13
パチル侯爵家の食卓は意外にも静かである。騒々しいのが常のオリヴィアであっても、流石に食べ物を頬張りながら喚いたりしない。というより彼女は食べることに専念すると会話を忘れる人間だった。なおかつ、細身の割に食べる量が多いため、談笑しながらだといつまでも食べ終わらない。一心不乱に咀嚼するオリヴィアを父と兄が時折眺める、それがパチル家の食事風景だった。
「フレッド君から結婚式の招待状が届いたぞ」
最後のデザートを待つのみとなった夕食の席で、父メルヴィンは唐突に切り出した。オリヴィアは口を拭いていた手を止め、兄のサンディが「随分と早いですね」とのんびり返答する。
「前々から準備していたのだろう。私とオリヴィアで出席の返事を出すゆえ、サンディは留守を頼む」
「わかりました。彼におめでとうとお伝えください」
父と兄が言葉を交わすのを聞きながら、オリヴィアは一人で小首を傾げていた。昔からフレッドのことになると一喜一憂していたくせに、挙式の報せを聞いた彼女の心境はびっくりするほど穏やかだった。もっと感傷的になるとばかり思っていた。未練がましく胸が疼くかもしれないと身構えていたのに、拍子抜けもいいところである。とっくに諦めていた恋心だが、ようやく綺麗さっぱり忘れられたのか。
(…何にせよ、これで心置きなく祝福できるってことね)
不毛ではあったが長らく抱えてきた大切な想いだ。手放すのは一抹の寂しさがあるものの、オリヴィアはほっと息を吐くことができた。懸念していたような痛みは無く、言うなれば晴れ晴れとした心地だった。
結婚式当日は気持ちの良い晴天で、大空までもが新郎新婦の新たな門出を祝福しているかのようだ。貴族の結婚式にしてはこぢんまりとした規模であるが、温かみのある雰囲気に包まれている。会場を軽く見渡したオリヴィアは、優しい幼馴染にぴったりな式だと思った。
「おや。あれはリーンハルト殿じゃないか?」
父に耳打ちされたオリヴィアは、ぎょっとして振り向く。その際に思わず発してしまった「え!?」という声が、馬車から降りたばかりの彼の耳にも届いたのだろう。リーンハルトも目を丸くしてこちらを見ていた。そのまま無視する訳にはいかず、オリヴィアは彼が向かって来るのを待った。
挨拶もそこそこにお互い質問をぶつけあう。無論、どうしてここに居るのかという内容である。
「フレッド…新郎はわたしの幼馴染なんです」
「俺の母が新婦の母君と懇意にしているのですが、外せない用事があったので代理で来ました」
リーンハルトの物腰が柔らかいのは、その場にメルヴィンも居合わせていたからだ。なんというか、さすがに抜かりない。
「良い機会だから、二人で挨拶に行ったらどうだ」
「では侯爵のお言葉に甘えて。行きましょうか」
「あ、はい」
嫌味なくらいに完璧な笑みを浮かべたリーンハルトが手を差し出してくる。彼の猫被りにそっくり合わせることは不可能だが、オリヴィアもできるだけ大人しくエスコートされようと努めた。
「本日は誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」
「ありがとう、オリヴィア。来てくれて嬉しいよ。でも、そんなに畏まらないでほしいかな」
「ジリアン様もいらっしゃるのに、そういう訳にはいかないでしょう」
「いえ、私のことはどうぞお構いなく」
ひと通りの挨拶が済むと、オリヴィアにも気安さが戻ってくる。
「…ジリアン様がそう仰るなら」
「はい。ぜひ。実はフレッド様からお話はかねがね伺っていまして…オリヴィア様にお会いしたいと思っていたんです。今日という日を迎えられたのも、ひとえにオリヴィア様のおかげだと感謝しています」
ジリアンの穏やかな言葉に対し、オリヴィアはくわっと目を見開いた。そして、吊り上げた眉のまま幼馴染を睨みつけるのであった。
「フレッド!あなた、好いた方の前で他の女の名前を出したの!?ジリアン様のお気持ちを考えなさいよ!」
「あはは、怒られてしまったな」
「笑い事じゃないわ!」
「わっ、私がお聞きしたいとせがんだのです!」
晴れの日にもかかわらず、いつもの口調で怒り出すオリヴィアをよそに、リーンハルトは笑顔の裏で苛立ちを膨らませていた。しかし、彼自身にも苛々している理由がよくわからない。オリヴィアの騒々しさには慣れてきて、最近では面白おかしく眺めることができていた。それなのに少し前の自分に戻ってしまったようだ。オリヴィアの声が無性に腹立たしく感じる。
「約束は覚えてるわね?フレッド」
「もちろん」
「わたしはやると言ったらやるわよ」
「うん。君に絶交されないよう、ジリアンと二人で幸せになるよ」
純白の花嫁の肩を抱き寄せるフレッドは満面の笑みだ。
何気なく隣の婚約者に視線を移したリーンハルトは、はっと息を呑む。
「末長くお幸せに」
オリヴィアがにべもなく告げたのはありきたりな言葉だった。けれども、常ならば下に曲がっている唇が緩やかな弧を描いており、優しく笑っているように見えたのだ。眉尻も微かにだが和らいでいる。見間違いかとリーンハルトは繰り返し瞬く。果たしてオリヴィアとは、こんな甘くて切ない微笑みを浮かべる女性だったか。束の間、リーンハルトは仮面が剥がれ落ちたことも気づかず、彼女を凝視してしまった。儚ささえ感じられるその横顔はまるで…慕う相手を見つめるような───その思考が頭を過った瞬間、リーンハルトの体の奥で煮え沸った感情がとぐろを巻く。それに、とてつもなく気分が悪い。
「…リーンハルト様?大丈夫ですか」
「…!ああ、何でもない」
無意識のうちに口元を押さえていたらしく、オリヴィアが眉根を寄せて見上げていた。不機嫌と思われがちな面持ちも、心配しているのだと今ならわかる。可愛げのない顔を見ているうちに、幾分か気分がましになった。リーンハルトは素早く仮面を付け直して、婚約者の手を引く。どうにかして彼女をこの場から連れ出したい、そんな衝動に駆られたのだ。
オリヴィアは新郎の、リーンハルトは新婦の招待客であるため、式の最中は別々の席に座り、終わるまで視線が交わることもなかった。リーンハルトの方は何度かオリヴィアを見遣ったのだが、肝心の彼女が新郎新婦に集中していて、己の婚約者など眼中に無い様子だったのである。それもまた彼をむしゃくしゃさせた。幸せな結婚式に来ているのに、リーンハルトの胸中は貼り付けている笑みとまったく逆の感情でいっぱいであった。
結婚式は笑いあり時々涙ありの、素晴らしい一日に終わった。幼馴染というからには積もる話があるのか、オリヴィアとメルヴィンは解散になった後も会場に残っていた。リーンハルトもまた同様だ。帰る前にパチル侯爵へ一言挨拶をと思い、留まっていたら、出席していた独身の令嬢に囲まれて身動きが取れなくなったのだ。
(…あいつ、どこへ行ったんだ)
当たり障りのない台詞で、群がる令嬢を追い返している間にオリヴィアを見失ってしまった。メルヴィンはいるのに、あの鮮やかな緋色が見当たらない。内心で舌打ちしつつ、リーンハルトは適当な理由をつけて会場を抜け出した。
歩き回ること数分。会場付近の小庭に探していた色を見つけた。しかし静かな小庭にぽつんと浮かぶ緋色は、背中を向けて蹲っている。もしや具合が悪いのかと、少し血の気が引いた。リーンハルトが足早に近づけば、踏み締める草の音に気付いたであろう彼女が、勢いよくこちらを振り返った。
涙に濡れた瞳を見た直後、リーンハルトはかける言葉を失う。
泣いているのだ、あのオリヴィアが。気が強くて、女らしいか弱さの欠片も無いようなオリヴィアが、はらはら涙を流している。その衝撃といったらない。リーンハルトにとっては雷が直撃するより強烈なショックであった。
「っ!む、向こうへ行ってくださいっ。お願いですから放っておいて!!」
目が合うなり思い切り顔を背けたオリヴィアは、早口にそう嘆願した。小刻みに震える背中はリーンハルトをはっきり拒絶している。だが、彼はそれらを無視してオリヴィアの傍に片膝をついた。それから真っ白なハンカチを無言で彼女に差し出すのだった。
「…要りません。じきに止まります」
しかし、一向に受け取ってもらえない。
「あなたにだけは、見られたくないんですっ」
再三にわたる拒絶に、リーンハルトは頭の芯がすうっと冷えるのを感じた。泣き濡れた顔に無理やりハンカチを押し当てると、オリヴィアからくぐもった変な声が聞こえた。
「泣くなんて似合わない真似はよせ」
「むぐっ……だったら!」
「だからはやく、いつものお前に戻るんだ」
「……えっ」
「…うるさくないお前は調子が狂う」
拗ねたような顔をするリーンハルトに、オリヴィアの潤んだ瞳がまん丸になった。強引に渡されたハンカチを握る手に、知らず知らず力がこもる。泣いたせいなのか目元のあたりが熱を持ち、熱さを自覚すると今度は心音の主張が大きくなる。何故だかオリヴィアはひどく落ち着かない心地になり、喉の奥が詰まった。
「……っ、…?」
「オリヴィア」
「は、はいっ?」
戸惑いから抜け出せないでいる最中に呼ばれ、声が勝手に上擦ってしまう。彼が名前を呼んでくれたのは、初めてではないだろうか。翡翠の瞳に絡め取られたオリヴィアは動けなくなった。
「お前は、あの幼馴染が好きなのか」
「!?」
今まで誰にも悟らせなかった。嘘が苦手だろうが必死に隠し通し、墓場まで持っていくつもりだった。その焦りがオリヴィアを更なる混乱に突き落とす。顔が熱いどころの話ではない。自分の顔色が赤いのか青いのか、もうオリヴィアにはわからなかった。
「どうなんだ」
「そんな、こと…」
言える訳がない。間違ってもリーンハルトだけには言ってはいけない。婚約者とは別に想い人がいただなんて不誠実極まりないだろう。オリヴィアは唇を噛み、肯定を呑み込んだ。
「…やめてください。婚約者のあなたにする話ではありません」
「婚約者が泣いてる理由を聞くのはおかしい事か?」
「涙なら、もう止まりました。お手数をおかけしましたわ。ハンカチは後日お返しに、」
言いながら立ち去ろうとしたオリヴィアを、力強い手が引き止める。痛いくらいに握られ、振り払うことがかなわない。
「…言えないなら、今だけお前の婚約者をやめる」
「は…?」
「ただの友人として聞く。なんで、泣いていたんだ」
「……今は言いたくない、です」
「いま聞きたい」
頑として譲らない気迫を肌で感じとったオリヴィアは、赤らんだ目元のまま、のろのろとリーンハルトに向き直る。
「とりあえず…場所を変えませんか」
それが降参の合図であった。
メルヴィンに断りを入れ、二人はリーンハルトの馬車に乗った。適当に走らせてくれとの指示を受けた御者が馬に鞭を打つ。がらがらと車輪の音が鳴り始めたのを皮切りに、オリヴィアは淡々と語り出した。
「…時々、無意味なことをしているのではと、不安になることがあったんです」
フレッドが好きだったと明言するのは避けた。自ずと分かることだろうし、やはり婚約者を相手に出して良い話題ではない。いくら友人として聞くと言われてもだ。オリヴィアの良心が許さなかった。
「だから今日、本当に幸せそうな二人の姿を見て安心しました。決して無駄ではなかったと、わかったので」
拙い努力であったかもしれない。報われないのは百も承知だった。惨めな己を嫌悪した日もあったが、無益なまま終わることはなかった。それがわかっただけで充分だ。本心から悔いはないと断言できる。
「ほっとしたら涙腺が緩みました。それだけです。辛くて泣いた訳ではありません」
突っぱねるような態度に逆戻りしたオリヴィアには、透き通る涙も、淡い笑みの影も消えていた。そっぽを向いて膨れる様はちっとも可愛げがない。
「誓って不義密通などしませんから」
リーンハルトは不貞を疑いたかった訳ではないのに、オリヴィアは疑惑を持たれたと感じたらしい。真剣な顔つきで潔白を主張している。そういうところも彼の神経を逆撫でした。嘘のつけない性分のくせに、浮気なんて器用な真似ができない事は彼もわかっているつもりだ。リーンハルトが聞きたかったのは、いつから幼馴染に恋し、どういう部分に惚れ、今でも好意を向けているのか、という類いの事であって。婚約者には向けない眼差しや表情を見せ、あまつさえ気安く呼びかけ合うのが心底気に食わないので、その辺りのことを詳しく……
(…待て。ちょっと待て。それだとまるで俺が嫉妬してるみたい…じゃ……)
己の内側で燻るあからさまな嫉妬心に気が付いたリーンハルトは、一瞬で真っ赤になった。鈍器で殴られたみたいに目の前で星が弾けて目眩がする。
(おいおい…まさか、それは無いだろっ!?なんだってこんな…よりにもよって!?)
隣に座るオリヴィアをこわごわ盗み見れば、まあ呑気にも「ハンカチ…ありがとうございました」などと言って唇を尖らせていた。こちらの気も知らないでほんのりと頬を染めている姿に、リーンハルトは叫びたくなった。自覚した途端に可愛く見えるなんて、本当に勘弁してほしい。わかりやすすぎる己が恥ずかしくて仕方がない。
掻き乱された感情を抱えたまま、二人きりで馬車に揺られるなどとんでもなかった。リーンハルトはすぐさま婚約者を屋敷に送り届け、ロス家に帰ると早々自室に飛び込んだ。悶々とする情けない面を、身内に晒したくなかったのである。
───なんだお前、可愛くないのを気にしてるのか?
───似合わないにも程がある!これは滑稽だな!
そう言って嘲笑った男に、オリヴィアは最低だと怒りをあらわにしていたが、終ぞ殴ることはなかった彼女を称賛したい。リーンハルトは過去の愚行を思い返して頭を抱えた。
可愛くないと言われるたび、言葉に詰まっていたオリヴィア。その理由が今日わかった。彼女は幼馴染の想い人…あの花嫁のような女性に憧れていたのだろう。何かにつけ一直線なオリヴィアのことだ、きっと好きな人の理想に近づこうとして。だけど結局は身を引く決意を固め「お幸せに」という言葉が嘘にならないよう一生懸命だったに違いない。知らなかったとはいえ、その健気な行動をリーンハルトは土足で踏み躙ったのだ。
「……本当に最低だな、俺は…」
オリヴィアの怒りは尤もでしかない。仮に逆の立場だったらリーンハルトは一生根に持つ気がする。はああ、と大仰な溜息が出たのを最後に、彼は項垂れたのだった。




