不思議な同居人
「ん……?」
眠りから覚めたのは、嗅覚に刺激を受けたから。
甘い香りだ。砂糖の強い甘さではなく、ミルクの柔らかな甘み。
匂いに誘われるように瞳を開けてみると、景色が開けた。
何度眠りから覚めても、この瞬間を幸せに思う。
……もう、見えないと思っていたものね。
過去、戦いによって失われた視力。それが戻ったことが、今でもどこか信じられない。
柄にもなく「明日起きたら見えなくなっていたらどうしよう」なんてことを、毎日眠る前に考えてしまうほどだ。
それくらい、再び見た世界は色で溢れていて、美しかった。
そして今、その美しい世界には白がある。食器に注がれた白は液体で、側にあるスプーンで掬ってみると粘り気があった。
「これは……?」
「あ、起きたんですね」
「……アルジェ?」
調理場の方から銀髪の少女が顔を出す。
アルジェント・ヴァンピール。どういう縁か、暫く一緒に暮らすことになった少女だ。
煌めく銀髪に、鮮血のような赤い瞳。見ているだけで目の覚めるような美少女で、私の光を取り戻してくれた恩人。
彼女は赤い瞳を弓の形にして微笑むと、こちらに話しかけてくる。
「おはようございます、フェルノートさん」
おまけに声まで可愛い。同じ女として、見てるとちょっと自分の自信が無くなってくる生き物だ。
「え、ええ、おはよう……あの、アルジェ、これは……?」
これ、というのはもちろん今私の目の前にある白いものだ。
見たところ濃い目のスープのようで、香りはかなり良いけれど……。
「シチューです」
「シチュー……?」
「嗚呼、こっちにはないのかな……ええと、牛乳とバターで作ったスープです」
「……なんだか、ドロドロしているけれど」
「小麦粉とお芋でとろみがついてますからね」
アルジェの返答には迷いがない。つまりは本当にちゃんとした料理なのだろうけど……。
……この子が、作ったのよね?
正直、少し怖い。
出会ってから今日まで彼女が食事を作るところを見たことは無かったし、彼女は「三食昼寝おやつ付きで養ってくれる人」を探していると公言するほどの怠け者だ。
そのアルジェが、料理なんて出来るのだろうか……知識として持っているだけで、適当に作ったのでは……。
そんな私の心配をよそに、アルジェは気軽な足取りでこちらに歩み寄ってきた。彼女はこちらの側まで来ると、私が先を沈めたスプーンを取って、
「ふー、ふー……はい、どうぞ」
「ど、どうぞって」
「味見です。どういうものなのかは、食べてみれば解りますよ」
笑顔でスプーンを差し出されると、もうどうしようもない。
……お腹壊したら治してもらいましょう。
料理の腕は不明だけど、回復魔法の腕は折り紙つきだ。恐らく世界中探しても、回復魔法の技能レベルが10なのは彼女だけだろう。
一度、彼女の仕事ぶりをじっくり見たことがある。失った身体の一部すら元通りにしていた。あれは回復というよりも、「再生」の域に達している。
あそこまでの力を持っていればもっと噂になっている筈だし、どの国だって彼女のことを放っておかないだろうに、今まで名前どころか噂すら聞いたことがない。いったいどういうことなのだろうか。
その辺りも含めて、彼女には謎が多い。解っていることはとにかく昼寝が好きなことと、かなりの面倒くさがりで、日の光が平気な吸血鬼ということだけ。
その謎だらけの不思議な同居人の謎のひとつが、今解けようとしているわけだけど……。
「ん……」
諦めて口を開けると、温かな液体が流し込まれた。
舌全体が浸るような、とろみのあるスープだ。味はやはりミルクのものだと解る、甘いもの。嗅覚を刺激する風味には、微かにバターの香り。
濃厚だけど不思議と体に染みるように入ってきて、しつこくは感じない。後味はクリームのような優しい甘さで、ほっとするものだ。
舌の上に残るジャガイモの粒はざらりとしているけれど、長く甘さを残してくれる。その粒も、甘味に誘われて湧き出た唾液によって流されて、するりと消えていく。
「……美味しい、わね」
それもビックリするほど。信じがたいけど、アルジェは料理ができるみたい。
私が勝手に不安になって勝手に心底安心していることなんて、向こうは知るよしもない。私の評価に満足げに笑って、
「えへへ、良かった」
……可愛い。
我ながら何を考えているんだろうと思う。でも、アルジェは本当に可愛い。
特に八重歯だ。笑ったときにちらっと見えるそれが、私には凄く魅力的に感じる。噛まれても良いんじゃないか、そんなことを考えてしまうくらいに。
それに、いつも無表情というか眠そうなのに、急に微笑むのだ。そんなのずるい。不意打ちも良いところだ。
……私、ノーマルだと思っていたのだけれど。
元いた職場は女性ばかりで、そのせいか女同士で……というのもあった。私自身、誘われたというか告白されたこともある。
あの時は心が動かなかったけど、アルジェを見ていると私に告白してきた子達の気持ちがわかる。今まで持っていた常識が根本から変わってしまうくらい、アルジェは可愛い。
「パンと食べると美味しいんですよ。そろそろ焼けますから、もう少し待っててくださいね」
「……貴女、パンまで焼けるの?」
「ええ、今日のは少し簡易なもので、フライパンで焼いてますが……ちゃんと生地から作ってます。あと、軽くキッチンの掃除もしておきましたよ」
「はぁ!?」
今度はさすがに声を出して驚いた。
慌てて立ち上がって、急ぎ厨房を確認して――愕然とした。
……何これ、私が掃除するより綺麗じゃない!?
明らかに軽く掃除した程度じゃない。この家を買ったばかりの頃のように、あっちもこっちもピカピカだ。
床も壁も天井も汚れひとつなく、調理器具までもが磨かれていると解る。
あまりの綺麗さに、思わず口が半開きになってしまった。今の私は他人から見ると、さぞバカみたいな顔をしていることだろう。
「なぁに、これぇ……」
「気に入りませんでしたか? 調理器具や調味料の並びは変えてないんですけど……」
「ちょ、ちょっとアルジェ!? 貴女、こんなに家事できたの!?」
「え、あ、はい。それが何か?」
「だって貴女いつも寝てばかりで……!」
「確かに僕はいつも寝てばかりで、何の役にも立たない置物みたいな存在ですね」
「そこまでは言ってないわよ!?」
いけない、またこの子のペースだ。
アルジェは独特というか完全に独自のテンションで、話しているとこっちの話題が潰されてしまうことがある。今はその流れだ。
普段ならそれでも構わないけれど、これはちゃんとハッキリさせておきたい。彼女の謎が解けると思ったのに、これじゃ寧ろ深まってしまったくらいだ。
別に重要なことというわけではないけれど、この自堕落な子が何故ここまで出来るのか知っておかないと、気になって夜も眠れない。
「どうして、ここまで家事ができるの……? 貴女、三食昼寝とおやつがついてひたすら昼寝ができる生活がしたいんでしょう? だったら家事の技術なんて必要ないじゃないの」
「そうでもないですよ?」
「……私にはそうとしか思えないのだけど」
だってそうでしょう。養われる側の人に、そのスキルは不要のはず。
アルジェはフライパンに被せていた蓋を開け、焼きたてのパンを皿に盛り付けながらこちらの言葉に答えてくれる。
「今のところ養ってくれる人がいないので、それまでちゃんと生きられるようにと思いまして。あと、養ってくれる人だってたまには休みたかったり、調子が悪かったりするでしょう? そういうときのためにも、家事は一通り覚えてるんですよ」
言われてようやく、アルジェの言った「そうでもない」の意味がわかった。
彼女は「三食昼寝おやつ付きで養ってくれる人」が現れるまでしっかり生きていたいし、その後もその人にずっとくっついて生きるために、時には労うこともしようというのだ。
つまりはアルジェの言う「養ってくれる人」というのは、ただの奴隷ではなくアルジェにとって大切な人になるのだろう。
おんぶにだっこで生かされたいとは言うものの、実際のところはアルジェの方でも相手を支える気持ちがあって、その為に必要なものをきちんと習得しているということだ。
アルジェは私が思っていたのとは違う考えで、「養われたい」と言っていたらしい。
「……その努力、なんでもっと真っ直ぐに向けられないのかしら」
これだけのことができるなら、真面目に生きることだって出来るでしょうに……。
謎は氷解したけど理解ができないという現実に、私は妙な頭痛を覚えた。
その日のご飯はすごく美味しいというか正直私が作るものよりも出来が良かった上に、アルジェは食後にクッキーまで焼いてくれたのだけど、なんだかひどく釈然としなかった。




