第九話 マヨイガ炎上
レフォリエの形のいい鼻が、ぴくんと動く。
「肉の焼ける匂いがする」
「……ああ、そうだな」
地上に降りたヴァラールは、レフォリエの呟きに珍しく勢いのない声で応えた。
いつもなら不遜なほどはっきりものをいい、テキトーをいっている時でさえ闊達な話し方をするのに。
疑問に思って振り返ろうとしたレフォリエの首のあたりの服を器用に噛んで、もちあげた。
すらりとした体躯のレフォリエは、持ち上げられても飛ばれない限り、つま先がちょこんと地面につく。
だがそれが精一杯だ。身動きはとれない。
「ヴァラール?」
見上げてみても、太陽で影になって顔が見えない。
なんとなく彼の瞳孔が狭まっているように感じた。
異様な静けさに、尻のあたりがむずがゆい。
彼が神妙にしていると、異常なこと――なにか嫌なことが起こっているようで怖かった。
どんなに身体能力が高くても人間であるレフォリエより、竜であるヴァラールの方が鼻がよい。
レフォリエには「肉が焼けている」としかわからなくても、彼にはそれが何の肉で、どこから匂いが漂ってきているのかわかるはずだ。
――一体、何の肉なんだ?
その可能性に気づき、さあっと血の気が引いていく。
自身が生け贄になりかけた時よりも冷たい感覚だった。
思い出されるのは、実の親のようにレフォリエを慈しんで育ててくれた人の義父と、ようまの義母の姿。
「なあ。ヴァラール。どっちからこの匂いはするんだ? そっちに行こう」
青金石の鱗に手をあて、急かす。
それでもヴァラールは黙っていた。
「ヴァラール! 私は我慢は苦手だ!」
しびれを切らせば、ようやく動いた。
待ち焦がれた反応は、「はあーっ」と聞き分けのない鬱陶しい子どもに呆れるような、あんまりなため息だったが。
「全く。お前は本当、全く! こっちの気も知らないで」
「じゃあ教えればいいだろ!」
「……この火は魔女の家からあがっている」
それを聞いた途端、レフォリエは文字通り飛び上がって驚いた。
「何してるんだ!? 早く行こう! ここでのんびりしている場合じゃない。いくら仲が悪いからって、バカか君は!」
「待て」
「ええい離せ、咥えるのをやめろっ!」
じたばた暴れれば、意外にあっさりヴァラールはレフォリエを解放した。
ぴょんと地面にあしをつけ、長く伸びた金髪を揺らしながらクルリと回る。
背中側にいたヴァラールに向かい合って睨む。
しかしその顔を見て、とげとげした怒りが霧散してしまう。
強気な彼の眉間に、深い皺が刻まれていた。
硬い竜の皮膚がそれとわかるほど歪み、鋭い眼光が一層暗くきらめく。
重く開いた口蓋から牙を覗かせ、ヴァラールは苦しげに問う。
「オマエはメリュジーヌが死んだ時も、気にしないようでいて、いつも苦しそうだった。水をくむときも、薪をわるときも、奴の名残を感じるとわずかな間、ぴたりと手を止めた。
オマエのあんな姿を、またみるのは……ならば俺一人で行った方が」
それは「焼かれているのが魔女である」といっているのも同然だった。
かと思えば、ふと思いついたように眼を見開く。
「まあ、あの女がそう簡単にやられる妖魔だとは思わんが。うむ、よく考えれば奴なら焼かれるぐらいなら相手の方をこんがりウェルダンにして、死体のうえで高笑いするか。うむ、そうだそうだ」
それがごまかしだとはわかっていた。
レフォリエは首を左右にふる。
「行こう。ここで想像しても、現実はなんにもわからない」
きっぱりと突きつける。
ヴァラールは間をおいてから「ああ、そうだな」と奇妙なほど穏やかに首肯した。
体勢を低くし、レフォリエがその背に飛び乗る。
「でも、どうして魔女の家が地上に?」
「恐らく《迷い家》だ。あいつは仮にそう呼んでいた」
「マヨイガ? きいてない」
「オマエが地下世界に来たばかりの頃、緊急時の手段として話し合ったのだ。地上に出ねばならない時、どうしようかと。
あれの家は魔女の術によって守られている。見た目はただの陰気な普通の家でも、不用意に踏み入れば容赦なく死ぬより酷い目に遭う魔の砦。奴にとって最も居心地のいい場所だ。
東にある遠い土地の物語を元にした類感魔術らしい。
迷った人間が不思議な家に辿り着くというストーリーをもった話だ。
その舞台や環境を模倣することで、形成された場に立ち入ったモノに『迷子』の役割を担わせ、物語の通りにマヨイガに辿り着かせる――というな。
本来はオマエが危険な状態になった時、他のあらゆる存在から安全に隠してかくまうためのものだった」
「それをソクルタに使った? 自分から《御遣い》を招いたのか?」
「ソクルタが魔女の家に辿り着いたならば。だが何のために」
「私が聞きたいよ、そんなの」
晴れ渡った空を風を切って飛んでいく。
一人と一匹は同じ願いを抱いていたはずだ。
無事であってくれ。
炎からあがった煙によって、魔術の対象になっていないレフォリエ達にもすぐに家の場所がわかった。
数分も経たず辿り着く。待ちきれなかったレフォリエは、まだヴァラールが大地にあしをつけないうちから飛び降りた。
しびれる衝撃が太ももにジンと伝わる。
だがレフォリエは、熱以外の理由で喉がカラカラに乾いていくのを感じた。
「ああ」
見覚えのある家が炎の影に呑まれていく。
赤いはずの火は煙で燻され炭色で、黄昏が暖かな思い出を喰らうようだった。
膝から崩れ落ちそうになるのを支えたのは、衝動だった。
レフォリエの大きく見開かれた黄金瞳に、それが飛び込んでくる。
青い空の下に現れた夕闇のなか、黒い影がぬるりと動いている。
細く、しかし筋肉のついた腕が火の届かない場所に転がったものを一つずつひろいあげている。
腕輪やネックレスといった装飾品。石でできたゴブレットといった食器。
雨に濡れた鴉のように黒い、髪。
人であった頃、好んで海の部族を訪れることがあったというヴァラールから、昔話の一環で聞いたことがある。
日頃から強い海の妖魔と争う彼らは、倒した妖魔の物品や一部を回収することがある。
一部は集落の恵みとして売り払ったり、道具にしたり。
相手が神秘をまとうほどの大物だと、お守りとして祀ることもあるという。
「ソク、ルタ」
青い髪をなびかせる彼女もまた、海の部族の出身だった。
彼女なりの文化、慣習によって行っているのだろう行動。そこに悪意はない。
妖魔の国で育ち、森の部族なりの価値観も知っているレフォリエにも理解できる部分はある。
しかし。しかし――ソクルタが回収しているのは、間違いなく魔女のものだった。
「ソクルタぁあああああ!」
自分のものとは思えない絶叫が腹の底からほとばしる。
人生で初めて感じる憤怒だった。




