17
裏庭の掃除に駆り出されていたレティが戻ると、門の前でオリヴィアとリーンハルトが話し込んでいた。レティのいる位置からでは話している内容こそ聞こえないものの、剣呑な雰囲気は見受けられない。彼女は一つ微笑むと、足音を忍ばせながらその場を去った。
「アルベール様が主催の展覧会、ですか?」
「ああ。父がお前を是非招きたいそうだ」
「光栄ですわ。お招きに与りますとお伝えください」
「わかった」
特に急ぎの用事ではなかったのだが、書面でやりとりするより直に伝えた方が早い。まあ、リーンハルトからすれば、婚約者に会う理由付けに過ぎないのだが。彼は口が裂けても言わないに違いなかった。
「お話は以上ですか」
「………」
オリヴィアに悪気が無いのはわかっている。しかし彼女の口ぶりではまるで、さっさと話を切り上げろとうんざりしているように聞こえてしまう。生来の怒り顔がそれを助長させているが、彼女は連絡に漏れがあってはいけないと確認しているだけだろう。とことん損ばかりな令嬢である。
「…展覧会が終わった後、我が家で食事しないか。俺の両親もいるから、嫌なら断れ」
「そのような言い方をされたら断れませんけど。断ったら嫌と言ってるも同然ではないですか」
「お前が気を遣うって常識を知っていることに驚いた」
「何ですって!?わたしはあなたと違って、礼儀知らずではありませんからっ!」
「喚くのがお前の礼儀か?」
「そうさせたのはどなたか、胸に手をあてて考えたらいかが!?」
「で?」
「は?」
「晩餐に来るのか、来ないのか」
「…せっかくのご厚意ですから、行きますわよ」
「そう伝えておく」
不意打ちにリーンハルトが口元を緩めたため、オリヴィアは変な呻き声が出そうになるのを堪えなければならなかった。近頃、リーンハルトにこういう表情を向けられることが増えた。衆目がある場所での完璧な姿ではなくて、気取らない雰囲気というか、子供っぽい感じ…はちょっと失礼だろうか。とにかく、彼が纏う空気が変わってきた気がするのだ。些細なきっかけで言い争いへと発展するのは相変わらずだけれども、そう言えばあまり長続きしなくなった。これは良い傾向だと喜ぶべきなのだろうが、なんだかそわそわしてしまい、オリヴィアは素直に喜ぶことができないでいる。
アルベール伯の絵画好きは有名だ。しかし、息子であるリーンハルトの言葉を借りるなら「見る目はあるが、芸術に対する情熱はウルバノ様に及ばない」らしい。何にせよ、埋もれてしまった名画を発掘する手腕には長けており、そんな伯爵が展覧会を行うと言うので、オリヴィアも胸をときめかせていた。その浮かれ具合はオリヴィア本人もびっくりするほどであった。
指折り数えて迎えた日。彼女はやや地味な、こげ茶色のドレスを着てリーンハルトの馬車を待っていた。せめて装いだけでも淑やかに、という父親の切実な願いが透けて見えるようだ。しかし彼女の首元のみ、煌めく赤色で彩られていた。控えめな衣装が紅の輝きを際立たせ、彼女の髪色と相まって自然と視線を惹かれる。
しかし、程なくして到着した首飾りの贈り主は、光り輝く赤色を目に留めるなり、お世辞すらも黙して彼女から素早く背を向けた。というのも彼は「オリヴィアは婚約者と会う日だけに限らず、毎日のようにルベライトの首飾りをつけている」と事前に聞かされていたからだ。情報元はパチル家の使用人である。彼らはレティを筆頭に、一丸となってお嬢様の縁談を応援しているのだ。情けない赤面を目撃されてはたまらないと顔を背けたリーンハルトであるが、赤く染まった耳は隠しきれていなかった。偶然にもオリヴィアの位置からは逆光になっていたため、彼女だけには知られずに済んだのは不幸中の幸いなのかもしれない。
「父上、母上。オリヴィアを連れて参りました」
照れ顔を見せまいと子供じみた意地を張っていたリーンハルトも、両親の前に出れば途端に一変する。一挙一動、どんな細かい仕草にさえ非の打ち所がない。完璧な笑みを絶やすことのない様は、本当に精巧な人形のようだった。オリヴィアのことを馬鹿と罵る青年はそっくりさんか何かと、そろそろ本気で疑いたくなる。
「ご無沙汰しておりますわ、アルベール様、ユージェニー様。ご健勝にて何よりと存じます」
「おお。オリヴィア嬢も元気そうで良かった。思えば、最初の挨拶以来になってしまったね。オリヴィア嬢は芸術に通じていると小耳に挟んだから、今日は目一杯楽しんでおくれ」
にこやかに話しかけてくれたのはアルベールだ。
次いでオリヴィアに声をかけたのは彼の妻ユージェニーであった。
「不肖の息子で申し訳ありませんが、わたくしにも責任がございますので、ご不満な点は何なりと仰ってください」
ユージェニーという女性は、相手に冷たい印象を与える人だった。まずもって表情が全く変わらない。ウルバノも艶美な笑みで思考を覆い隠すが、ユージェニーもまた無表情ゆえに何を考えているのかが読めなかった。ぴしゃりと言い切る物言いはオリヴィアにも似通ったものがあるが、ユージェニーの声音には温度が無いのだ。リーンハルトの母親というだけあって、歳を重ねてもなお美しい見た目に有無をいわせぬ迫力があった。
「い、いえ。不出来なのは、わたしの方です」
「己を蔑める言葉を言わせる時点で、男としての甲斐性は皆無です。反省なさい、リーンハルト」
「申し訳ありません、母上」
まっすぐ頭を下げるリーンハルトに、オリヴィアは狼狽えてしまう。せせら笑いながら「馬鹿」を連呼している時でもあるまいし、今の完璧な美青年が謝る要素はどこにあるのか。彼が不肖なら、オリヴィアはどうなる。しかしユージェニーの眼光が鋭く、擁護の言葉を探そうにも頭がうまく働かなかった。
「まあまあ。説教は後にして、ゆっくり観覧しておいで」
「はい、父上。失礼します」
オリヴィアがおろおろしている間に、アルベールが息子の背中を軽く押す。そのまま歩き出したリーンハルトはごく自然に婚約者の手を取り、展示区画へと向かうのであった。
「……すみませんでした」
一人だけに聞こえるよう抑えた声で謝るオリヴィアだったが、リーンハルトは思い当たる節がないのか、何の事だと聞き返していた。そう言う彼の態度は、隙のない外装が剥がれたもので、オリヴィアは肩の力が勝手に抜けていくのを感じたのだった。
「わたしの言い方が悪かったせいで、お説教になってしまったではありませんか」
「ああ…その事なら気にするな。母上の説教には慣れている」
彼の返事を聞いたオリヴィアの胸に小さな違和感が生まれる。今のは「まったくだ。いい加減、口の利き方を学習しろ」とか言われ、口喧嘩の火蓋が切って落とされる場面ではなかっただろうか。他人の目があるため、ねちねち小言を述べるのは避けようとしているのか?それにしては我慢してる風に見えない。その横顔はむしろ…儚い、ような…?
「あっ、の…う」
「ん?」
漠然とながら「何か言わなければ」という思いに駆られ、オリヴィアは咄嗟に声を上げていた。勢いに任せたはいいが、考えを追いつかせるのに時間差が生じ、への字の唇から意味のない音が漏れる。己を落ち着かせるためにオリヴィアは短く息を吸った。それからリーンハルトを見上げる。睨みつけたみたいになっているのは、もう放っておいてもらおう。
「わたしの方がっ、お説教には慣れていますわ!ほぼ毎日お父様にお叱りを受けていますから!」
「……は?」
リーンハルトが呆気にとられたのも束の間のことだった。半開きになった唇から「…ははっ!」と明るい笑い声が溢れたのである。
「…くくっ。何を言い出すかと思えば。自慢できることか?」
「そっ、そういうのを負け惜しみと言いますのよ!?」
「内容的にはお前の負けだろう。あと館内はお静かに、だぞ」
「っ…」
人差し指を唇に当てる仕草は子供っぽいのに、人形よりも整った顔には嫌味なくらいよく似合い、オリヴィアの顰めっ面が濃くなった。
「おい不細工」
「誰のことかさっぱりですわねっ」
「俺は絵画のことがさっぱりだ。横で解説してくれないか」
「……ふんっ」
頼み事をするなら不細工と罵ったことを詫びなさい、くらい言い返すつもりだった。だがしかし、キッと見上げた視線の先には優しく目を細めているリーンハルトがいた。そうやって面映い顔をされると、怒っているのが阿呆らしく思えるから困る。とはいえ素直に頷くのも癪なので、オリヴィアは鼻息荒くそっぽを向くのであった。
不満そうな態度をとっていたオリヴィアも、興味がそそられる物を前にすれば最初に抱いていた怒りは薄まっていき、終いにはすっかり忘れていた。吊り上がった眉はそのままだが、リーンハルト相手に展示品の説明を付け加える彼女は饒舌である。
「あちらの絵、右下のところが黒っぽくなってますでしょう?あれは奥方に殴られた際に飛び散った、画家の血だと言われていますわ」
「それは色々と汚い話だな」
「作り話という説が強いですが、彼は好色画家とも揶揄されるほど恋愛に夢中だったようなので、案外本当かもしれません」
「なるほど。浮気の制裁が下った跡ってことか。それを知っていると、ただの風景画も一味違って見えるな」
「利いた風な口ぶりですわね」
刹那、リーンハルトは瞠目した。オリヴィアが唇の端をちょっぴり持ち上げていたからだ。彼女の笑った顔を目にするのは初めてではない。けれども幼馴染の結婚式の折、安堵の微笑を浮かべたオリヴィアは隣の青年には目もくれなかった。今はどうか。勝ち誇ったような明るい顔でリーンハルトを仰ぎ見ている。自分だけに向けられた笑みを直視したのは、この瞬間が初めてだった。生意気にもとれる面が小癪だが、それもまた実にオリヴィアらしい。
(惚れた弱みって、こういう事か…っ)
だしぬけの笑みに、リーンハルトはまんまとときめいてしまう。
「あっ、向こうに展示してあるのはヤソン画伯ですわね。わたしの好きな画家の一人なんです」
リーンハルトが沈黙する原因を作り出した本人は、お構いなしに彼の袖を引っ張っている。もとより、何にも気が付いていないに違いなかった。語調は強いわりに袖を摘む指先は控えめなのが一層いじらしい。リーンハルトは何となく恨めしい気持ちになった。彼女がさりげなく告げた「好き」のひと言に、反応しているのは彼ひとりだけなのだ。
「ヤソン画伯の丹念な筆使いも魅力的ですけど、何と言っても額縁が素晴らしいんですよ」
必死に平常心を装う青年をよそに、オリヴィアは目をきらきらさせながら言葉を続けた。もう笑ってはいないものの、生き生きと喋る横顔は言外に心から楽しんでいることを教えてくれる。
「ヤソン画伯には好敵手とも呼べる腹心の友がいたのですが、その友人は目を患ってしまい、色の識別ができなくなってしまうんです。画家を諦めなくてはならなくなった友人に、ヤソン画伯は『共に最高の作品を生み出そう』と励ましたといいます。色が分からなくても彫刻ならば可能ですから。ヤソン画伯が絵を描き、友人が仕上げを縁取る…彼らの絵は額縁までが一つの作品なのですわ」
オリヴィアが指を差した先をよくよく見れば、緻密な彫刻にひっそり紛れるようにして二人分のイニシャルが彫られている。額縁があってこそ完成する作品と言えよう。
「…すごいな」
「ええ。またとない友情ですわね」
「それもそうだが、お前の知識もなかなかだと思う」
「ほとんどお祖父様の受け売りですわ。お母様が留守にしていらっしゃる間、こまめに訪ねて来てくださいましたの。わたしはお祖父様の寝室に忍び込んで、しつこくお話をせがんだものです」
描いた絵は母に渡すのだと俯いていた彼女の姿が、ふとリーンハルトの脳裏に蘇る。あの時、気が強いオリヴィアの繊細で柔らかな部分を垣間見て、目が離せなくなった。母親と離れて暮らさなければならなかった幼な子にとって、祖父が語る蘊蓄に耳を傾ける時間は、寂しさを忘れられるひと時であったのだろう。オリヴィアの豊富な知識は、辛い別離の裏返しなのだと気付く。
「そうか……両親がそばに居た俺は、恵まれていたと思うべきなんだな」
「リーンハルト様…?」
しんみりとしたリーンハルトの独り言は、あっという間に空気に溶けていってしまった。だが、真横にいたオリヴィアは聞き逃さなかった。それと同時に、彼女の心臓が早鐘を打つ。またしても生まれた小さな違和感。正体不明の感覚に彼女は首をわずかに傾げる。
「いや…俺はお前をみくびっていた。うるさくしないで、長いこと喋れたんだな」
「いっつも、ひと言余計ですわね!」
「急に地声に戻るな」
「どっちも地声ですわ!本当に失礼な方!!」
しかし、かなしいかな。彼のわかりやすい揶揄により、オリヴィアが抱いた違和感は吹っ飛んでいき、後々まで思い出されることはなかった。




