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 リーンハルトが軽口を叩くと、もれなくオリヴィアがむきになる、そんな事を飽きずに繰り返しながらも存外楽しく絵画の観覧を終えた。残す予定はロス伯爵家での晩餐会だ。婚約者と二人ならまだしも、彼の家族と同じテーブルを囲むというのは、厚かましいと疎まれるのが常のオリヴィアであっても緊張する。というか、厚顔だと批評しているのは彼女を噂にしか知らない人間で、オリヴィアは父親にこれ以上の心労をかけずに済むよう、気を張っているに過ぎない。人知れない努力の代償が、不機嫌そうな渋面とは憐れである。


「オリヴィア嬢。嫌いなものがあれば、遠慮せず言っておくれ」

「何でも食べますので大丈夫ですわ」


 ロス家の当主アルベールが努めて明るい声を出したのは、食事の雰囲気を少しでも和ませようとしての事であった。伯爵夫人のユージェニーが無表情なのも、そのせいで当たり障りの無い話が一つのぼるかどうかの侘しい食卓になることも、普段通りと言えばそれまでだ。だがしかし、そこへ美味しそうに食べているようには欠片も見えない令嬢が加わると、空気の重さは普段の比ではなかった。冷ややかなユージェニーが場を盛り上げる世間話などするはずがなく、頼みの綱は猫を被っているリーンハルトかと思いきや、彼はいつものように粛々と食べ物を咀嚼しているのみ。必然的にアルベールが話題を振るしかなかったのだが、オリヴィアは緊張のためいつも以上に固い声になってしまっている。


「いやぁ、静かな食事風景は我が家だけかと思っていたが、パチル侯爵家でも同じなのかな?」


 アルベールが話しかけると、オリヴィアは急いで口の中の物を嚥下し、ナイフとフォークを置いて返事を考える。実のところ、リーンハルトが黙りこくっていたのは、彼女が食事に集中できるようにするためだった。我が婚約者は歓談しながら優雅に食事する、なんて器用な真似はできないだろうと踏んでいたのだ。そして、彼の予測はものの見事に的中していた。話しかけられるたびにオリヴィアの手が止まり、彼女の食事だけが遅々として進まない。もちろん、食べ物を口に含んだまま喋るのはマナー違反である。しかし貴族ならばその辺りは巧みに行うものだ。リーンハルトだってやろうと思えば完璧に行える。オリヴィアが特別不器用なだけだ。


「そうですね。会話があるのは、食事の前後くらいでしょうか」

「ほう。侯爵家ではどのような話で盛り上がるのかね?」

「大抵はその日あった出来事ですわ」

「ほうほう。例えば…」

「そのくらいになさいませ。お料理が冷めてしまいます」


 延々と続きそうな会話を一刀両断したのは、沈黙を保っていたユージェニーだった。ぴしゃりと放たれた咎めの声により、再び痛ましい静けさがやって来る。申し訳なさを感じつつも、オリヴィアはひたすら無心でナイフとフォークを動かした。パチル家の食事風景だって負けないくらい静かではないか。そうだ、ここは我が家の食卓だと思えばいい。

 滞ってしまった皿を次々に片付けていく事に集中している彼女は、噴き出すのを堪えている青年の存在に気付いていなかった。


「…オリヴィアさん。無理をなさっていませんか」


 ユージェニーが再度声を発したのは、メインディッシュが過ぎてしばらくの事であった。目の前の皿ばかり見て俯きがちになっていた顔を上げれば、ユージェニーから微妙な戸惑いの視線が向けられていた。彼女の後ろには何故かシェフが控えており、罪悪感の滲む表情をしている。状況と質問の意図が察せられず、オリヴィアは「いいえ…?」と怪訝そうに小首を傾げた。

 問われたことに答えただけなのに、どういう訳かリーンハルトが咳払いをする。その音にオリヴィアが横目を使うと、押さえた手の隙間から可笑しそうに歪んだ口角が見えた。彼女は思わずぎょっとする。もしかして知らないうちに粗相をしてしまったのだろうか。テーブルマナーに関してはあの父でさえ文句をつけないのに、今度は何をしてしまったのか。募る焦りにオリヴィアは生唾を飲んだ。恐る恐るユージェニーへと視線を戻すが、やはり何も読み取れなかった。

 ユージェニーは綺麗に無くなった皿の上を見ながら告げたのだった。


「我が家の料理人が盛り付ける分量を間違えたようで、オリヴィアさんのお皿はかなり量が多かったと思います」

「………えっ」

「大変申し訳ございません!手違いで旦那様にお出しするお食事を提供してしまいました。我々を慮ってくださるのは感謝しかございませんが、どうかご無理はなさいませんよう。残していただいて構いません」

「………えっ!?」


 場違いな間抜け声がオリヴィアの口から転がり出る。

 ロス家では少々ふくよかなアルベールにのみ大盛りの食事が出されている。要するにオリヴィアは、恰幅の良い男と変わらない量の食事をしていたという事だ。

 それに思い至った途端、オリヴィアの顔がみるみる羞恥に染まっていく。彼女は先ほど答えた通り、まったく無理などしていないのだ。何故なら、このくらいいつも平気で食べているからである。彼女の母親が病弱であったことが起因し、父も兄もオリヴィアがたくさん食べるのを推奨していたのだ。あれも食べなさい、これも食べなさいと、勧められるまま食べてきたオリヴィアは、世間一般の令嬢と比べてよく食べる。進んで健啖家をしている訳ではないが、女性用のフルコースでは満足しない胃袋なのだ。幸いだったのは、食べても食べても太らない体質だったことだろう。

 だがしかし、貴族の令嬢としては意地汚いとみなされかねない事ゆえ、ひた隠しにしてきた。それなのに、よりにもよって婚約者と彼の両親の前で明るみに出てしまったのだ。許されるなら一目散に逃げ出したかった。


「お腹の具合は大丈夫ですか」

「っ…はい。ま、まだまだ食べられます。ので、お気遣いは無用です…」


 オリヴィアは恥ずかしくて、もう誰の顔も見られなかった。息も絶え絶えといった感じで言葉を繋げている。馬鹿正直に腹具合を伝えてしまってから「そろそろ苦しくなってきました」とか言えない愚直な己を呪った。けれども嘘を吐かない性根の人間が、咄嗟の誤魔化しなどできるはずがないのだ。


「食いしん坊ですね。オリヴィアは」

「ちがっ…!」


 今頃になって何を喋りだすのかと思えば、リーンハルトはくすりと笑いながら息の根を止めにきた。オリヴィアは目を剥き、言い返しそうになったが、アルベールの朗らかな笑い声が被さったのだった。


「はっはっは!料理人冥利に尽きるというものだ。そう思わんかね」

「はい。こちらの不手際でご迷惑をと思っておりましたが、綺麗に食べていただけて嬉しい限りでございます」

「少食でいらっしゃる方が懸念されます。恥入ることはありません」


 様々なところから励ましを貰ったオリヴィアは、食事が終わった後も立ち直れなかった。




 いつまでむくれているんだ、とリーンハルトが声をかけたのは、家路につく馬車の中であった。隣に座るオリヴィアは膝の上で握りしめた拳を震わせている。


「別に悪いことでもないだろう。たくさん…ふっ…食べるくらい」

「いま笑いましたよね!?」

「不可抗力だ。それにデザートまでしっかり完食したのはお前だ」

「気付いていらしたなら仰ってください!」

「どうやって教えろって言うんだ」

「机の下で足を蹴ってくだされば、わたしだって異変に気がつけたかもしれませんのに!」

「蹴ったら蹴ったで怒るくせに」

「ぐっ……」

「良いじゃないか。栗鼠みたいで面白かったしな。…食事の席であんなに笑ったのは初めてだ」


 不名誉な喩えに対し不服を申し立てたいところだったが、オリヴィアは自分の胸の奥で広がる違和感に意識を向けた。

 再三にわたって感じた、不透明な気持ち。言うなれば心の柔らかい部分に細い針が刺さる感覚。それは決まってリーンハルトが声色にひと握りの寂寞をのせる時に生じるのだ。


(…わたしは、嫌だったのね。この人が悲しそうにするのを見るのが……そうよね。沈んだ表情なんて、気持ちの良いものじゃないわ)


 例えるなら、美味しそうに食べる人間の横で同じ物を食べると特別美味しく感じる現象の逆だ。

 悲しげな影を帯びる彼にオリヴィアの心が共鳴していた、そういう事だろうと彼女は考えた。


「…リーンハルト様は、ユージェニー様と仲違いなさっているのですか?」


 普通なら遠回しに尋ねるか、言葉を濁したりする事柄でも、オリヴィアははっきり告げる。無遠慮に核心を突いてしまうのが、彼女が嫌われ者の所以だ。だが、いくらオリヴィアであっても、相手が彼や自分の家族でなければ黙っていることもできただろう。関心が薄い相手ほど、感情の揺らぎも小さくなるもの。抑える間も無く口が動いていたのは、隣にいるだけで悲しみに引き摺られてしまうくらい、親しみを覚えた相手だから。


「そういう訳じゃないが…仲が良いとも言えないな。見ての通り、母上はいささか冷淡な人だ。ひどく叱られたことも無いし、笑いかけてもらった記憶もない。静かに苦言を呈されるだけだった。家族らしいことをするのは、誕生日の時くらいか?でも多分、祝いたいからじゃない。祝うのが世間の常識だからだ」


 オリヴィアはそんな事はないとすぐに否定したかった。けれどもここは聞く事に徹する。


「…正直に言って、パチル家が少し羨ましい。ロス家は家族で見送りも出迎えもしない。あそこはただ食事を摂って寝るだけの場所だ。外出先にいるのと大差無い。俺だって屋敷に帰った時くらいは、肩の力を抜きたいと思っていたが…叶う事はなかったな。まあ、何処だろうがお構いなしの能天気なお前には無縁な話だろう。忘れてくれ」


 疲れたように儚く微笑む彼に、オリヴィアの胸がきゅうと締めつけられる。彼の嫌味にさえ、今は怒りを覚えなかった。

 "稀代の美青年"と持て囃されている人でも他人を羨ましいと感じる事があるのか。幾度となく人形じみていると思った彼は、人間味に溢れた人だった。叶わぬ夢に失意を抱いても、完璧に整えた仮面の下に隠してしまう。名声は思いのまま手に入れられても、真心こもった祝福はもらえず寂しいと感じている。その事実は目が冴えるような衝撃をもたらし、オリヴィアを突き動かすのだった。


「わたしが…お祝いするのは迷惑ですか」

「…なんだって?」

「わたしにお誕生日を祝われるのは鬱陶しいと感じますか」


 オリヴィアの一点を射抜くような瞳に、リーンハルトは若干怯む。何故だが身の置き場が無い気がして、彼は逃げるように視線を外した。


「それは……どうせ婚約者の義務感からだろう。くだらない同情は不要だ」

「違います。わたしが言いたいから言う、それだけの単純な話です。義務も同情もありません。あなたが生まれた大切な日、それがお誕生日に対する世間の常識ですわ」


 及び腰の彼は、潔いほど真っ向から否定を受けた。リーンハルトは暫し呆気にとられ、次いで浮かんできたのは安堵が透ける優しい笑みだった。


「…俺の誕生日は先月だったがな」

「えっ!?嘘でしょう!?」

「なんで嘘をつかなきゃいけないんだ」

「だってわたし、何もご用意してません!」

「いや。ちゃんと貰ってる」

「…?記憶にありませんけど…」


 得意げに笑うリーンハルトが取り出したのは、青葡萄の刺繍が入ったハンカチだ。眼前で揺れる白布にオリヴィアは「あっ!」と声をあげる。


「これで充分だ。本人が満足してるんだから、ケチをつけるな」

「…遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます」

「ございました、の間違いじゃないか?」

「文句が多いのはリーンハルト様の方ですわよ!来年はきちんとお伝えしますし、贈り物もご用意しますわ!」

「期待はしない」

「あなたはまたそうやって、」

「でも、楽しみにしてる」


 そんな風に頬を緩めながら言われると、湧き出た怒りも霧散していく。リーンハルトが喜色を滲ませれば、オリヴィアも釣られるように眉尻を少し和らげる。


「俺は…婚約の話が出てからずっと。どうせ結婚するなら母上とは全く似てない女性がいいと考えていたんだ。…この事は誰にも言わないつもりだったんだけどな。お前と居るとどうにも気が抜ける」

「それはどういう…」


 意味ですか。そう続くはずだった台詞は喉の奥へと引っ込んだ。リーンハルトが急に距離を詰めてきたからである。二人を隔てていた空間がぐっと縮まり、オリヴィアは一瞬呼吸の仕方を忘れてしまう。


「オリヴィア」


 名前を呼ばれた。ただそれだけなのに、背筋に感じたことのない痺れが走る。

 気が付けば、あと少しで唇に吐息がかかる距離に彼はいた。爽やかなはずの青葡萄とは相容れない熱が、そこに在る気がした。

 どこにも触れられていないのに、オリヴィアの身体から自由が奪われる。


「パチル侯爵邸に到着いたしました」


 馬車の外からかかった呼び声によって、リーンハルトは動きを止めた。御者が扉を開ける前には元通りの距離が空き、まるで何事も無かったかのように挨拶を交わす。


「今日は長いこと付き合わせて悪かった。ゆっくり休んでくれ」

「こちらこそ、お礼を申し上げますわ。ご両親にも感謝をお伝えください。おやすみなさいませ」


 淀みなく台詞を述べていたオリヴィアだが、その実、ちゃんとお辞儀をしたのかすら記憶に無かった。ただ自分の心音が、鼓膜の内側をうるさく叩いていた事だけは鮮明に覚えているのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] >見ての通り、母上はいささか冷淡な人だ。 うーん、それだけとも思えないような? 実は愛情があるけど不器用なだけなんじゃないかなーと、期待してみたり。 >「パチル侯爵邸に到着いたしました」…
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