57 侵入
「それじゃあ、行こうか。」
小声で、ノアが囁く。
俺と妻は黙って頷き、ノアに続いて借りている教会の部屋の窓からこっそりと外に出た。
その後ろから、ひらりと華麗にコトラが出てきて、教会の塀に上る。
外はすでに暗く、月も雲に隠れて出ていない。
暗闇に紛れて俺たちが向かう先は、聖女が滞在している宿だった。
本来は明日、教会と孤児院を訪問するはずだった聖女は、急な体調不良でしばし療養することになったという。
だから明日も教会に自由に出入りしてもいいと、リサが聖女の身を案じながら教えてくれた。
十中八九、体調不良は嘘だろう。
おそらく彼女を再び王子たちの都合のいいように動かすための策を講じようと、部屋に軟禁しているのかもしれない。
放ってはおけず、こうして深夜に忍び込んで聖女と話をしようと決めたのだ。
「見張りは多いけど、大したことはないね。」
呑気にあくびをしている兵士を眺めて、ノアが言う。
そんなノアの言葉に続いて、コトラがゆっくりと兵士に歩み寄る。
兵士は猫好きだったのか、目尻を下げて猫の鳴き真似をしてコトラを呼んだ。
コトラもそれに応えるように一鳴きする。
にゃおん、とコトラの鳴き声が響いたと思ったら、兵士の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
どうやら眠らせたらしい。
ノアとの魔法の訓練を通して、俺は何となく俺以外の魔力の動きも感知できるようになっていた。
そのためコトラが兵士に近づいた段階で、魔法を使おうとしていることを察していたので、驚くことはなかった。
「コトラ、どんどん魔法上手くなるなあ…。」
我ながら少しは上達しているつもりだったが、俺はまだこんなにスムーズに魔法は使えないし、そもそも人を眠らせる魔法自体無理だ。
人に直接干渉する魔法が苦手なのだ。
だから王子たちの言っていた洗脳魔法も使えないし、なんなら治癒魔法もお手上げ状態。
妻は精神に作用する魔法は使えないが、肉体に作用する魔法は使うことができる。
だから、ノアとの訓練で怪我を負った際は、妻に治療をお願いしている。
昼間の少女も、妻の魔法で治癒することはできた。
そうしなかったのは、この世界で治癒魔法が貴重だからだ。
初級の簡単な治癒魔法でさえ、使えるのは浄化魔法と同様、神官と聖女に限られるという。
周囲からの疑惑の目は避けるに越したことはないということで、あの場では念のためにとノアに持たされている応急薬が活躍したというわけだ。
「伊月くん、ぼさっとしない。気づかれる前にさっさと行くよ。」
ノアに注意され、慌てて宿の塀をよじ登る。
そして宿の裏庭に着地した。
聖女の宿泊している宿は、この街一番の高級宿。
しかし塀の後ろは裏通りに面しているため、こうして簡単に侵入することができたのだ。
…いや、一般人なら塀を上るという選択肢は最初から浮かばないだろう。
塀は宿の3階に届きそうなほど高い。
加えて周囲を見張りや巡回の兵士もいるため、上っている間に見つかるのがオチだろう。
俺たちがすんなり塀を上れたのは、ノアから支給されている靴の効果が大きい。
ノア曰く、靴の裏は「企業秘密」の特殊素材でできているため、吸盤のように塀にくっつくことができる。
また簡単に外せるため、ペタペタと塀を歩くように上ることができたのだ。
塀の表面には凹凸があり、手をかけるところが多かったことも、効率よく塀を上れた理由の一つだろう。
「彼女の部屋はどのあたりだ?」
「最上階の5階、右の角部屋だよ。」
また高いところに…。
そう思ったが、塀と同じ要領ですんなりと壁を上り、バルコニーに到着する。
部屋のカーテンはきっちりと閉められており、中の様子はわからない。
話し声などは一切聞こえないから、彼女は今一人でいる可能性もある。
しかし部屋の中、少なくとも外には見張りがいるだろうから、安易にコンタクトをとることも難しいだろう。
そんな俺の思考を嘲笑うように、コトラが唐突に鳴き始めた。
にゃおん、にゃあん、にゃおーんと、繰り返し、繰り返し。
ついでに窓を爪でひっかくものだから、何とも不快な音が鳴り響く。
止めようかと思ったが、ノアに「大丈夫」だと制止された。
しばらくそのままにさせていると、カチャンと窓のカギが開く音がした。
扉がゆっくりと開き、顔を出したのは聖女だった。




