第六話 泥鯨
二度目の出発は、次の晩。冷たい青や白に輝く星々が雪の如く降りそうなさっぱりとした夜だった。
そのなかを黄金の少女が青金石の竜に乗って駆ける。
他でもない。レフォリエとヴァラールだ。
ヴァラールは山のような巨体とまではいかずとも、人をつかんで軽々と飛ぶ程度には大きな生き物である。
昼に飛んでは森の外、集落の人間たちが騒ぐ。
いらぬ警戒を呼ぶのは心外だ。
対し、夜はもとより人間にとって人ならざるものの時間。一晩中、壁を叩いていたレフォリエが風をきって飛ぶのは不安がある。ゆっくり休んで、一日経ってから壁、そして泉へ向かうこととなった。
魔女にあつらえさせた鞍に、ヴァラールがたびたび身をよじる。
そのたび、レフォリエは体全体でバランスをとって、ヴァラールの名を呼んで注意した。
「頼むから変に動かないでよ」
「生憎、俺は馬ではなくてな。人を乗せるなんて考えたこともない」
そういってヴァラールはわざと体を傾けた。
髪が上に向けて引っ張られたかのようになびく。
レフォリエの瞳が大きく見開かれ、今にも落ちていこうという先――地面に向いた。
そこには親しんだ森が広がっている。しかし、地上では見ることのかなわないコントラストが、そこにはあった。
人とともに暮らしていた頃、遠くから眺めた樫の木の白い幹が幽霊じみてぼんやり浮かぶ。
木々は奥に向かうほど密集し、高く太くなっていく。
薪にするために伐採されることもなく、羊たちに若い芽を食まれてしまうこともなく、のびのび育った妖魔の森の木だ。
木々は大地の色を締め出すように葉を広げている。しかし、それが綺麗に開けている場所があった。
――あそこか?
はっと目を凝らす前に、ぐわんと視界が不明瞭になった。次いで衝撃を認識する。急に動かされて、頭も揺れた。
さかさまになりかけた頭がもとの位置に戻って、血のめぐりの変動に軽い眩暈が起きたのだ。
「おい、何をしている? これぐらい平気だろう。落ちてしまうかと思ったぞ」
「心配してくれたのか」
「俺をなめているのかと聞いているのだ。甘えるつもりなら地面に置いていく」
「まさか。わたしの仕事なんだから、わたしがいかずしてどうする」
レフォリエが「只人であれば見れなかった光景に夢中になっていた」といえばあきれ返るに違いない。
乱れる金髪をおさえ、先ほど目当てをつけた場所を探す。
「さっき、森の中心近くなのに、地面がよく見えるくらいにほとんど木がない場所があった。岩や苔が多くて、真っ黒なものがきらきら光ってたし、多分、星を映した水面だと思う」
「泉の場所なら俺も知っているが」
「……風情ってものを考えてくれる?」
常日頃から空を我が物顔でゆくヴァラールが、上空から見た泉の姿を知らないはずがない。
ヴァラールの立場になって考えれば、当然わかっただろうことにまるで思い至らず、レフォリエは赤面した。
それをごまかすようにいじけ、ヴァラールの腹をちょこっと蹴り飛ばす。
「緑の光が黒いもののふちをなぞるみたいに、ぽわぽわ輝いていたのは、多分、あの花かな。あれが結界なの?」
想像したのは沼女に引きずり込まれた場所だ。
地図で歩く間は通らなかったが、あそこは入る時も出る時もレフォリエが自らそうしたわけではなかった。
てっきりそうだと思ったのに、足元のヴァラールが否定する。
「緑の光を発する花? ならば結界ではないな。花の方は恐らく妖魔のゆりかごよ」
「妖魔のゆりかご?」
「俺は人から化けたものゆえ、わからんが。妖魔も生き物だ。命ある生き物である限り、終わりもある。殺されるなり、寿命を使い切るなり。だが、俺やクルイグのように、たまたま生まれた妖魔は強力な一方で、種族が保たれる保障としてはあまりに頼りない」
「言い方がわかりづらいよ、君。生き物である以上、種の保存は本能。確実に行われなければならない。その種が続くための発生、人間でいう出産が偶然だけに頼るものだというのは、ありえないっていう理解でいいの?」
「お前、阿呆のくせにまんざら頭は悪くないな」
本気で驚くヴァラールに、足にちからを込めて蹴った。
痛くもかゆくもないという顔が腹立たしい。
もともと爬虫類に似たヴァラールの竜の瞳は感情が見えづらいが、自分の懇親のけりがまるで響いていないのは確かだ。
「森の生き物を見ていればわかる。鷹は強くて、しかし食べられるものが少ない。だから数は少ないが、食われる側の小動物は鷹よりも多い。そして食べられるものも多い。小動物に食われる植物はもっと繁殖しやすく……
人間には出産という手段が必要なのに、妖魔はただ運に任せるだけだというのなら、とっくの昔にバランスが狂っていてもおかしくない。なんていうんだっけ、そう、生態系?」
しかしレフォリエは腹を膨らませた女の妖魔を見たことがない。
彼らは異能をもった長命な生き物である。それをかんがみれば出生率は相当に低いとわかっていたから、たまたま誰も子を孕んでいない時期にやってきて、暮らしているのだと思っていた。
「じゃあ妖魔って、花から生まれるの? 植物みたいに?」
「正確には果樹の実のように、だな。あの緑に輝く植物が大地から魔力を吸い上げ、亡霊を作るために空になった肉体を魔女が肥料にして、長い時間をかけて育つ。そしてある日、ぽとりと落ちて、新たな妖魔が現れる」
妖魔はある点においては時に人間よりはるかに人間らしいくせに、命に関しては無駄と無為を厭う。
低く唸ったヴァラールがいかなる意図をもってひとりごちたのか、レフォリエにはわからない。
だが、なんとなく胸がざわつくものがあった。この話のどこに嫌な感情を覚える要素があったのだろう。
ふと思う。
あの場所を薄気味悪く感じたのは、湿気や、死者の顔をもつ沼女のせいだけだったのだろうか。
沼女があそこにレフォリエをひきずり込んだのはなぜだろう。
自分たちの領域へ獲物を招こうという以外の、なんらかの意図があったのではないか。
「考え込むのはかまわんが、後にしておけ。そろそろ問題の個所だ」
「――わかった」
レフォリエの勘はよくあたる。
レフォリエは勘とは、それまで生きてきた経験の集合体だと思っている。
意識して考えるより先に、経験から無意識で計算されて出てきた未来予測。自分が学んで生きてきたと思うなら、信じるに値するものだ。
もしこの勘があたるなら、遠くないうちにその答えにぶつかることになる。
であれば、目の前のことに先に集中するのは、当然の帰結だ。
ハルバードをしっかり握りなおす。
ヴァラールを助けるために集落に駆け込んだ時より、これもまたよく手になじむようになっていた。
「なるべく上から断つか、突き刺すように。振り回すときは八の字に払うようにしろ。先端の重みを活かせ。無理にその方法にこだわれとはいわん。臨機応変にな」
「わかった。生きて帰ったら、もっと詳しく教えてくれよ。昔、騎士だったんだろ」
「武器の扱いなど、お前には不必要な……とはもう言えんか。好きにしろ」
結界の壁の前で一度ヴァラールは旋回する。
レフォリエの髪がヴァラールのしっぽと一緒にぐるりと弧を描いた。
「いってくれ」
ヴァラールが他者を食らう強者たるあかしのあぎとを開く。
牙が透明な壁にかけられる。一見何もなかった空間が揺らぐ湖面の如く波打つ。
ヴァラールがかみついた場所からひきつるように光景が歪む。
そのままやや上に飛ぶ動作をして、鼻先を天に向ける。
獣が肉を食いちぎるのとそっくりだった。
布が破れるのに似た音がしたと思えば、瓶に水をそそぐ音が虚空から聞こえだす。
こぽぽ、こぽぽ。
不可視のちからが渦巻くのを感じる。
ドーム状の結界が一点に集おうとしているのだ。
冷や汗をたらし、ハルバードを構えるレフォリエに、突然ヴァラールが「ああそういえば」と世間話じみた口調で呼びかける。
「魔女といい、俺といい。なんでも問うか、あちらから教えてもらえると思うなよ。手玉に取られて、あとから泣いても知らんぞ」
「今言うことか!? 間に合ってるからソレ!」
張りつめた気持ちに横やりをいれられ、意図せず怒鳴ってしまった。
それが姿を現したのはその時であった。
結界がほどけて編みなおされたちからは脳天から色づき、湿った照りを放つ。
やがて二つの真ん丸のトパーズ色の光が、内側から盛り上がる。光は一対の眼球であった。
丸みのある胴が体躯のほとんどを占め、中空を打つ尾ひれがあった。
泥でできた巨大な魚。ひとことで言えば、そういう姿をしている。
「――泥の竜?」
吸い込む息の質量が増したように苦しい。
重苦しい圧迫感、堂々とした体、肌が震えるような巨大な魔力はヴァラールや女王の竜:《クルイグ》に似通っていた。
「成程。竜ならば、確かに単純明快に強力な守護者だな」
愛嬌さえ感じる姿に、残念ながらレフォリエは愛着を覚えることはできなかった。
泥の竜の口がぱっくり裂ける。牙はない。凹凸のある唇は、獲物をするりと飲み込んであっという間に胃袋に落としてしまうに違いなかった。
「空飛ぶ泥のクジラか。面白い見世物だ、こんなところで海産物に会うとは思わなかった」
「クジラ? でっかい魚」
「魚ではない。海を泳いではいるがな。海の部族では豊漁をもたらす神の使いだと信じられる信仰もあってな。骨は加工でき、肉は美味、ひげは工芸品、特に油は灯にセッケン原料と使い道が非常に多い。
女王は舌がお気に入りでなあ、よくねだったものよ。
生憎、あれはとても食えたものではなさそうだ」
「そりゃ残念」
余裕を崩さないヴァラールが恨めしい。
レフォリエなんて目の前で増していく気配に、生唾を飲み込んでいるというのに。
ヴァラールは恐らく人間の騎士であった頃、めぐった土地の思い出を話しているのだろう。
「これだからオッサンは」
レフォリエはこっそり吐き捨てる。
敵を確認するかのように浮遊していた泥の竜が、レフォリエとヴァラールこそ結界破りをたくらんだ不届きものだと認識した。
竜が敵に向け、猛々しく吠える。
ヴァラールは人だからこそ人を捨てた怪物。
《クルイグ》は野生をむき出しにした魔獣。
レフォリエは二匹の竜と比べ、泥の竜は与えられた役目を果たす無機質なからくりという印象を受けた。結界を破ろうとする邪悪なものが現れた時、そうあれかしと術に組み込まれた魔法だからであろう。
「あんな骨もなさそうなやつ、どうやって殴ればいいのさ?」
「お前は本当に素直な奴だ。殴れないなら、殴れるようにすればよいのだ」
先に攻撃をしかけたのはヴァラールだった。
ヴァラールの周囲から青い火種が生まれ、あっという間に業火となって泥の竜を包む。
敵でないようにふるまうヴァラールだが、その口も開き、のどから煌々と燃える炎を吐き出していた。
今まで見た中で最も激しく燃え盛る青に、決してヴァラールが泥の竜を侮っているわけではないと感じ取る。
炎に巻かれた泥の竜が不調を嘆いて悲鳴をあげた。
腹の底に響く、低い低い鳴き声は、数百のほら貝をまとめてデタラメに吹き鳴らしているようだ。
「ウェルダンはいったか?」
泥の竜の全身をおおうほどの炎を生み出し続け、さすがに疲弊したらしい。
一度火を吐くのをやめた途端、水平な尾びれが暴れだす。
顔面すれすれをよぎった尾びれにハルバードをふるうと、尾びれの一部が切れる。
切られた尾びれは大地へ向かい、たどり着く前に乾いた土になって風に紛れて消えた。
「ばか、ミディアムレアだッ」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは! 流石に殺すまではいかんかったか。しかし、殴れるようにはなったぞ」
火で水分を奪われた泥の竜の皮膚はひび割れ、もろくなっていた。
いかにもどんな攻撃も受け流しそうであった、豊かな水をたたえた肉はほとんど残っていない。
十九メートルはある体躯を一気に焼いたのだから、竜、そしてヴァラールのすさまじさを認めるべきだった。
「ああわかったよ、君はすごい! でも尾びれを切ったところでちっともぶれる気配がないね」
「空飛ぶクジラだ、泉を守る魔の生き物だ。あれだけ巨体となれば、ほとんど魔法で浮いているようなものなのだろう。俺とて飛ぶ際は多少魔力を使うのだから」
「じゃあ一度目的を整理しよう。わたしの目的は泉にいくこと。どこまでやれば任務達成?」
泥の竜が跳ねる。それだけで巨大な胸びれや尾びれに注意し、ヴァラールの炎よろしく放たれてくる泥の玉がレフォリエとヴァラールを襲う。
かわすため、ヴァラールは幾度も上下を入れ替え、緩急を自在に操って空を舞う。
レフォリエは振り落とされないために、太ももでしっかりとヴァラールにつかまなければならなかった。
チャンスを感じ取れば、ハルバードをふるい、泥の竜の肉の一部をそぎ落とす。
だが巨体をすべて削り取るには微々たるもの。
しかも時を経るほど、泥の竜はうるおいを取り戻していく。どうにも内側から土くれを泥にする清涼な水がこんこんと溢れ出しているようだ。
「ちょっとずつ切り分けて、っていうのは骨が折れそうだね。わたしたちだけの骨が」
あまり時間とエネルギーの猶予はなかった。早期に決着をつけねばなるまい。
「クジラを捕まえるのに立ち会ったことはある?」
「どころか、参加したとも」
「どうやったの? わたしでもできそうかい?」
「網で封鎖して閉じ込め、小舟で近づいて毒矢でしとめる」
「効きそうにないなあ!」
すべて切り落とせば終わるだろうか。いや、とても間に合わない。
ならば泉まで逃げ切ればよかろうか。いや、この守護者がそこまで逃がしてくれるはずがない。
「だったら一発、どんと狙ってみるか!」
「ほう?」
「ヴァラール、泥の竜にできるだけ近づいてくれる? あいつに飛び乗れるぐらいに!」
「あいわかった」
ともに戦う時間が長引くほど、相うちは短く、会話が速くなっていく気がする。
気は急いて、感覚が磨き上げられていく。
頼もしい戦友、油断できない環境に育てられていくような高揚。生き延びるために自然と胸襟が開かれるような心持だ。
巨大な敵に対し、レフォリエは未熟で小さな存在であるというのに、場違いに笑顔まで浮かんでしまう。
まるでヴァラールと背中を任せあえる友人になれたような気持ちになれたのだ。
わずかに腰を浮かし、接近の機会にそなえる。
泥の竜は泡を吹き出した。泡は泥の竜より一回り小さなくじらとなって、レフォリエとヴァラールを囲む。
「はっ! いよいよ逃げられんな!」
大小の泥の竜は囲む輪を狭める。口を開け、下から突き上げるように迫るのをすれすれで避けていく。
一匹を大きく避ければ、他の泥の竜にとらえられてしまう。ゆえに小さく、あいまを縫うように飛ぶ。
一瞬の油断もない見事な飛行であった。
――わたしばかり負けてはいられない!
本体である泥の竜にたどり着き、レフォリエもまた飛んだ。
翼も羽もない人間は、しかし各々に五本の指を備えた手足で泥をつかむ。
乾いた箇所はパラパラもろく、潤う箇所は指が飲み込まれるように沈む。
レフォリエは滑走した。
――なんてことはない。足が沈むより早く、もう片足を前へ動かす!
すでにアクロバットに飛び回る竜に乗るだけで、足どころか全身が悲鳴をあげていた。
神経が焼き切れる、もう二度と歩けないのではないかという妄想が足を鈍らせる。
だが無意識に疲弊に甘え、進む速度が緩めただけ泥は容赦なくレフォリエを食らう。
「うおおおおおおおお!!」
昔、集落でレフォリエをいじめたクソガキのようにみっともない雄たけびをあげた。
当時はくだらないと思っていたが、大きな声とは存外気合が入るものらしい。
レフォリエは走ることだけを考えた。真っ白になりかける頭で、目的地であった泥の竜の口元までかけぬけた。
「やってやるよ」
本当に考えなしのばかをやるのはここからだ。
レフォリエは笑った。
そうして瞬きを一度する時間分、己を鼓舞すると、泥の竜の口のなかへ飛び込んだ。




