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暴力表現がありますのでご注意ください。
近頃、どうにも体調がおかしい。オリヴィアは起き抜けの頭を悩ませていた。しかし悪寒もしないし、喉も痛くないし、鼻も詰まってない。風邪らしい症状はみられず、動き回るのに何の支障も無いのだ。ただふとした瞬間に、そう例えばルベライトの首飾りを身に付ける時とかに、いきなり不整脈を起こしたりする。とにかく、今までは無かった症状が身体に現れているのである。
(話せば…心配をかけるわね)
オリヴィアの母である侯爵夫人が病弱なためか、パチル家では体調不良に関して非常に敏感なところがある。オリヴィアが料理を一皿残すだけでも、一大事のように扱われるのだ。安易に「具合が良くない」などと言おうものならどうなることやら。
(騒ぐほどのことじゃないわ、きっと)
オリヴィアはそう結論付けて、この件は己の胸だけに秘めておくことにした。リーンハルトにも言われたが、頑丈なのが取り柄なのだ。病は気からと言うし、単なる勘違いくらいに考えておこう。
それより目下の問題は、後ろでベッドメイキングをしているはずのメイドが、枕の匂いを嗅いでいる事である。こっそり吸っているつもりなのか知らないが、鏡台にばっちり映り込んでいるのだ。オリヴィアはぐりんと振り向き、朝一番から大声を張り上げる。
「レティーッ!!ハンカチだけに飽き足らず、何やってるのよ!!」
「つい出来心で!下心しかありません!」
「この正直者!犬みたいな真似をしないで!!」
「ああっ申し訳ありません!私は躾のなってない駄犬ですぅ!」
「ひっ…!謝りながら悦ばないで!!ちょっと!床に転がったら汚いでしょう!?」
「オリヴィアーッ!!朝から何を騒いどるかー!!」
三者三様の怒号が飛び交う中、パチル家の使用人達は「今日も平和だなぁ」「もはや目覚まし代わりだよなぁ」「これを聞かないと始まらないよなぁ」とのんびり欠伸をしていた。こうして始まりを告げた一日は、誰もがいつもの日常になると信じて疑わなかったのである。
たびたび不整脈を起こすようになったオリヴィアの心臓が、また一つ大きな音を立てた。しかしそれは、嫌な予感に見舞われた際に聴こえる不穏な音色であった。来客だというので玄関まで足を向けてみれば、可憐に微笑む令嬢が立っていた。
「ご無沙汰しております!オリヴィア様!」
「…ご機嫌よう。ステラ様」
問い詰めたい事はあるが、証拠も無いのに犯人と決めつけるなと怒ったのはオリヴィア本人だ。あの首飾りは誕生日祝いに贈られたというステラの言い分の真偽がわからない以上、オリヴィアも強くは出られない。ひとまず応接間に入ってもらうと、事情を把握しているレティが警戒する素振りをみせた。が、何も言いはせずに黙々とお茶の準備を始める。盗まれた首飾りはステラが持っていた事を知る使用人はレティだけだ。同僚達は普段通りに仕事を続けている。
「今日はどうなさったのですか」
「あっ、はい!オリヴィア様は、こちらの招待状を受け取っておられますか?」
ステラが見せてきたのは、明後日に開かれる園遊会の報せだった。主催するのが高位の夫人とあっては、オリヴィアとて理由もなく断ることができず、参加の返事を出していた。
「…ええ。それが何か?」
「オリヴィア様さえご迷惑でなければ、近くにいさせてもらえないかと…」
平静を努めるつもりが、余計にオリヴィアの口調を棘のあるものにしてしまっていた。だがステラは態度を変えないので、気付いているのかいないのか判断がつかない。
「社交の場に憧れはあるのですが、未だに慣れなくて…失敗してしまわないか、いつも不安なんです。でも、見ず知らずの私を助けてくださったオリヴィア様と一緒なら、きっと楽しめると思います」
無垢な天使の笑みが、今となっては少し恐怖を感じる。庇護を掻き立てる瞳を振り切るのは良心が痛む。その抗い難さが恐ろしい。
「…構いませんが、わたしが助けになれると約束はできませんよ」
「そんな!おそばにいてくださるだけで充分です!ありがとうございます!」
「では当日、会場に入る前に待ち合わせましょうか」
「はい!よろしくお願いします」
ステラの屈託のない笑顔が、オリヴィアはいつからか苦手になっていた。それでも一度口から出した約束は守らなければならない。
ステラが帰ってから父に相談したところ「レティを連れていきなさい」との勧めがあった。外出の際に従者を付けるのはマナー違反ではないし、むしろ身分の高い者なら普通の事である。今までオリヴィアが茶会に行くにも独りだったのは、ひとえにレティの経験不足が理由だ。屋敷での雑務と、主人の同伴では仕事の内容が全然違う。だがこれを機に同伴させる事が決まった。
「必ずお嬢様をお守りします!」
話を聞いたレティは拳を握って息巻く。奇行は目に余るものの、仕事に関しては信頼を置いているため、オリヴィアは「そんなに気負わなくていいわよ」と言うのだった。
園遊会と一口にいっても規模は様々だ。王族が取り仕切る公的なものや、オリヴィア達が招かれたような私的な集いもある。今回の園遊会は言ってしまえば、立派な庭園を所有している貴族の自慢大会だった。しかしながら茶会と同様、これも立派な社交場である。美しい景観と軽食を楽しみつつ、情報交換をはじめ水面下の争いが起こる戦場なのだ。当然、オリヴィアは悪い意味で格好の的であり、こういう所を渡り歩くのは不得手であった。はっきり言ってステラを手助けする余裕など無い。オリヴィアは顰めた眉根をそのままに、隣の令嬢を流し見た。待ち合わせの時刻ぴったりに現れたステラは、会場へ続く門の前であたふたしていた。
「こういう場では、どうするのが最善なんでしょう…?」
「落ち着いてください、ステラ様。まずは主催者への挨拶です。わたしの後に続いてくだされば大丈夫ですから」
「は、はい!わかりましたっ」
主催者の意向で、今日この場にいるのは令嬢のみだ。しかし令息が居なくとも牽制は行われる。女ばかりが集まれば、会話が絶えることなどまずない。そこへ噂の獲物であるオリヴィアとステラが連れ立ってやって来たのだ。周囲をざわめかせるには充分と言えよう。
だがオリヴィアにとっては何度も通ってきた道である。何度経験しても処世術を会得できないのが彼女たる所以だが、伊達に揉まれてきていない。こうなるであろう事は、了解の返事をした時点で予測済みだ。オリヴィアはあからさまな視線や小声に微塵も興味を示さず、無愛想な面構えで主催者の元へと一直線だった。
かたやステラは自信なさげにおどおどしており、オリヴィアとは対照的であった。ちぐはぐな二人に好奇な視線は集まる一方だ。
「通常、格下の者から話しかけるのは無礼とされます。ですが本日は私的な集まりですから、それほど厳しく指摘されることはないと思いますよ。気が引けるというのであれば、わたしが仲介人になりますわ」
「オリヴィア様…っ!ありがとうございます」
たとえ天使の微笑みが苦手になっても、オリヴィアは約束をきちんと果たしていた。ステラが困らないよう先読みしつつ、指示を与えている。しかしどうしても声の強張りは抜けなかった。後ろで控えるレティは主人の緊張に気付いていたが、ステラは何も感じていないのか嬉しそうに頬を染めていた。
来場からそれなりの時間が経つ頃、オリヴィアの横にステラの姿はなかった。声をかけてきた令嬢に連れて行かれたきり、戻ってきていない。もとより園遊会とは交流を楽しむ場である。ずっとオリヴィアと一緒というのもおかしな話なのだ。といっても友人がおらず、敬遠されているオリヴィアは独り浮いている。
ぽつんと立っているのが哀れだったのか、年嵩の令嬢が数人オリヴィアに話しかけてくれた。気遣いは有難いものの、その感謝が態度に一切表れないゆえに当然話は弾まない。それでもオリヴィアは無下にしないよう誠意を持って振る舞っていた。
「そういえば先程、ステラ様が館の中へ入って行くのを見たのですが、どうなさったのでしょうか。オリヴィア様は何かご存知ですか?」
「えっ…?いえ。少し前から行動を別にしておりましたので」
思わず言い淀んでしまったのは、ステラの行動が全くもって大丈夫ではないからである。よくよく聞けば、ステラひとりで入っていったという。招待客に許可されているのは、この広い庭園内を散策する事だけ。主人の断りもなく屋敷の中へ足を踏み入れるなど言語道断、無礼も甚だしい。さっと顔色を悪くしたオリヴィアは、すぐさまレティに耳打ちする。
「あなたは外を探して。わたしはお許しをいただいてから、お屋敷の中へ行ってみるわ」
「かしこまりました」
オリヴィアは主催者であるフローレス夫人に事情を説明した後、ステラの足跡を追うのだった。
客人のもてなしに人手を割いているためか、屋敷内は人の気配が少ない。それでも無人という訳ではなく、入ってきたオリヴィアの姿を見つけた守衛が、捜索を手伝うと申し出てくれた。
「お嬢様が仰るような方はお通ししていませんが、出入り口はここだけではありませんから、順番に回ってみましょう。ご案内いたします」
「…お手を煩わせて申し訳ありませんわ」
「とんでもない。皆様をお助けするのが私の仕事です」
親切な守衛の男とステラを探し回ること数十分。
オリヴィアは陽の差さない廊下を歩いていた。丁度、建物の影に入ってしまうようで、空の明るさに反してこの廊下は暗かった。
(いったい何処まで行ったのよ!)
怒りと焦りゆえに、オリヴィアの眉は吊り上がるだけでなく、眉間にも深い皺が刻まれている。彼女が鼻息を荒くした直後、背中の方から扉の開く音が聞こえた。
オリヴィアは反射的に振り返ろうとしていた。ところが、どういう訳か次の瞬間には視界が反転し、彼女は仰向けに倒れていたのだった。
何が起こったのだろうか。
背中に当たっているのは床だろうか。
何故…守衛の顔が上に見えるのだろうか。
オリヴィアが状況を理解するより前に、扉の鍵が閉まる冷たい音がした。
「手荒なことをして申し訳ありませんね」
男はにこにこと笑いながら、オリヴィアを組み敷いていた。この部屋は物置きとして使われているらしく、随分と埃っぽい。
「なに、を…言って…」
「ああ、声は出さない方がいいですよ。静かになさっているのが貴女のためです」
「離して…っ、触らないで!」
「頭の悪いお嬢様ですねぇ。それとも酷くされるのがお好きですか?」
両手首を床に縫い止められたオリヴィアは、男の拘束から逃れようともがく。頭の中は真っ白になっていた。どうしてこんな事になっているのか全然わからない。何一つわからないが、このままでいるのは酷く恐ろしいし、気持ち悪くて吐きそうだった。声を出すな?静かにしていろ?できるはずがないだろう。
「誰かっ……!?」
助けを求めようとした声が遮断される。男がオリヴィアの首を絞めたのだ。
「人間の言葉がわからないなんて、致命的な頭の弱さですね。私は親切で教えて差し上げたのに」
「か、は…っ!…っ……」
「まあ、殺しはしないので安心してください」
首に絡まった指が空気の通り道を狭め、息が満足に吸えなくなる。
苦しい。苦しい、恐い。怖い。こわい。
空気を取り込もうとする唇からはほんの微かな喘ぎ声が漏れるのみで、苦痛ばかりが大きくなる。限界まで見開かれた瞳に涙が溜まっていった。殺さないと男は言うが、オリヴィアは恐怖に支配され、がくがくと震えた。思考も正常に働かない。首にかかる手はびくともしなかった。ならば───!
渾身の力を振り絞り、オリヴィアは信頼するメイドの名前を呼んだ。
下手をすれば喉が壊れていたかもしれない。血反吐を吐くのではと思った。きっと、汚く潰れた聞くに堪えない声だっただろう。届くかどうかも定かではない。それでも彼女は文字通り命懸けでレティを呼んだ。
「黙れっ!!」
男が慌ててオリヴィアの口を塞ぐが、もう遅い。彼女の絶叫は廊下にまで木霊していた。
「喚いたところで誰も来ない!そんなに乱暴されたいのなら、嫁げない体にしてやる!」
目を血走らせた男がドレスに手をかける。狂おしい嫌悪と拒絶から、オリヴィアは死にものぐるいで抵抗した。身を捩り、手足をばたつかせる。いくら力で勝っていようと、男には腕が二本しかないのだから、オリヴィアの手も口も首も押さえておくことはできない。
「んー!んんー!!」
「くそっ!暴れるなっ!!」
男が拳を振り上げた瞬間。悲鳴と紛う金切り声が轟く。恐らくは「お嬢様」と言っていた。凄い速さで近付いてくる足音に気を取られた男の動きが止まる。同時に少しだけ力が緩んだ。オリヴィアは忌々しい手を躱し、いま一度、声を張り上げた。
「わたしはここよ!!レティッ!!」
「お嬢様っ!!今お助けします!!」
よくぞ気付いてくれたと、オリヴィアの目尻から溜まっていた涙が零れ落ちる。しかし扉には鍵がかかっている。レティの力では蹴破ることは不可能だろう。そして恐らく、扉の向こうにいるのはレティだけだ。どうにかして男の拘束を解いて鍵を開けねば、事態は好転しない。
「チッ!もう面倒だ!絞め殺してやる!」
逆上した男の両手が、憎々しげな舌打ちを皮切りにぎりぎりと細い首を絞めつける。今度こそ呼吸が完全に遮断され、抵抗する力も失われていく。
───ドカッ!!バキィッ!!
全ての感覚が遠のきかけた時、何かが破壊されるような音が朧げに耳朶を打った。かと思えば、木の軋みと共に扉がゆっくりと動いた。
「お嬢様っ……!?」
扉の向こうに立っていたのは、無論レティだ。オリヴィアの惨い姿を見たレティは絶句する。
無理もない。命の恩人であり、自分の命以上に大切なお嬢様が男に押し倒され、あまつさえ首を絞められていたのだから。
「お嬢様に触るなぁぁっ!!」
およそレティが放ったとは思えないような台詞だった。彼女が振り翳した得物を見た男は、脱兎の如く逃走する。レティの手には、ドアノブを破壊するために使った長剣があったのだ。屋敷の廊下に飾られていた甲冑から拝借したものと思われるが、あれを振り回されたら相手が少女といえど無傷では済まない。
男の姿が消えた途端にレティは剣を放り投げ、オリヴィアの傍に膝をついた。
「お嬢様!お嬢様っ!!お助けするのが遅くなって申し訳ありませんっ!」
レティの手を借りて半身を起こしたオリヴィアは、号泣するメイドを労おうとした。しかし、息を少し吸った拍子に咳き込んでしまい、止まらなくなった。ますます青褪めたレティはぼたぼたと大粒の涙を流しながら、痙攣する背中を摩る。ぐしゃぐしゃの顔を見ているうちに、オリヴィアも張り詰めていた糸がぷつんと切れたらしい。自分よりも歳下のレティに寄りかかり、目を伏せた。小柄な体躯で、怯む事なく飛び込んできてくれた。本当に頼もしいメイドだ。
「…ありがとう」
たった一言だけ呟いたオリヴィアの声は、ひどく嗄れていた。こんなにも弱り切った姿を見せられたレティは、己の身分も忘れてオリヴィアを抱きしめる。
時は少し遡り、指示通りに庭園内を捜索していたレティは、目的の人物を発見していた。というより、あちらからレティを見つけて近付いてきたのだ。オリヴィア様は?と問うてくる声がやけに不快であった。
胸騒ぎを覚えたレティは、とにかく見つけた報告をしようとオリヴィアのもとへ急いだ。その結果が先程の有様だったという訳だ。
「レティさーん。どこですかー?」
「!!!」
オリヴィアの息が整わないうちに、この場にそぐわない軽やかな声が流れてきた。わざわざ顔を確認するまでもなかった。開いた扉からひょっこり顔を出したのはステラだった。
「あっ、やっと見つけました……オリヴィア様!?どうなさったのですか!?」
ラベンダー色の瞳を丸くする様子が、レティには白々しく見えた。抑えきれない怒りによって爛々と燃える双眼で睨めば、ステラは怯えたように後ずさる。怯えていいのはお前ではないだろうと、レティは歯噛みした。
「……貴女といるとお嬢様はっ」
相手は貴族、自分は元孤児の使用人、表向きはお嬢様のご友人。重々承知しているが、レティは物申さずにはいられなかった。言ってやらねば気が済まない、否、どれだけ怒鳴っても足りない。続くはずだった言葉を止められたのは、オリヴィアの鋭い一声があったからだ。
「レティ!やめなさい」
レティの言わんとした事は、オリヴィアもわかっている。
紛失した首飾り、落馬、そして今し方の暴行。それらすべてにステラの影がちらつくのだ。この短期間でオリヴィアの身の回りに生じた事件は、ステラを起因としているという仮説がもはや濃厚であった。けれども確証が掴めなければ、仮説の域を出ることはない。即ち、いつどこで誰の耳があるか定かでない場所で、ステラを糾弾するのは得策ではなかった。
「…ステラ様」
「は、はい」
「すみませんが、わたしは帰らせていただきます」
「でしたら私も一緒に…」
「駄目です。途中で帰るのは本来ならば失礼に当たる事。今すぐにお戻りください。レティはフローレス夫人に説明を。わたしは馬車の中で待っているわ」
「かしこまりました。すぐに行って参ります」
「それでは失礼します。ステラ様」
体の震えも強張りも未だ解けていないのに、オリヴィアは毅然と命令を下していた。立ち上がって歩き出すため、どれだけ己に鞭打ったのか。死にそうな目に遭ってもなお背筋を伸ばして進む後ろ姿を見届けてから、レティも命令を全うするために地面を蹴った。置き去りになったステラのことは二の次だった。他人の事より、心身共に傷付いたオリヴィアを家族の元へ送り届けるのが最優先事項であったのだ。




