にも届くくらい、大きな声で叫んできますから」
笑う時はこうやって、小さく小さく唇の端を緩めるのだ。




