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いつの間にか落ちていた恋に気付いたリーンハルトは、今後どうすべきか頭を大いに悩ませた。顔合わせの日から衝突してばかりで、一度はあわや破談か?というところまで険悪になった間柄だ。すぐに想いを通わせるなど期待するのが馬鹿である。むしろリーンハルトが何故こうも呆気なく陥落したのか、小一時間ほど自問自答したい。
まあ兎に角だ。現在の関係をどうにか改善しなければ、彼女から同じ想いを向けてもらう事は絶対に無いだろう。
さしあたって手堅く逢瀬を重ねようと手紙を出したものの、封は切ってもらえなかった。それが届く頃、オリヴィアは乗馬のために出掛けており、屋敷を不在にしていたのである。
ところで、目的地へ駆ける馬車にはオリヴィアの他にもう一人同乗者がいた。
「付き合ってくださってありがとうございます!」
両手で拳を作り、元気にお礼を述べるのはステラ・バートンだ。貴族の嗜み程度にしか馬に乗らないオリヴィアが外出したのは、他でもないステラに誘われたからだった。未だ乗馬の経験がなく、かと言って一人なのは心細いので経験者に付き添いをお願いしたい、とはステラの言い分である。特に断る理由もなかったオリヴィアは、適当な日取りを決め、麗かな日差しのなか出掛けているのである。
「どういたしまして」
「オリヴィア様がご一緒なら、百人力です」
「わたしは他人に教えられるほど、熟達していませんわ」
「いえいえ!一人ではないというのが重要なんです!」
謎の理屈だがにこにこと言い切られてしまえばオリヴィアも頷くしかない。
「オリヴィア様のお召し物、素敵ですね。美しくも格好いいというか、とにかく素敵ですっ」
鞍に跨がるため、今日は二人ともドレスではなくパンツスタイルだ。上背のあるオリヴィアは長いブーツがよく似合う。下ろすことの多い髪も後ろでひと纏めにし、白いうなじを惜しげもなく晒している。ステラの評した通り格好が良い。
そうこうしている間に牧場へ到着する。ここの馬主とオリヴィアの父が知り合いなので、乗馬の練習にも快く承諾してもらえたのだ。
「ご無沙汰していますわ。お変わりありませんか」
「おかげさまで家族全員、元気にやっておりますよ、オリヴィアお嬢様。そちらがご友人のステラお嬢様ですね。ようこそいらっしゃいました。さあさあこちらへどうぞ」
「よろしくお願いしますっ。お世話になります!」
馬主の彼が指導も担当してくれるらしく、早速二人は馬小屋へ行く。
「この馬は気性が穏やかですからね。初めての方でも乗りやすいと思いますよ」
「えっと…オリヴィア様。お手本を見せていただいても良いでしょうか…」
自信無さげに頼まれたオリヴィアは構わないと頷いた。慣れた様子で手綱を引き、馬を小屋の外へ出すと軽々鞍に跨がる。その流暢な動作を目で追いながら、馬主がステラに口頭で説明していた。とりあえず近くをひと回りしてくると、ステラは尊敬の眼差しで拍手を贈るのだった。
「すごいです!見惚れてしまいました!私もオリヴィア様みたいになりたいです!」
手放しに褒められたオリヴィアは照れるあまり、むっとした顔になっていた。
「お次はステラお嬢様がどうぞ」
「はっ、はいっ」
「私が補助しますから、そう緊張なさらずに」
「ありがとうございます!」
礼儀正しくお辞儀したステラは、馬の鼻先を撫でて「よろしくね」と微笑む。可憐な少女が動物と戯れる光景は、心が浄化されるようである。
指導を受けながら何とか馬の背に乗ることに成功した彼女は、眩しい笑みと共に馬上からオリヴィアへ向けて手を振る。ぎこちなく手を振りかえすオリヴィアは、言うまでもなく無愛想だ。しかし、これでも機嫌は良いのである。それを知ってか知らずか、ステラは「行ってきます」と喜色満面に手綱を振るうのだった。
───馬の様子がおかしい。
オリヴィアがしたように牧場を一周してきたのは良いが、妙に興奮して呼吸が荒いのだ。馬主が異常に気が付いたのと、馬が暴れ出したのはほぼ同時だった。
「きゃあぁぁぁっ!!?」
後脚を蹴り上げた勢いで、小柄なステラの体が宙に舞う。
「お嬢様っ!!!」
ステラの悲鳴がつんざいた直後、聞こえてきたのは馬主の叫び声だ。しかし、彼が「お嬢様」と呼んだのは、落馬した令嬢ではなかった。ステラが地面に叩きつけられる寸前、決死の形相で飛び出してきたオリヴィアに向けてであった。
「……なるほど。落馬したステラ嬢を受け止めようとして、足を挫いたと」
「…はい」
落馬事故から二時間後。
オリヴィアはパチル家の屋敷にて、父と向かい合っていた。ベッドに横たわるオリヴィアの左足には白い包帯が巻かれている。
「…オリヴィア」
「…はい」
「今回は運良く軽症で済んだが、勢いに任せて行動するのはやめなさい。心臓がいくつあっても足りん」
ステラが投げ出されるのを見た瞬間、オリヴィアは考えるよりも先に動いていた。受け止めようと咄嗟に両手を伸ばしたものの、貴族のお嬢様には無理があった。重みに耐え切れず、ステラもろとも派手に転んでしまったのである。だがしかしオリヴィアの意地か、単なる運か、彼女の身体は上手いこと緩衝材として働き、ステラが負ったのは擦り傷のみだった。オリヴィアの方も捻挫しただけで、落馬があったにしては少ない負傷で済んだ。
「はあ…何にせよ、大事なくて良かった」
「申し訳ありません…」
「うむ。だが、ステラ嬢を助けようとした心意気は立派だ。私は誇らしく思う」
元気が取り柄の娘が、泥だらけになって抱えられて帰ってきた時は実に肝が冷えた。メルヴィンは数刻前の光景を思い出して身震いする。
「ステラ様はどうなりました?」
「うむ…取り乱しておられたからな。気持ちが落ち着いたのを見計らって屋敷へお送りした。お前は何も心配しなくていい」
オリヴィアがどれだけ平気だと宥めても泣きじゃくっていたので不安だったが、父が心配するなと言うなら大丈夫だろう。オリヴィアは言われた通り、枕に頭を沈めてゆっくり息を吐く。こうなってしまった以上、完治するまで養生するしかない。
自分で思っているより体は疲れていたみたいで、気が付けば寝入っていた。扉の外から聞こえる物音で目を覚ましたオリヴィアは寝ぼけ眼を擦る。それから誰もいないのを良いことに大きな欠伸をしようとした。
「オリヴィア、入るよ?」
「!はい、お兄様。どうぞっ」
ノックの音を耳にしたオリヴィアの肩が、大袈裟なくらい跳ねる。だらしなく大口を開けているのを目撃されなくて良かった。彼女は人知れず胸を撫で下ろした。脳内では父の「くれぐれも淑やかに!」の声が響いている。
「起こしちゃったかな」
「いえ。丁度目が覚めたところです、けど……えっ。リーンハルト様?」
兄サンディに続いて入室してきたのは、なんとリーンハルトであった。オリヴィアは困惑しながら、お約束の日だったかしらと考える。だが、いくら頭を捻っても会う約束をした記憶が無い。怪訝そうに眉を顰めた後、ハッとなって自分の格好を見下ろす。オリヴィアが纏っているのは寝間着だ。つまり客人に見せるものではないし、起きたばかりだから髪もぼさぼさに違いなかった。意中の相手だろうとなかろうと、異性に乱れた格好を見られるのは非常に恥ずかしい。リーンハルトは婚約者であってまだ夫婦ではない。よって、安易に肌を見せてはいけないのだ。
「お兄様っ!客人がいらっしゃる時は、入る前に教えてください!!」
「ごめんよ、気が利かなくて」
羞恥に耐えかねてオリヴィアは兄に怒った。怒りながら手櫛で髪を押さえる妹に、サンディは上着を羽織らせる。
「…寝起きなので、あんまり見ないでください」
サンディが出て行き、二人きりになった際、オリヴィアは恨みがましく告げた。だがリーンハルトと言えば「不細工な面は見慣れている」などと宣う始末で、早速言い合いに発展する。
「遠慮という言葉をご存知かしら!?」
「お前が言うな!」
「先触れもなく訪れて、女性の部屋に入っておきながら、不細工とは失礼ですわよ!」
「……それもそうだな。すまない」
「えっ!あ…わたしも、言葉が過ぎました。すみません…」
不意に謝られ、オリヴィアの語勢も急速に衰える。いつになくしおらしいリーンハルトの態度に違和感を抱く。何か変なものでも食べたのだろうか。
暫し二人の視線は膠着していたが、リーンハルトの小さな吐息により強張りが解ける。
「…明日、出直す。突然押し掛けて悪かった」
「いえ…気をつけてお帰りください」
様子がおかしいのが気になったが、尋ねようにもリーンハルトは帰ってしまった。
彼と入れ替わるようにサンディが戻って来る。
「あれ。彼はもう帰ったのかい?」
「ええ…たった今」
「そっか。オリヴィアが心配で、一目だけでも無事を確認したかったんだろうねぇ」
「なっ、なんでそんな事がわかるんですか!?」
「うん?オリヴィアは知らないだろうけど彼、部屋に入る前に乱れた息を整えていたんだよ。汗だくだったのを見なかったかい?急いで駆け付けてくれた証拠じゃないか。脱いでた上着からして、もしかしたら出先から直接来てくれたのかもね」
おっとりとした説明に反して、オリヴィアの鼓動は速くなる一方だった。先程とは異なる羞恥に包まれ、無意識に胸元を握りしめていた。
「父上は気を揉んでいらっしゃるけど、オリヴィアを大切にしてくれる人で良かったよ」
優しい兄にとどめを刺されたオリヴィアは、熱を帯びた顔を枕に埋めるのだった。




